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『走れメロス』の二次創作を書く授業

 『走れメロス』の二次創作、を書いたことがある。

 『走れメロス』は言わずと知れた太宰治の代表作で、中学の国語の教科書にも載っている。そう、教科書に載っている。つまり授業で使われる。

 この教材をどのように授業で活かすかというのは各教師に委ねられているところで、手腕が試される部分でもあるだろう。うちの学校の定年間際のベテラン国語教師はこう言った。

「走れメロスの登場人物を使って、小説を書いてください。作中の時間軸の隙間を埋める物語でもいいし、アフターストーリーを自由に想像してもいいです」

 つまり。これは。

 二次創作!

 うちの中学はそこそこ変わっていて、不思議な授業もいくらかあったけれど、小説を書けと言われたのは中学に入ってからは初めてだった(小学校では二度ほどあった)。それで私たちは戸惑って、お互いの顔を見合わせたりした。先生は続ける。

「文字数は400字詰め原稿用紙一枚」

 それはなんともまた短い。400字で物語を作るのは至難の業だ。しかし文章を書き慣れない中学生たちには妥当な枚数だったのかもしれない。

 さて、ではどんな話にしようか。頭の中でさっそく物語を組み立てようとしたところで先生が付け足した。

「ただし、テーマがあります。テーマは『やさしい嘘』。いずれかの登場人物が『やさしい嘘』をつく話です。タイトルは『〇〇のやさしい嘘』としてください。この条件に沿っていればどんな物語でもかまいません」

 やさしい嘘。ずいぶんと狭いテーマだ。嘘、ではなく「やさしい」嘘。かなり限られる。

 先生はそれ以上私たちにヒントを与えることはなく、授業はお開きになった。課題には数日の猶予を与えられ、私たちは頭を悩ませながら週末を過ごすこととなった。テーマも難しければ400字に収めるのもむずかしい。そして太宰の文体を真似するのが何よりむずかしい。

 けれどそうして試行錯誤した時間は、私たちの記憶に今もしっかりと刻まれている。ほかの先生のもとではまず経験しなかっただろう、貴重な体験だった。


 さて。先生は、一体なぜこのような課題を出したのか。意味もなく生徒に難題をふっかけるような先生ではなかったから、ちゃんと意味があるはずだった。

 まずは単純に作文しろということだろう。文章力とは書かねば養われないもので、受験がない中高一貫校の中学三年生が取り組む課題として作文があてがわれたのは理解できる。

 それから、文学作品をしっかり味わえということが挙げられるのだと思う。作中の隙間を埋めるにしろ、アフターストーリーを書くにしろ、『走れメロス』の世界観を損ねてはいけない。太宰の文体を読み込み、「それっぽい」文章を書かなくてはならない。何度も原文を読めば必然、言葉選びや文体の妙を味わうことになる。

 さらに言えば、齟齬があってはいけないから原作をしっかり読み直さねばならない。「書いてあることを書いてあるまま理解する」というのは現代において必須のスキルだが、意外とできていない人が多い。

 たとえばフィロストラトスとメロスのやりとりについて詳しく書こうと思えば、メロスがほとんど裸体であったこととか、時間帯が夕方であったこととか、フィロストラトスがセリヌンティウスの弟子であったこととか、読み取らねばならない情報はいくらでもある。だから小説作品の二次創作を書くというのは、「書いてあることを書いてあるまま理解する」ことの練習にもなる。

 けれど一番求められているのはやはり、作品の主題を理解する力なのだと思う。

 もとの作品の主題をまったく無視しては、もとの作品が死んでしまう。実写化が原作の重要なエッセンスを取りこぼしてまったく別の作品になっている、という話はよく聞く。

 そういった悲劇は原作をしっかり読解して主題を掴んでいれば起こらない齟齬だ。実写化と二次創作で事情は違うが、私たちに課せられた課題にも同じことが言えるだろう。つまりこれは、『走れメロス』の主題をしっかり理解しているかが問われる課題ということになる。

 「やさしい嘘」というテーマもこれを意識したことだと思う。「嘘」は『メロス』の作中でもっとも嫌われる言葉だ。メロスは誠実であるために走るのである。だから先生は、『メロス』の世界に、あえて「嘘」という主題と相反するテーマを取り入れて私たちが何を書くか見ようとした。そして「嘘」だけでは私たちがあまりに迷走してしまうから「やさしい」とつけた。そんなところだろうか。

 先生の本当の意図はわからない。けれど私はこのように想像した。

 評価だけをするなら小説なんて書かせないほうが楽なのだ。けれど先生はきっと、私たちのことを考えてこの課題を課したのだと思う。

 作文、事実の読み取り、作者の意図の読解、それらの複数のスキルが試される。それが二次創作小説なのだ。先生はだから「小説を書け」と言ったのだ。

 つまり、二次創作小説を書くというのは、めちゃくちゃ国語の勉強になるっていうこと……?

 それは15歳の私にはとんでもない気づきだった。それだけではない。作者の意図を読解し、それを汲んだ文章を書くというのはほぼ評論だ。二次創作小説というのは原作の評論を書くのとほぼ同義なのである。この気づきはのちの私の二次創作スタイルを決定づけ、私の小説は友人からことごとく「論文」と批判されることになるのであった。



 ここからは完全に余談だが、私が実際にどんな話を書いたか記してみる。

 「やさしい嘘」についてまず考えられるのは、フィロストラトスが「嘘」をついたとする解釈。作中でフィロストラトスは「もう間に合わないから走るのをやめてください」とメロスに言った。これが嘘だとしたら? フィロストラトスはセリヌンティウスの命令で、メロスの命を守るために「間に合わない」と言ったのかもしれない。するとたしかにこれは「やさしい嘘」ということになる。

 あるいは最後にセリヌンティウスが「嘘」をついたとする解釈もできる。セリヌンティウスは言った。「私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。」これが嘘だとしたら。セリヌンティウスはメロスだけに負い目を感じさせるのを良しとせず、自分も「信実」を失いかけたのだと嘘をつくことでメロスに自分を殴らせたのかもしれない。おまえだけが不実なのではない、私もそうなのだ。この「嘘」もまた、「やさしい嘘」と言えるだろう。

 このふたつはすぐに思いついた。だからこのふたつの解釈で書くのは、嫌だった。

 私はひねくれていた。だれかと被るのは嫌だった。きっと先生はそんなに奇抜な作品は求めていなかっただろう。それでも私は、独創性を出したかった。

 まず考える。先生は、『走れメロス』の主題は「信実」であると言った。信実とはまじめで偽りのないこと、誠実であることを意味する言葉だ。メロスを突き動かした「わけのわからぬ大きな力」とは信実であると解釈できる。信実とは決して空虚な妄想ではない。それが『メロス』の主題だ。ならばこの主題は活かすほうがいい。

 ただそのまま活かすのではおもしろくない。「信実とは決して空虚な妄想ではない」ということは、裏を返せば「信実とは空虚な妄想に思えるほど得難い」ということだ。ここを中心にできないか、と思った。

 次に考えたのは作者について。中学三年生だった私は『人間失格』も『斜陽』も読んだことはなかった。ただシェイクスピアが好きで、『新ハムレット』は読んでいた。はっきり言って太宰の『新ハムレット』はよくわからなかったけれど、作品を貫く無力感や虚無感には共感する部分もあった。

 そもそも太宰という人間の人生は、あまりハッピーとは言えない。薬物中毒で自殺未遂を何度も繰り返している。太宰にとって、『走れメロス』とは限りなく理想論なのではないか。むしろメロスのような人間を夢見たからこそ太宰は苦しんだのではないか。太宰の本質はメロスよりも暴君ディオニスのほうが近いのだけれど、ディオニスとは違って手当たり次第に人を拒絶するということができなかった。それが太宰の苦しみの一部を担っていたのかもしれない。

 すべて妄想なのだけれど、ともかくそこまで考えるとだいたい書きたいものは見えてくる。

 主人公はディオニス。メロスの処刑騒動以降、ディオニスはメロスとセリヌンティウスの姿に感銘を受け、人を信じる心を持った。けれど同時に、人に対し相変わらず恐怖心も抱いていた。この世には信じられない人間もいる。それはたしかだ。しかしディオニスは自らのそんな猜疑心に嘘をついた。人は信じられるものだと言い聞かせた。すべての人を信じるようになったディオニスは名君とたたえられ、シラクスの市は栄えた。ディオニスの嘘は人々を救う優しい嘘となった。

 そんなある日、ディオニスは信じていた臣下の奸計にかかりナイフで刺されてしまう。「人を信じる」という行為の難しさを嘆き、それでもなお信実に焦がれながらディオニスは息を引き取っていく。

 原作の主題の裏を返す。こっちのほうが面白い、と私は思った。どうせ国語の授業でしか発表しないのだからこういった趣向の作文があってもいいだろう。

 もう原稿は手元に残っていないけれど、たしか書き出しはこうだ。

 一体どこにあるのだ、信実とやらは。

 ディオニスが臣下に刺された直後の情景から始まり、回想へ。そして最後はまた現在に戻ってくる。最後の一文は書き出しとまったく同じにした。400字詰め原稿用紙という限られた文字数の中でまったく同じフレーズを繰り返すというのはマス目の無駄遣いかもしれなかったけれど、それでもインパクトを重視したかった。

 できた。完璧だ。私は自信作にほくそ笑んだ。

 課題提出の当日、私は友人の推薦でクラス全員の前で作文を読むことになった。あがり症だった私はかたかた震えながら教壇に立ち、原稿を読み上げた。緊張はしていたが自信はあった。

 一体どこにあるのだ、信実とやらは。

 最後の一文を読み終え原稿用紙から顔を上げると、そこには何とも言えない、引きつった顔のクラスメイトたちがいた。読み終わりは拍手をするのがルールだったのに誰も拍手をしようとしなかった。

 やべ、すべったわ。

 そう思った。もうなんかめっちゃ恥ずかしかった。私以外みんなハッピーエンドの作品を書いてるのに私だけ超絶バッドエンドだもんな。そらそんな反応にもなるよね。のちの話になるが、2020年アカデミー賞授賞式の翌日にパラサイトを見に行ったら、上映後、満席の客席がみんな呆然とした顔をしていた。アカデミー賞受賞したから見に来てみたらやべー気味の悪い作品だった……。全員がそんな顔だった。私のメロスアフターストーリーを聞いたクラスメイトもちょうどそんな感じである。

 というわけで、奇をてらうのはよくない。手堅くやるのも大事である。とはいえ、先生にはそこそこウケていたのでやっぱり今でも私の中では自信作なのだった。


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