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込めたるは祈りにあらず |十|


日暮れを待たず


 レモロを連れ、アギレラは山脈を越える。念のためポランカも避け、人影が見えればなるべく別の通路を辿り、時間をかけて北側に出る。
 街道まで出れば、さらに人通りも多くなるがひとまずは一段落ともいえる。旅の街道と農村地帯では人の性質はまるで違う。皆が皆、見知らぬ他人、どこからか訪れどこかへ去っていく余所者で、互いに会釈程度の挨拶はすれど適度の距離感を保ち、過度の干渉を避けるのが作法となる。すれ違う者がどこの誰かなんて誰も気にせず、つまりは襤褸マントに身を包んだ子連れの素性など、誰も気にしたりはしない。

 一言も話さぬレモロ相手に、アギレラは他事無く様々なことを語る。多弁がストライダとしての資質にそぐわぬことを承知しつつ、少しでも子どもが気を紛らわせ、心の傷を忘れてくれればと、陽気に冗談を踏まえ、時折、説教がましくも。

 そんな彼でも、ある程度の線引きはしているつもりでいる。彼が語る話題は、このベラゴアルドでの普遍的な自性である。先々で遭遇した様々な現象、季節ごとに変わる陽の出入りや方角の読み方、タモの木全体を巨大な綿帽子のように包み込むウログモの巣、断崖全体を橙色に染めるボブラシギの糞。あるいは、子どもの力でも何とか追い払うことのできる魔物や獣と、真っ先に逃げなくてはならぬ危険なもの。つまり彼は、レモロくらいの年の子が父親から学ぶ程度の知識だけを、道すがら、気まぐれに伝えている。

 彼はレモロが立ち止まったとしても、休ませようとも、ぶろうともしない。ただ黙って見まもり、また歩き出すのを待つ。決して甘やかさず、語る言葉に余計な情を乗せたりもしない。
 その一方で、必要以上に距離を置き、互いの間に完全に壁な作ることもしない。

 年寄り連中ラームの因業は、不器用さが故なのだ。彼はそう考える。他人との関わり合いにおいてどちらか一方にしか傾けぬから、ただ頑固者と疎まれてしまう。生き死になぞ、他人が負える責任ではなかろう。ならばこそ、関係性など単純なものだ。出会い、時期が過ぎればただ別れる、それだけの話であろう。何も意固地になることもない。

 対人関係に於いてそんなふうに心掛ける彼なので、唖者と聞かされていたレモロが声に出して返事をした時には、率直な喜びを表す。

「喋れるならば、耳も聞こえるということだな」にかりと歯を見せ、豪快に笑う。「ならば、おれの小言が役に立つことも、少しはあろう」

 ところがレモロは、何も介せぬ様子で今まで通りの無表情を続け、不躾にこう訊ねる。

「ばば、」

「なんだ?」
「…婆は?」
「ば…ああ、あの咒師は」反射的に応え、アギレラは目を細める。
「…あの邪な老婆が、すべての元凶であった」短く続けつつ、芽生えた疑念を探る。口を利き、はじめに言葉にした疑問が共に過ごした子どもらでも女主人でも下男でもなく、なぜ老婆なのか? 

「残念だが、モニーンも、イーゴーも…」

「そうじゃね」途中でレモロが割って入る。
「なあ、婆は、化け物だったのけ?」
「なんだと?」その質問にアギレラは足を止める。
「婆は、吸血鬼け?」
「いや、…そうではなかった」子どもの質問に答えあぐねる。
「邪なる意思に捧心し、皆を不幸にしたが、ただの人間だった。おもえば…」あの老婆も被害者かも知れぬ、そう言いかけ、口をつぐむ。

 丁度そこへ馬車が二人を追い越して止まり、幌の後ろが開く。

「よお!」
 男が顔を出し、声を掛けてくる。
「乗ってくかい?」
 左目をすがめた人相のわりには、人懐こい笑顔を向ける。荷台にちらりと見える道具からして、旅芸人の一行らしい。
 
「いや、気にするな!」
 芸人が親切心から道行く旅人を拾うことは珍しくはないが、念のため用心し、アギレラはその場で叫ぶ。
「急ぐ旅でもねえ!」

「そうかい」眇めの男はからりと頷く。二人を過度に引き留めることはせずに、幌柱を軽く叩いて御者に合図を送る。
「楽しみな!」男が叫ぶと馬車はゆっくりと動き出す。

 しばらく緩やかな下り坂が続き、アギレラは小さくなる荷台を黙然と眺めて歩く。ふと振り返ると、レモロも同じ方向を食い入るように見つめている。

「なんだ、乗せてもらいたかったか?」

「そうでねえ」

「ならどうした?」
「あの馬車の男は、なぜ、乗ってげなんてごと、言うたんだ?」
「荷台が空いていたのだろう」
「それだけ?」
「ん?」アギレラは少し考え、希望を込めてこう言う。

「まあ、世の中、そう悪い奴ばかりじゃねえってことだ」



 ベラゴアルドの街道の隅には、一定の間隔を置いて、魔物除けの咒石まじないせきが設置されている。それは魔法使いやつかさ、あるいは地域の咒師たちが何百年も掛け、施された守りの置石である。
 その魔法の加護は、通常円状に広がるものであり、つまり街道側でない方向にも、同じ距離で加護は効いている。
 街道は泥だらけのぬかるんだ道ばかりなので、大概は寄るともなれば旅人は街道を外れ、木陰など少しでも快適な場所を探し、野営を張ることになる。

 二人がひとまず目指すセルポ十字路の街道は、アムストリスモ魔法学校も近く、施された咒石も強力であり、かなり安全な地帯といえる。だからこの辺りを進む旅人はそこを目安に進む。十字路は、ちょっとした街のように賑わっていて、ひとつの観光名所ともなっているからだ。
 当然、人が集まる場所には活気と共に、物取りや喧嘩などの軽い揉め事は堪えぬもの。しかし辻には見張櫓も設置され、タミナ商兵のみならず、レムグレイドの駐屯兵も配備されているので、命を脅かす荒事に発展することは滅多にない。

「すこし早ぇが、今日はここいらで野営を張る」

 アギレラは敢えて十字路までは進まず、手前の小高い丘で一晩過ごすことにする。人の多い場所のほうが危険は少ないとも思うが、もしレモロや孤児院の騒動を知る者と出会う厄介を考えると、ちらほらと十字路の灯りが瞬く程度の、見晴らしの良いこの場所のほうが適所であると判断したのだ。

 そうしてもう一つ、彼は妙な胸騒ぎを感じてもいる。嵐の後の動物の声、湿気、霧、ブーツを濡らす夜露、折れ曲がった小枝、時折不自然に変わる風向きが運ぶ僅かな生臭さ。そういった、到底兆しとも呼べぬほどの生き物の気配、あるいは自然の織りなす残り香が、彼に妙な違和感をもたらせている。



 日暮れを待たずに夕げを囲み、昼間の街道で行商から買った麦団子をふたりで分ける。団子には甘く煮た黒豆が入っている。想定外の美味にアギレラは驚き、目の前で一心不乱に齧り付く子どもを見ては、残りの半分を千切りって差し出す。

「あの咒師に何をされた?」頃合いを見て、アギレラは訊ねる。

なんも」

「酷い仕打ちを受けたのではないのか?」

「何ん、…も」喉を詰まらすレモロに、沸かした湯を手渡す。

「そうか、ならいいさ。で、なんだってあの老婆が化物だと?」

「見ただ」レモロは湯を飲み干し、指についた豆のかすを夢中で舐め取る。

「化け物を?」

 こくりと頷くレモロに、アギレラが唸る。記憶の混同。もっとも有力な推測はそれだ。しかし、吸血鬼に関することはどんなに些細な引っ掛かりであっても、用心しなければならない。
「ふうむ」
 吸血鬼は追跡に繫がる痕跡を残すことはない。一度見た人間に擬態し、その者に成り済ます能力。それは下級吸血鬼スメアニフのみに備わった力であるが、言葉巧みに人間をたらし込むような知恵は上級吸血鬼ストレイゴイにしかない。 
 果たして咒師は変化魔法を扱うことが出来るのか、あの坊ちゃんキャリコにでも、訊ねておくのだった。アギレラは少し後悔する。
 レモロの話が真実であるなら、吸血鬼と人間の老婆が途中で入れ替わったことになる。老女かつ咒師、容姿の似たもの同士であれば、単純な目眩しの咒程度でも、違い子を騙すことなど造作もないとも考えられよう。撤退した理由としては、同種を産み出せぬモニーンに見切りをつけたのか、我らの襲撃を察知したのか。いずれにしろ、これが真実ならば、やはりこの件にはストレイゴイが直接絡んでいたという線が濃くなる。

「咒師の婆は何か言わなかったか? たとえば、お前が理解できぬようなこと、地名でも名前でも、何か思い出せねぇか?」

 その質問に、レモロは躊躇いなく首を振る。

(イハータラ様)

 だが彼は嵐の前、屋根の上で聞いた婆の言葉をはっきりと憶えている。憶えていて、彼はそれを告げることはしない。それは彼が心の内ではじめから決めていたことだからだ。
 なぜなら、例の騒動に気を失った彼は、孤児院を燃やした後の林で目を醒し、アギレラたちの会話を聞いていたからだ。

(見込みのない子どもを、引き取ることはしない)

 彼は、アギレラが言ったその言葉を確かに聞き、憶えている。

(少しばかり、見込みがあるようだね)

 また、かつて婆が自分にそう告げたことも覚えている。無論、幼い彼が言葉そのものの真意を理解することはできない。しかしそれが真逆の意味を持つことくらいは彼にも理解でき、そうだとすれば、どちらかが、なんらかの嘘を吐いていることも推測できる。

 だから彼はこう考える。

(目の前に座るこの人アギレラは、王様じゃない)

 繋がっているようでまるで繋がりのないこれまでの符合に従い、彼はそう判断し、ただ口を噤むのだ。


「吸血鬼の血族には、“根”と“輪”がある」

 黙りこくったレモロを受け、アギレラは質問の角度を変えてみる。
「やつらには、ある共通した咒言葉がある。それは何の魔力さえ帯びず、ただ気休めの言葉に過ぎぬが…」

「…ねにしずみ、わにかえる」
 蒼白で言葉を拾うレモロに同調するふうにアギレラは深く頷き、さらに続ける。
「近年、根の者どもが人間を襲っている」
 そこである羊皮紙の切れ端を渡す。そこには渦と亀裂が重なるのような文様が描かれている。
「こいつを、どこかで見た覚えはないか?」
 反応のなく首を振るレモロにアギレラは小さく嘆息し、それ以上は深掘りしない。

 不意にぬるい風が吹き、薪が弾ける。

 火花が舞い上がり、向かい合う二人がそれを見上げる。

 少し間を置き、アギレラだけが目を落とす。彼のその表情かお、目の前の子どもを見るその眼差しは、何かしらの予感を共にした、深い諦念に沈んでいる。

 どんな兆候を見る?

 何が邪悪で何がそうでないと、どんな兆候が証明できるのか?

 アギレラは懊悩する。
 吸血鬼の狡猾さは計り知れぬ。それはラームではくどいほど伝えられる教訓。書物で、口頭で、幾度となくそう形容される。
 例えば『山吹雪』の伝承。約五百年前のストライダ。北の高地のワイジナクの最後。吹雪の如く魔物を涸らすと呼び声高いその戦士は、吸血鬼に憑かれた年端もいかぬ少女に、寝首を掻かれたという。
 吸血鬼が人を操るのは、我らが人を殺せぬからだ。殺せばアーミラルダの加護を外れ、我らは立ち所に屍人となる。だから奴らは弱き人々をかどわかす。単純にそれが、何の痛手もなく使える、奴らに向けた最も有能な戦兵となるからだ。

 だからこそ、ストライダは非情でなければならぬ。“魔”に触れた者が亞憑きとして区別される真意もそれだ。ラームが亞憑き者に関わることをやめたのは、単に保身の問題だ。その危険性を引き受けるには、もはや我々は数が少なすぎる。
 だが場面に合わせ、個人の判断を委ねるのがストライダでもある。そういう面では、レモロを一時的に引き取る決断に落ち度はない。ただし、情にほだされれば誰だってワイナジクに成り得る。それだけは肝に銘じていなければならぬ。

 そこで思考を止め、アギレラは腰帯の一振りのナイフを外す。
 レモロはいまだ舞い上がる火を見つめている。その顔に恐れも不安も見られない。

「…これを持て」アギレラは低い声でそう告げ、真っ直ぐに腕を突き出す。

 ナイフを握る拳が目の前の火から飛び出す形になり、レモロは一瞬ぎょっとするが、促されるままに怖々とそれを受け取り、ひとまず膝に置く。

「抜いてみろ」そう告げられれば、ぎこちない小さな指先で鞘の留め具を外す。

「ゆっくりとだ」柄を握る時の僅かな緊張。はじめてそれをする者が間違いなく感じるある種の緊張が、アギレラにも伝わる。

「そいつは今日からお前の武器であり、万能の道具となろう。肌身離さず持っていろ」

 レモロは頷きもせず、息を止め、鞘を引き抜く。半身ほど剣肌を覗かせたところで動きを止め、ごくりと生唾を飲む。

「必要な時に、そうして抜くが良い」

「必要なとき?」

「そうだ。薪を集めや、食糧を刻むとき、なんならスープを混ぜるのにも使える。でなけりゃ、孤独や恐怖を感じた時にでも、そいつを抜いて心を落ちつかせるのもいい」語りつつ、子どもの挙動に注視する。

「…無論、敵を倒す時にもだ」

「敵を?」

「そうだ、お前の敵だ」
 それを聞くと、レモロは僅かな躊躇いの後に鞘を抜き、切っ先を上に向け、銀の輝きに眩むことなく凝視する。

 信じねば世界は闇だ。アギレラは声に出さずに呟く。

 確実な悪はあるが、確実な善はない。難儀だがそれが現実だ。だからこそ確実を選ばねばならぬ。生き残るためにはどんな兆候を見る? どう動き、どう決断する? すべてはその連続だ。心配するな、信じてさえいれば、世界は単純だ。

「歴代のストライダが残したいさおし。吟遊詩人も詠う有名なものに、こんな一節がある」
 独白のように声に出す。子どもがすでに、その刃に魅了され、自分の言葉など聞こえていないことを承知しつつ、彼は言葉を続ける。

「刃に込めたるは 祈りにあらず
 振るう得物は 力にあらず
 斬り伏せたるは 敵あらず
 我、唯、深き歎きを友とし 野を行かん」


─ 続く ─


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