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込めたるは祈りにあらず |二|


咒婆の躾


 ある朝、最年少のヒケアがいなくなった。ヒケアは足が魚のヒレのように変形しているので、ひとりで出歩けるはずはなかった。皆は首を傾げたが、レモロだけは真相を知っていた。
 とはいえ、彼がそれを知ったのはまったくの偶然だ。ある日の夜更けに尿意で目醒め、ちびのヒケアを抱くイーゴーの姿を、廊下の角から隠れ見たのだ。

 レモロがそのことを皆に言わなかったのは、イーゴーの様子がいつもに増して異様であったからだ。何より不気味であったのは、彼が奇妙な面を被っていたことだ。それは青銅の仮面であった。冷たい水底に沈んだ女の死体のような顔つき。真っ直ぐ不機嫌に結んだ口許は、飛び出した二本の尖った犬歯が下唇を圧迫していた。

 ヒケアが姿を消し、泣いていたのはフスピだけだった。レモロには、フスピとヒケアが仲良しであったかよく思い出せなかったが、数日のうちに今度はフスピも消えてしまったので、どうでも良くなってしまった。彼がフスピについて思い出せることは、両手に指を持たぬ子だったという記憶のみであった。

 ともあれ、そうなると他の子らも何事かを感じ取りはじめたが、奇妙なことに、大きな混乱には至りはしない。ぐずったり泣いたりする子らを、婆が落ち着かせていたからだ。婆は皆に怖がられ、避けられてもいたがそれができた。
 さらにもうひとり子どもが居なくなると、いよいよ眠れぬ日々が続いた。しかしレモロはただ黙って毛布に包まり、夜をやり過ごした。
 それというのも、騒ぐ子らが皆、婆の乾燥した杏子のような乳首を吸わされていることを知っていたからだ。
 どういう訳か、それを強いられた子は皆おとなしくなり、半ば昏倒するように日の大半を眠って過ごした。レモロにはそれが恐怖であった。初めは嫌がるも、やがて夢中でしゃぶりつく子どもら、深い皺とシミとイボだらけの婆の顔、そしてなにより、垂れ下がる二つの鍾乳石のような、亀裂だらけの乳房が、彼はただ怖かったのだ。



—— 根に沈み、輪に還る

 婆の祈り言葉はこうだ。ありがたいことに婆は後の言葉の復唱を強いることはしなかった。以前のような、地母神への感謝と規律の暮らしにうんざりしていたレモロにとっては、それだけでも幾分か悪くない暮らしにも感じた。
 もっとも、婆の言葉の続きは誰も聞き取れやしなかった。それはイーゴーでさえも理解せぬ様子であった。きっと教えられたとしても、発音さえままならないのだろう。レモロはそう考える。あれはベラゴアルドの言葉ではないんだ。古代語という言葉があるとどこかで聞いた。それは、魔法そのものの言葉であるとも聞いた。

 幾日経ったろう。子どもらは皆、食えば部屋に戻り、ただ眠る日常が続いた。しかしある晩、ひとりの子が鉄格子の隙間に顔を押し付け、泣きじゃくっているのを見た。何を見たのか、恐怖に歪み余りに必死なその形相と、突飛に裂かれた静寂に、幾人かの子らがつられて泣きはじめた。

 そうなる少し前に、レモロは階下を降りていた。
「窓から逃げ出そうとしている子がいる」そう告げ口しに向かったのだ。
 それを聞き、イーゴーは無言で立ち上がり、のしのしと二階へ上っていった。続いてその大股の歩みに付き従おうとするレモロを、婆が呼び止める。

「…おみゃあさん、名は?」

「レモロ」

 婆はこちらを見はせず、緩慢な動きで自分の上着をまさぐる。

「おみゃあさん、いま、“逃げ出す”、と言うたのぅ?」

「…言った」それでも彼は何とか返事をする。

「なぜにそう思う?」婆がこちらを見る。婆がいつも焚く香の臭いが鼻をつく。垂れたその瞼の奥で、眼光がちらつく。それは何かの光に反射したのか、赤く、強く輝いてみえる。少なくともレモロにはそう見える。

「だって…」
「だで、…なんじゃ?」婆が食い入るように見つめる。みみずのような血管を埋め込んだ指で、汚れたローブをまさぐる。裾布が引っ張り上げられ、どろりとこぼれた乳房が、レモロの身を竦ませる。

 彼はごくりと喉を鳴らし、意図せず本心を漏らす。

「…ここからは逃げられないから」

 目を閉じ、次に瞼を開けば目の前には醜い顔がある。半身を晒し、二つのひび割れた乳房つららを揺らしながら、舐め回すふうにこちらを眺め、背後へ回り、正面に戻る。
 潰されそうなほどの恐怖が意識を眩ませる。だが一方で、そこに彼は奇妙な安らぎを感じる。直感が彼に報せる。突き抜けた恐怖の支配は、ぬるい安寧をもたらすことを。
 そうして彼は深く息を吐き、言葉を続ける。

「ねにしずみ、わにかえる…」

 途端、婆の顔が歪む。レモロは急にひどく立ち眩み、目の前の顔が急激に肥大したふうに見える。
「げっ、げっ、げっ」下品な音が婆の喉奥から飛び出す。それが単なる笑い声であることをレモロは気がつかない。しかし早口で問いかける婆の次の質問には、どういうわけか即答できる。

「おみゃあさん、…レモロよ、王に使える資質はあるけ?」

 王、王様。無論、レモロにはそれが誰のことを示しているのかは分からない。ただ「…ある」と、か細くも放った自分の答えそのもの、放られたものを打ち返すようなその言葉の響きだけがやけに心地良い。

「ほう」婆が物色するふうにレモロを見る。

「少しばかり、見込みがあるようだね」やけに野太い声。レモロの知らない声。
 途端、たるんだ瞼の奥で、縮んだ赤い瞳孔が縦に裂ける。仏頂に下がる口角があり得ないほどに持ち上がり、耳の側まで裂ける。地割れのように三日月型に開かれたその口蓋は、喉奥まで、びっしりと黄色い牙が生えている。

 レモロは放心し、腰を抜かす。尻をつき、天井を見上げているうちに、婆は離れている。


「…あぁあ、
 …怖い夢をみただねぇ」

 次に発せられた婆の猫撫で声は、イーゴーが抱え、連れてきた数人の子どもたちに向けられている。
 腿に温もりを感じてレモロは我に帰る。子どもたちを連れ、イーゴーと隣の小部屋に向かう婆の姿は、もとの老女に戻っている。

 自分の小便に滑りつつ、レモロは慌てて立ち上がる。

「…おちちをのもねぇ、…ねんねしねぇ」

 不気味な子守唄が隣の部屋から僅かに聞こえる。
 レモロは耳を塞ぎ、急いで二階へ逃げ帰る。


 奇妙なことに、あの晩からレモロの境遇は一変する。はじめはやたらとものを頼まれるようになった、という認識だけがある。自室が充てがわれ、食事時に白く柔らかいパンが付け加えられると、彼は自分が婆に気に入られたということを自覚する。
 他の子らは嫉妬し、それが余計に誇らしくもある。次に、イーゴーでさえ自分に一目置く態度でいることを知ると、さらに有頂天になる。
 そうして彼が他の子らのことをひどく蔑みはじめるのも、そう長く掛からない。あの日以来、彼だけは、あからさまに威張り散らしたりしても、何一つとして注意されたりはしない。

 彼は、イーゴーの仕事を手伝うようにもなる。仕事はきつかったが、それ以上の楽しみを見出す。一番の楽しみは食事だ。配膳係を任された彼は、子どもらの羨望を受け、並べた食器にスープを注ぎ、パンや果物を並べる。彼は気に入らない子たちにちょっとした意地悪をする。祈りの直前にスープを取りあげたり、腐った屑野菜を皿に盛ったり、泥だらけでぺしゃんこのパンを渡したりする。
「よか、よか」
 だが、調子づく彼を婆は甘やかし、褒めさえする。
「立場ってもんは、思い知らせるもんじゃねえ、染み付けるもんじゃてな、なぁんども、なんどだて、じっくり、じっくり染み込ませるもんじゃて」そう続け、他の子どもらの目の前で、彼の皿にだけ、たっぷりのハチミツを入れるのだ。

 だからレモロは、そのあまりの境遇の変化に興奮し、あの晩に見た婆の恐ろしい姿を忘れようと決める。ただの夢だった。怖い夢を見たんだ。そう思い込むことに務め、実際にその記憶は、暮らしの底に埋もれていく。


─ 続く ─

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