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酔いどれも殺すに及ばぬ

—レムグレイド歴三百二十八年 紫千鳥六の月—

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 レムグレイド大陸北、港街ノマリナの裏路地にぼろマントに長身を隠した男が歩く。行く先ではごろつきたちがたむろし、手前には舗装もされぬ地べたに物乞いが座り込んでいる。

 目に留めたごろつきたちが、さっそく男の品定めをする。路地を通り抜けようとするハースハートンからの田舎旅客から、僅かばかりの“みかじめ”を頂戴しようとする魂胆があるためだ。

 だが、彼らは誰一人として動きだそうとはしない。男が物乞いの差し出す欠けた皿に銀貨を投げ込めば、むしろ身を固まらせ、示し合わせたように道を譲っていく。大股で泰然と過ぎる男をやり過ごし、彼らは自分たちの判断が正しいことを確信する。その巨大な体躯と険しい顔立ちから。鷲鼻の下にびっしりと繁る、針金のような黒髭から。何より、ぼろの長マントから飛び出る重厚な柄頭から。

「何者だ?」「あれは人殺しの顔だ」「マントの奥には何を隠してるか知れねえ」路地裏の暗がりから大通りの陽射しの中へ男が消え去ると、ごろつきたちは口々に噂する。


 路地を抜けた男は、賑わう大通りをしばらく進む。酒場通りの路地を曲がれば、兵士の姿が多くなる。見知ったタミナの民兵が軽い挨拶をし、レムグレイド兵はいぶかしがりながらも男を見送る。

 男は構わず大股で通りを抜け、海岸沿いに併設された兵舎砦まで来る。金鷹に荒れた嵐の塩害が目立つ中、朽ちた防砂林の巨木に身を持たせ、そのまま数刻を過ごす。初めは男の容貌に幾人かの兵士が気付き、首を傾げたり怪しんだりする場面もあるが、誰ひとりとして声を掛けたりはしない。そうして佇む男は気配無く木肌と同化し、そのまま一昼夜を過ごす。

 明け方になると、砦から物々しい装備を携えた数名の小隊がやってくる。すると男は巨木からぬらりと離れ、隊の前に立ちはだかる。

「獲物はイエガーと聞いた」

 唐突に現れ、出し抜けに話しかけてきた大男に、兵達がびくり跳ね飛び、慌てて長槍を突き立てる。

「ああ、あんたか」その穂先を払い除け、隊長と思しき男が前へ出る。

「来ないかと思ったぞ」声を裏返し、おどけてみせる。

「定刻どおりのはずだ」それだけを告げ、男は隊長と並び、前列に加わる。

「おれを覚えているか?」隊長は帷子のフードを脱いでみせ、どこか滑稽な、ぎょろりとしたカエルのような目玉を向ける。

「覚えているとも」男がそう告げ、マントから太い腕が伸ばす。のし掛かる重みで面食らう隊長に構わず、男は気安く言葉を続ける。

「だが以前のお前は、ずいぶん生意気なガキだったがな。シンバーよ」

「はっ!」それを聞いたシンバー隊長は嬉しそうに笑う。「それが今じゃ、ノマリナの治安を預かる小隊長殿だ」ご覧あれとばかりに手をかざし、武装した若い部下たちを自慢する。そうして彼は大男を眩しげに見上げる。

「しかし、あんたは変わらんな、ゴンゴール」




 小隊は街道を逸れ、荒れ野に入る。数刻ほど進んだ先、現場が近くなるとシンバーが事のあらましを説明する。

「まずタミナの商人が殺されてな」

 臓物を食い散らかされた様子から、はじめは野犬か狼を疑った。しかし、遠吠えも聞かず、群れの徘徊も足跡も目撃されず、別の可能性を疑い始めた頃に次の犠牲者が出る。そんな事件が白鵜から始まり、紫千鳥になる頃には、実に十八人もの犠牲者が出る。皆、同じように内臓だけが喰われていた。

「十日ほど前、ここで旅人の死体が発見された」シンバーが指差す場所には、未だ黒く変色した土が湿っている。ゴンゴールはしゃがみ込み、ひと摘まみした大地を嗅ぎ、辺りを見渡し立ち上がる。見つめる先、タミナ街道の沿道には、定期間隔でしっかりと咒印の施された石柱が据えられている。この場で倒れた旅人も、街道を逸れなければ命を失うこともなかったかもしれない。

「開けた場所だ。這った跡も、争った痕跡もまるで見られない」少ない手掛かりでのゴンゴールの推測。

「だから獣の仕業はないって考えてな」

「ではなぜ、すぐに我らを呼ばなかった」

「兵隊のもっとも悪いところは、」シンバーはばつが悪そうに頬を掻く。

「素早く行動に移せないところだな」分かってくれよ、そう付け加える間には、すでにゴンゴールは歩き出している。

「なにせストライダを呼ぶとなると、上が煩いんだよ」慌てて追いかけ、シンバーが言い訳がましい言葉を加える。

「この場所は、街道からも近い」ゴンゴールはおもむろに街道を指差す「あれは、街境の楔石くさびいしに見えるが?」

 そう告げる広い背中がさして責めている訳でもないことを察知し、シンバーは白状するふうに腕を振り上げる。

「そうだよ! あそこからおれの管轄だよ。このまま魔物がまじないを無視して街に近付いて来るとなると、」

「…出世に響くか」

「で、どうなんだよ、魔物なんだろ?」すがるように訊ねる。

 呆れて鼻を鳴らしたゴンゴールは振り向きもしない。しかし横顔だけで小さく頷く髭ずらに、シンバーはひとまず安堵の息を漏らす。

「そりゃ良かった。魔物じゃなかったら上から何言われるか。おれたちみたいな叩き上げは、一度の失態で沈んじまう。国もモートリアの内紛にようやく介入したからな、おれもまだまだこれから出世を…」道すがら、ぶつくさと兵卒の苦労話をぶち続ける。



 兵たちはゴンゴールに従い、荒れ野を巡回する。彼は時折立ち止まり、彼にしか分からない手掛かりを探り、何も告げずにふたたび歩き出す。そんなことを夕刻まで続け、陽が暮れても歩き続ける。

「以前、この辺りを見回ったのは?」

 シンバーは曖昧に首を振り、念のため部下に確認してから肩をすくめる。

「いや、この辺りには誰も来ちゃいない。…なにか見つけたのか?」

 質問に答える代わりに、ゴンゴールは追いついてきた兵士たちを指差す。長い行軍でくたびれた兵たちは、槍の石突きを地面に突き立て、杖代わりにして荒れ野を歩んでいる。

「乾いた大地だ。ここのところ雨は降っていない」

 しゃがむ彼に併せ、シンバーも地面を睨み首を捻る。たしかに荒れ野の方々に、杖かなにかで乾いた砂を掘ったような跡がある。

「海からの風が吹けば足跡はすぐに消えるが、槍でえぐった跡はそう消えるものでもない」

 地面を探りながら再び歩き出すゴンゴールに、シンバーは部下達と顔を見合わせ、その背中に従っていく。しかし、陽の暮れた仄暗い景色では、かざす松明の先は闇しかない。


 そうして兵達はくたくたにまるまで歩き、夜更けに見渡しの良い盆地を見つけて野営を張る。

 皆で火を囲み、各々が持参した干し肉を炙る。ゴンゴールが遅れた兵たちを待つ間に仕留めた野兎を皆に分けると、隣に座る若者が代わりに塩をくれる。

「吸血鬼を追っているんだってな?」場が落ち着いた頃にシンバーが口を開く。

「もう十年になる」髭ずらが短く答える。

「ふえ、気が長えこった」シンバーは関心なさげに漏らし、囓った肉の筋をほじくる。

「ほんとにいるのかい、吸血鬼なんてやつらが、この大陸に?」

「それはわからん。だが『根の一族』と呼ばれる危険な者どもがドラゴニアから渡ってきたことは確かだ」

 必ず仕留めて見せる。そう告げ、ストライダが口を噤むのを切欠に、シンバーは本題に入る。

「で、やっぱりイエガーなのか?」

「別の魔物だ」ゴンゴールは即答で断言する。

「だが、そう大型の魔物ではないことは確かだ」にわかに見せた若い兵たちの動揺を受け、彼は敢えてそう付け加える。

「なんにしたって、退治に十年もかかっちゃ参るぜ」

「この兵力だ。朝にでも蹴りはつくだろう」確信めいた声でゴンゴールは告げ、こう続ける。

「だが、もう少し確かめたい。被害者の心臓や喉の傷はどうだ? 僅かにでも、刃らしき傷など見られなかったか?」

「魔物の仕業を装った物取りだと、そう言いたいのかい?」シンバーの声が裏返る。

「まさか、いまさら魔物じゃないなんて言わないよな?」やはりそこだけが心配の模様。

「そう焦るな。可能性の話をしているだけだ」

「けど、内臓だけを囓るってのは、イエガーだろ?」

業畜顔ごうちくかんばせは、単純な幻覚魔法で子どもや老人に化けるが、近づけば幻覚は薄れる。誰しも油断して近づきはすれど、完全に欺されたままに殺されることは稀だ。なので、辺りには少なからず争った形跡は残る。しかし、現場はどれもそうではなかったのだろう?」

 兵達が喉を鳴らし神妙に頷く。皆は未だ、慣れぬ魔物退治とは別で、不気味な噂ばかり聞くストライダという存在自体を警戒している。

「もったいぶるなよ。なにか掴んではいるのだろう?」シンバーがやきもきした声を出す。

「あらかたの予想は付いている」だからこそ彼は、こうして気安くシンバーの質問に応じている。まず勝ち取るべくは信頼。それが仕事を円滑に進めるための彼の密かなる信条である。

 同時に彼は、物怖じも遠慮も知らぬこのノマリナの小隊長を少なからず好ましく感じている。兵達の士気も上場である。皆若く、血気盛んで手柄に飢えている。魔物を狩る為に何より重要なものは勇気だ。それに裏打ちされるものがくだらぬ野心だろうが何であろうが、そんなことはどうでも良いことだ。

 そうして彼はマントの奥から水筒を取り出し、髭を湿らせる。「タミナの酒だ」そう告げ、シンバーに手渡す。

「酒? 酒だと? これから魔物を狩るというのにか?」

「戦い前に、景気づけは必要だろう」

 シンバーはいぶかしがりながらもほころぶ顔は隠せず、一口含み深く溜め息を吐いて満足げに頷きもう一口。含んだ酒を飲み干す間もなく続けてもう一口。そこで名残惜しげな彼を残し、水筒が引き剥がされる。

「少し情報が足りないのだ。教えて貰えないか?」ゴンゴールはそのまま彼を引き寄せ肩を組み、火の向こうの兵たちを見渡す。

「荷物を荒らされた痕跡はない」程なくして、ひとりの兵士が小声で意見する。「被害者は何も盗られちゃいなかった」「物取りの仕業とは考えられない」

「いいぞ、その調子だ」気安い合いの手が入る。すると、厳つい容貌とは裏腹な気さくなゴンゴールの対応に、次第に皆も打ち解けてくる。

「服が脱ぎ散らかってたって話も聞く」「この暑さだ。薄着になって眠っていたのだろう」「だが白鵜の寒空に下着姿だったってのも聞いたぜ」

 皆が口々に知りうる事件の証言をはじめる。

「被害者に女や子どもは?」

「いや、殺された連中はみんな男だ」

「なるほど。他に変わった様子は?」

 しばしの沈黙の後、隣の若い兵士が首を捻る。

「なんでも、下半身を剥き出しにしていた死体もあったと聞きます」

「ふむ。それで合点した」

「魔物か?」そう問いかけるのはやはりシンバー。

「うむ。…少しばかり珍しい魔物だ」多少含みを持たせたストライダの物言いに皆が顔を見合わせ、次の言葉を待つ。

「敵は青脚欺しょうきゃくあざ、エムプーサという」黒々とした瞳に不意に煌めいた獣のような夜目に、皆の笑顔が一瞬だけ消える。

 ところが戻された水筒を振ったゴンゴールは、「まだずいぶん残っているようだな」不満げにそう漏らし、後ろ兵士にそれを放る。

「さあ、もっとやってくれ」促されるまま口を付ける兵士の姿に、彼は満足げに目を細める。

「皆も遠慮せずにやってくれ。知っているぞ? その背嚢に忍ばせているものを軽くするのだ」

「おい、ゴンゴール」景気良い声で促す彼をシンバーが咎める。「流石にそれは軽率ってもんじゃ…」

「問題ない。後は任せろ。夜が明ければお前達は朝陽に背を向け、真っ直ぐ詰め所に戻ればよい」

「しかしそれじゃあ…」言い淀む彼を察し、ゴンゴールは髭ずらを近付け彼に耳打ちする。

「心配するな。わたしもすぐに追いつく。証拠となる魔物の一部を切り取ってな。お前が砦の手前でそいつを受け取れば、お前たちはそれだけで英雄、だろう?」

「そうか?」

「そうだ。簡単な仕事だ」言いくるめられるままに、シンバーは回ってきた水筒に口を付け、大きなげっぷとともに部下に合図を送る。

 するとそれを見た隣の若者が自分の水筒を傾け、嬉しそうにゴンゴールに差し出す。

「故郷のモロコシ酒です」促す若者に応じ、ゴンゴールは一口付けて顔をしかめる。

「強いな」湿った髭を拭い、「だが、悪くない」そう続け、ごつい掌で若者の肩を荒く撫でつける。

「故郷の村の爺さんが一度、赤髪のストライダを見たといっていました」若者はどこか恥ずかしげに続ける。

「爺さんは昔、ずいぶんな悪党だったらしいですけど、そのストライダに救われて…、」

「救われた?」ゴンゴールが眉を寄せる。

「フビー爺さんはそう言っていました」

「救った本人はそう思ってはいまい」断言を込めた物言い。

「けど救われたんです」少しむきになった若者が唇を尖らす。

「爺さん、そのストライダのおかげで真っ当な暮らしをするようになったといつも自慢していました。村にはストライダの残した銀の剣だってあるんですよ」そう付け足す若者は誇らしげだ。

「それは、」ゴンゴールはしかめ面で酒を煽る。「珍しいなんてものではないな」

「で、故郷は?」

「スーズという小さな村です」

「ふむ。あそこは良い土地だ」

「知っているのですか?」若者は訝しげに訊ねる。

「あの辺りの土地は水が澄んでいて魔物も少ない。全てはレム・オルから吹き降りる、風の恩恵だ」

 故郷を褒められた若者はすっかり気を良くする。そうなれば後は簡単だ。皆がそれぞれ隠し持っていた酒を取り出し、松明に爆ぜる音さえ兵達の賑わいにかき消されていく。



「ええと、その、エム…」ろれつの回らぬシンバーが長マントに寄りかかる。

「エムプーサだ」そんな酔っ払いを押しのけゴンゴールが答える。

「退治できるのか?」

「充分に武器は揃っている」意味深な言葉を残し、酒盛りに湧く兵達を見渡す。

「どんな魔物だ?」

「敵は魅惑魔法を使う」勢いを無くした焚き火に薪がくべられる。

「ってことは、…ええと、角淫婦つのいんぷってやつの仲間か?」シンバーが鈍った頭で少ない魔物の知識を絞り出す。

「よく勉強している、と、言いたいところだが、サテュロスは人間の腸わたなど喰わぬ。…彼女らが喰らうのは、ここだ」けむくじゃらの太い指が自らの股間をむんずと掴めば、周囲からどっと笑いが起きる。

 充分に場が和んだとみたゴンゴールは、教師のような眼差しで皆を見渡し言葉を続ける。

「エムプーサはサテュロスとはまるで違い、醜い魔物だ。調度こんな具合に…」彼は近くに落ちていた二本の枝きれを拾い、それに兎肉を突き刺してみせる。

「青竹のように長細く伸びた二本脚の先に、醜い瘤と、細かく歪な牙を生やした顎が裂けている」

「美味そうだ」若い兵士が彼の炙った肉を見つめそう漏らし、周囲の笑いを誘う。

「ああ、そうだな。食え」串刺した肉を口元に押し込まれた若者は、続いて手渡された酒で流し込む。

「だがな、エムプーサの魅惑に罹った者は、その醜い瘤が、ずっと美味そうにみえるのだ」ゴンゴールは若者から引き抜いた枝を振ってみせ、不敵な笑みで口髭が歪む。

「分かるだろう? 食い物と酒以外で、お前達が欲しがるものだ」

「なんだ、やっぱり角淫婦に似た魔物か」シンバーが呆れた声を出す。

「まるで違う。サテュロスの糧は男の精力だが、滅多に命まで吸い取りはしない。それからシンバー。角淫婦なんていう呼び名は止せ。彼女らは歴としたベラゴアルドの種族だ。それも美しい女ばかりのな。だがエムプーサは違う。奴らはただの魔物だ。人を欺し、喰らうだけの狡猾な魔物だ」酔っ払い相手に、ゴンゴールは根気よく説明を続ける。

「種族ねぇ」シンバーは不満げ息を漏らす。それはレムグレイド育ちの男なら普通の反応でもある。

「獣人ってのは種族に入るのか?」

「獣人というのも蔑称だ。その言葉も止せ」ぴしゃりと嗜めるストライダにも、酔った小隊長が悪びれる様子はない。

「髭ずらのドワーフならあんたらと同じ戦士だ。認めてやってもいいがな」彼はゴンゴールの豊かな黒髭を指差し、皮肉っぽい声で笑う。

 それに併せて背後でどっと笑い声が響く。モロコシ酒を回し飲んだ兵たちが別の話で盛り上がっているのだ。

「さあ、もっと飲め!」ゴンゴールは上機嫌で叫び、こう続ける。

「酔いどれも殺すに及ばぬ!」

「酒だけ奪えば、死んだも同然!」

 兵たちも、それぞれ酒や食い物を持ち上げ、彼の音頭に応じる。それは大陸北部に伝わる酒盛りの囃し歌である。





「…さて」

 充分過ぎるほどの盛り上がりの若者たちをゴンゴールは満足げに眺め、おもむろに立ち上がる。

「どこへ?」目の据わったシンバーが彼を見上げ、回ってきた酒をしかめ面ではね除ける。

「少し辺りを見回る。念のために固まっていろ。今夜は火を絶やさずに眠るのだ」

「それで魔物は防げるのかい?」

「エムプーサは単独の男だけを狙う」そう答えるストラダの姿は、すでに闇に溶けている。

 散々歩かされた兵たちの酔いは早い。喧騒もすぐに落ち着き、背嚢を枕に船を漕ぐ姿も見える。ストライダの言いつけ通り順番で火を絶やさずにいるが、眠りこける者が増えれば次第に篝火は脆弱になり、闇が明かりを包み込んでいく。

 そうしてさらに夜は更ける。虫の声と兵達のいびきは余計に荒野に静けさを醸す。火は燻り、炭となった薪が崩れ、火蛍を散らす。

 すると、その僅かな音に反応したかのように、むくりと若者が起き上がる。皆にモロコシ酒をふるまった若者だ。

 若者は千鳥足で立ち上がり、皆から離れ、暗がりのなかで放尿をする。寝ぼけまなこを擦り、少し向こうに薄ぼんやりと灯る紫の光を見つけると、考えも無しに、つられるふうに歩いていく。

 やがて若者は温かい靄に包まれる。靄は方々で光を放ち、踏みしめるブーツが虹色の大地を散らす。彼は魅入られたように光の先へ脚を運ぶ。酔いで鈍った彼の鼻腔に、くすぐるような芳香がこびりつき、頭の奥まで痺れさせ、思考を奪っていく。夢見心地の彼は靄を分け入るように手をかざし、その先に、裸の女の姿を見る。

「うまそうだ」若者は思わず漏らし、涎を拭う。視線の先には、王都でも見たことのないほどの美女が、たわわな乳房を寄せ、両腕を差し伸べている。若者がそれに応じて脚を踏み出せば、美女がぐるりと反転し、白い腿を向けて股を開き、濡れそぼった襞を指で広げ、見せつけてくる。

「おお…」若者はただ呻き声を上げ、急いで腰のベルトを緩め始める。


 そんな若者の様子をゴンゴールが眺め、興味深げに髭を撫でつける。

「確かに、女の姿に見えなくもない」

 彼の視線の先、若者が進む先には、一見すれば岩か何かに腰掛けた女が両手を広げて招いて見える。しかしそれは醜い魔物の瘤に過ぎない。広げた両腕と開いた足は、エムプーサの触覚であり、その先には歪で巨大な頭部と、長細い二本の脚だけが伸びている。

 若者がベルトを外し、屹立したものを解放する。エムプーサはゆっくりと瘤を傾け、地面に顎を付ける。コッコッコッ、触覚のような『肉ぶくれ』を細かく刻む鳴き声。一定の拍子が催眠を促し、呼吸するふうに緩やかに瘤を動かす。若者から見えぬ箇所では歪な昆虫めいた複眼が幾つも赤く灯り、調度、女の尻に当たる部分からばくりと顎が割れ、びっしりと粒だった棘のような細かい牙を覗かせる。


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 長マントから連接棍棒フレイルの銀星玉が落下し、その重さに大地がひび割れる。

 じゃらりと不穏に連なる鎖の音にエムプーサが反応し、コココと刻む音を加速させて振り返る。そんな僅かな逡巡が魔物にとって命取りとなる。醜い魔物は目前の獲物を喰らうことなく、視界に飛びこんできた銀球を咥え込んで半身を砕かれる。吹き飛ばされた先で萎びた脚を地面に擦らせなんとか起き上がるも、見上げる先、闇夜で風を切る重圧がその赤い複眼を塞ぐ。

 瘤が飛び散り、裂けた灌木のごとく外皮が飛び散る。銀球がゆっくりと鎖に引きずられ、乾いた大地に幾つもの亀裂が奔る。土くれにえぐり込みつつ退いていく銀球は、砂粒を引き連れ唐突に跳ね上がり、闇夜に消え、間もなく落ちてくる。

 ゴッ!ゴッ! 重い銀球が何度も打ち付けられる。火薬で発破されたかのように方々の外殻が飛び散り、ひしゃげたひび割れから赤紫の肉がひりだし、青黒い体液を散らす。叩きつける乾いた音は次第に湿り気が勝り、砕かれ続ける肉塊が飛沫ごとねじ伏せられ、潰れた巨大な柘榴よろしく、乾いた大地を汚すだけの肉塊に変容しても尚、銀球は無慈悲に振り下ろされ、膨らみの大きな瘤の残骸めがけ、的確に潰し続けていく。

 コココ、

 別の方向に聞こえるその音にゴンゴールが振り返れば、青銅色の長細い棒が立つ。見上げればその先で複眼を輝かせた醜い瘤がある。息さえ切らせぬ彼は冷静にそちらを見つめ、「二匹、いや三匹か」それだけを呟き、取るに足らぬと云わんばかりに長マントがふわりと扇状に翻り、抜刀された銀の閃光が魔物の鼻先の肉ぶくれを切断する。背後で開かれた大口がゴンゴールの頭上を襲うも、彼が鮮やかな二の手の流れで足首を切り返して回転をすれば、横薙ぎの銀球が落下点で瘤を吹き飛ばす。


 下半身を剥き出したままに、腰を抜かした若者が悄然とその光景を見つめる。あれほど充血していた彼のいちもつは、今では情けないほどに萎びている。振り下ろされては薙ぎ払われる銀球と長剣。常人ならば両手でも持ち上げられないであろう特大の得物を軽々振るうストライダの姿は、ろくに抵抗さえ出来ず無様に押し潰されていくエムプーサよりも、彼の目には遙かに不気味で恐ろしく映る。

 ほどなくすれば方々で半覚醒した兵士たちも目を擦る。霧と輝きの中で影芝居のように立ち回る戦士とそれを左右から囲んだ肉の塊。長剣が唸りマントが踊れば、上方から変速弾道を描く球体が肉を狙い撃ち砕いて飛び上がる。その度に湿り腐った木片を砕くような音が霧からこだまし、青黒い雫が彼らの顔に降りかかる。酩酊した神経で何とか武器を取る者も幾人か見えるが、霧の先へ進む勇気を持つ者はしばらく現れない。やがて数人が頷き合い、脚を進めるが、シンバーに止められ、不穏げに首をかしげ合う。しかし普段は頼りなさげな隊長の、その呆れたような確信に満ちたようなそんな態度に、若い部下たちも次第に落ち着きを取り戻し、ひとまず隊列を整え霧の先をただ見守る。




 明朝もよく晴れている。兵達は散らかった荷物をまとめ、装備を調え帰り支度に急ぐ。皆、どこか恥ずかしげな面持ちでいる。彼らがしたことといえば、さんざん荒野を連れ回され、盆地で酒を酌み交わしただけだからだ。

「意地の悪いやつだ」シンバーは漏らし、恨めしげ眼差しを向ける。

「あんたという奴が、いよいよ分からなくなってきたよ」

「エンプーサは酒気を帯びた息に反応する」ゴンゴールは無表情で答える。

「作戦だったのなら、そう言ってくれ」シンバーは頭を掻きむしる。

「兵を挙げたおれの立場はどうなる? 丸一日、ぶ厚い鎧に長槍担いで、荒野を歩かされただけだ」準備したものはすべて無駄だったぞ。不満たっぷりにそう付け加える。

「無駄ではない。皆じゅうぶん役に立った」

「魔物の餌にってか?」

 断言するストライダに呆れ、シンバーは忌々しげに盆地を見渡す。乾いた朝の大地には、そこかしこに魔物だったものの残骸と、夥しい数の小さな穴ぼこが空いている。それは竹串を突き刺したようなエムプーサの足跡だ。

「魔物の巣のど真ん中で、酒盛りを開かされるとはね」

「巣ではない。だが、おびき寄せるには最適な場所ではあった」ゴンゴールはおもむろに掌を差し出し、「酔いどれも殺すに及ばぬ」そう続けて髭ずらをにっと歪める。

「…酒を奪えば死んだも同然、かい。まったく、警句にも何にもなりゃしねえ言葉だな」シンバーは渋々つつも報酬の銀貨袋を取り出す。

「“豪腕のゴンゴール”。あんたは力だけの男だと思い込んでいたが、知恵もずいぶん働くんだな」溜め息交じりに袋を投げ渡し、「いっそ、“悪知恵”を通り名にしたらどうだ?」悔し紛れにそう腐す。

「なんとでも呼べばよい」ゴンゴールは報酬の中身を確認せず、踵を返す。調度視線の先では、囮となった若者と眼が合う。しかし若者はきまり悪そうに視線を逸らし、忙しそうな仲間を手伝いにいく。

 ゴンゴールは表情を変えずに歩き出す。兵達に彼を見送る素振りはまるでない。皆空々しい態度で、去りゆくストライダをやり過ごしている。

 シンバーだけが遠ざかるマントを眺めている。「ちくしょうめ」声をあげ、再び頭を掻きむしる。

「まあ、部下が怪我もなく帰れるんだ」感謝しなきゃな。生来の楽天家の性分で彼は思い直し、ひとり立ち去る背中に声を掛ける。

「よお! 次は事情を伝えてくれよな。そしたら弓だろうが大砲だろうが、ちゃんと用意しておくからよぉ」

 その言葉にゴンゴールは一度立ち止まる。「心強いことだ」振り返りもせずにそう呟く。

「ストライダは、武器になるものはなんでも使う」

 そんな彼の呟きは兵士たちに届かず、良く晴れた紫千鳥の初夏の空に溶けていく。


—おわり—


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