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存在がすばらしいのだと思った

自己肯定感とか自己承認とか自己価値とか、そういうものときれいさっぱり無縁に育ったので、40も過ぎてから探検に出始めた、どこで手に入りますかそれ、と。

どうやら自己肯定感がもてると夢のような世界がひろがるらしい。そんな蓬莱の玉の枝が欲しいと思った。やたらめったら闇討ちにあうこともなく、穏やかに毎日を過ごしたい。どうしてこうなんだいつも私、と。

こういうのを考えるのは、お風呂の時がおすすめです。後ろに誰も待っていない最後を確保してどうぞ、やたら長湯になりますので。

なぜお風呂がいいかというと、体も気持ちもリラックスしているので勝手に瞑想モードになりやすい。シラフでさぁ瞑想モードに入れと言われてもたじろぐこともありますもんね。風呂場のドアは、潜在意識に繋がるどこでもドアなのです。

だいたい枠組みが見えてきたらお風呂からあがりましょう、のぼせるので。

私には価値がないと、そう思ったのならば、角度を変えて見てみようと思った。

私が40余年も大切にあたためてきた「私には価値がない」というビリーフは「私」に適用された「真実」である。ビリーフって何かというと、自分の中で絶対ゆずらない世の理であり、世の正義であり真理である。何がなんでも私には価値がないのだという信念のもとそれは確立されているので、私が私に聞いたところで勝ち目はない。例えばピラミッド破壊せよって言われても、今すぐ丸腰で木っ端みじんにできるもんじゃない。

では対象を変えて見てみます。ご登場頂いたのはこちら。

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近所にある大きな大きな楠です。子供の頃から大好きだった。しょぼくれた日も嬉しい日もここに来る。春にはかぐわしい香りの小さな小さな花が咲き、秋には黒い実がみのる。ここに来れば風は吹き鳥はさえずり樹も歌う。

「では、この樹にならば、価値はありますか?」

そっか、と理解した。

価値があるかないかっていうのは、存在とは全然別の概念なんだと思った。

切り倒して木材として使うつもりならば、まちがいなく価値はあるだろう。根回り6mもあるご神木なのである。大層すばらしい豪邸をも築くだろう。でもそういうことじゃない。私がちょくちょくここにきて、香りを感じて木漏れ日を浴び、根っこに座って山を眺めたりしているこの樹は、もうただただ、そこにあるだけで素晴らしいのだ。「価値の有無」という概念は、対価を伴う経済価値であるのであった。

そうすると私は、その樹から見た私をも見ることができた。

晴れた日にカメラを持って歩いてくる私の姿を、樹は決して、無価値な人間だなんて見ていないのであった。それは鳥や花や太陽と同じく、ただそこにいるだけで素晴らしい存在なのであった。

ビリーフって、色々あるけれど苦しいものも沢山ある。そして大切なのは、もう書き換えてもいいかなと思うものについては、書き換えもきくのがビリーフの素晴らしいところだと思う。私は楠のおかげで、もっとあたたかいビリーフに書き換えることができた。

ありがとう。

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