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戦乱の鋒 −その9−朱い髪の少女


竜の仔の物語 −第四章|三節|−戦乱の鋒
−その9−朱い髪の少女



 闇の軍勢との戦いも迫り、皆との話し合いの末、オトネは自由都市タミナへと避難することになる。

 「じゃあ、行ってくるな。」馬上のアルベルドの後ろでは、オトネが不安げにラウを見つめている。

 「フラバンジから戻ってきたみたいに、ラウがぱぁっと飛んでけばいいんじゃないのか?」ルグの意見をルーアンが否定する。「いや、その力は、なるべく蓄えておかねばな。」

 「ラウ、」「大丈夫だって。カユニリが護ってくれる。」オトネの想いに応えるようにラウが自信満々に胸を張り、「・・だよね。」やはり少々不安になったのか、アルベルドに同意を求める。

 「ああ、心配ねぇ、タミナはまだ平和、ってか、今は前よりも治安が良いくらいだ。」彼も大袈裟に胸を叩く。

 なんでも、かつてラウとともに沼地で過ごした杜の司(もりのつかさ)カユニリは、ジュンナラの森を復活させた功績により、ギルドの信頼を買い街長のひとりに選出されたという。そればかりではなく、彼は司としての才能を多分に発揮し、毎年麦畑を豊作に導き、その収益で難民を受け入れてもいるらしい。

 「アグーが連れてくるガキどもも、当面はカユニリんとこに身を寄せる手はずになってるらしいぜ。」

 「ルロアたちも!」それを聞いたラウとルグが笑顔になる。「だったら、オトネもまた友だち増えるな!」

 それを聞いたオトネがはにかみ、それからルグに向かって言いにくそうに口を開く。

 「ミルマは・・、」「大丈夫だって、オトネ。」ルグが手をかざす。

 「ミルマはストライダになったんだ。無事にソレルたちと戻ってくるってば。」彼はミルマに対する信頼から、彼女にそう伝える。

 「すぐに向かえにいくから。」しっかりとそう言うラウを彼女は信用する。

 そうして二人は開かれた門まで馬を見送る。

 「きっと向かえに来てね!」叫ぶオトネの声がぐんぐん遠ざかる。馬は坂を下り、港とタミナへの別れ道まで進む。

 ところがラウたちが砦に引き上げようとすると、警告の指笛が聞こえる。振り向くと、馬が反転し、急いで坂道を駆け上がってくるのが見える。

 「なんだ?」ルグが異変に反応し、狼の目つきになる。

 坂の途中でアルベルドがオトネに手綱を委ね、馬の背に立ち上がり鶚の爪を抜刀する。

 すると上空から黒点が現れ、風になびく布のように広がりはじめる。

 それを見た二人が走り出す。ルグが銀狼となり坂を駆け下ると、ラウの背中からも翼が飛び出す。

 アルベルドが跳躍し、剣を振り上げる。すると黒布から前触れもなく渦を巻いた棘が飛びだし、攻撃を弾く。着地した彼を追い、さらに棘が飛び出す。後転で避けるアルベルドの、すれすれの地面を次々に突き刺していく。彼は頭上に迫る棘を双剣で受けるも、力負けして跳ね飛ばされる。

 「あのトゲっ!?」ラウが翼を広げ波動を出す。馬でこちらへ向かって来るオトネを追い越し、黒布めがけて飛んでいく。

 「行くなラウ!ひとまずオトネを守るのだ!」

 「えっ!?」ルーアンの指示に彼は慌てて翼を切り返す。ルグはそのまま飛び上がり、棘の一本に噛みつく。

 馬の背に着地したラウが、オトネから手綱を受け取る。彼女はぶるぶると震え、目を伏せて彼に抱きつく。

 「やっぱり。」オトネのその様子に、ラウは確信する。見れば空中を漂う布はアルベルドにもルグにも構わず、無数の棘を触手のように忙しなく踊らせ、こちらに向かって来ている。

 ルグは噛みついた棘を放さず、地面に引きずり下ろしていく。その進行は遅れるが、布はほつれてたわみ、さらに進んで行く。その隙にアルベルドが彼の背を踏み台にして飛び上がり、布を切りつける。しかし裂けた箇所からさらなる棘を出し、彼の怒濤の連撃をいなしていく。

 砦に辿り着いたラウは、騒ぎを察知し駆けつけたダオラーンにオトネを委ね、馬から飛び上がる。

 「オトネを例の守りの咒具のもとへ隠すのだ!」ルーアンが叫ぶ。

 「なんだかわからぬが、承知した!」ダオラーンが急いで彼女を抱きかかえ、尖塔のほうへと走っていく。


◇ 


 ルグとアルベルドが連携し、宙を舞う黒布と戦う。布は攻撃を繰り返す二人に反応し、棘を出して応戦するが、ふわふわとたなびき、ゆっくりと砦のほうへ進んで行く。

 その動きが意思ではなく、恣意的にただ漂っているふうに見え、アルベルドが試しに攻撃を止めると、やはり布も棘を出すのを止める。

 「なんなんだ、こいつぁ?」彼は顔をしかめ、双剣を収める。それを見たルグも人間の姿に戻り敵意を消すと、布は完全に沈黙し、ただ低く宙を漂う黒布になる。

 そこでラウも到着し、警戒しつつ三人で低空で丘を昇る布を包囲して進む。

 「しっかし、まるで意思がねぇみてえだな。」

 「けど、間違いなくオトネを狙ってるんだ。」ラウは確信を持って言う。

 試しにルグが石を投げてみる。すると、布から無数の棘が飛びだし、小石を弾き、必要以上に何も無い大地に攻撃を加える。

 「魔物なのか?見たことないな。」

 「いや、魔物ではない。そうだな?ラウ。」ルーアンの問いかけに、ラウが頷く。「これは、マルドゥーラだ。」

 「マルドゥーラだって?」

 「こいつが四の残り神、マルドゥーラってか?」アルベルドは懐疑的な目を向ける。

 それから三人は砦まで戻る。マルドゥーラの黒布は砦の手前まで漂うと、右へ折れ、左へ戻ったりしはじめる。ルーアンの予測通り、メチアの施した守りにより、オトネを見失った模様。

 「で、どうすんだ?あれ。」門の前でアルベルドが言う。

 「どうするか。何せリンドヴルムの炎さえ堪え忍んだほどの神だ。生半なことでは滅ぼせぬだろう。」ルーアンも答えあぐねる。

 「そうだ!」ルグが何やら閃き、両手を打つ。「バンシィの時みたいに、浄化の魔法を試したら良いんじゃないか?」

 「それは良い案だが、生憎メチアは留守だ。」

 「え、メチアどこいったの?」

 「なんだか知らねぇが、援軍の手配にいったみたいだぜ。」

 「じゃ、ブゥブゥに頼もうよ。」ラウが提案する。「フリセラに頼んで、連れてきてもらおうよ。」

 「ブゥはアムストリスモに帰ったらしいぜ。」アルベルドが言い、ルーアンが続ける。「アムストリスモはちと遠い、報せが届くまでに、守りの結界が持つかどうか。」

 「そうなんだ。ブゥブゥにあいたかったなぁ。」ラウがぼやけばルグが頷く。

 そんなことを悠長に言い合っているうちに、布がべろりと捲れ、醜い顔が空中に浮かぶ。以前の老婆とは違い、牛のような顔つきをしていて、鼻から捲れた唇が耳まで裂けている。

 「あ、ああう」異形の顔が呻く。「おおおお、おとねぇ、くく、くわせろぉ。」きょろきょろと宙を彷徨い、見えない壁に阻まれて砦を外れていく。

 「こいつ、カーク・ラノアの時と全然ちがう。」

 「知性を失っているようにも見えるな。」ルーアンが推測する。

 黒布は広がったり縮まったりして砦を迂回していく。遠ざかると、宙に黒く浮かび漂う妙な違和感だけが小さくなっていく。「おい、行っちまうぜ。どうする?」アルベルドがとりあえず双剣を抜刀する。

 「イミィールに、ゲヲオルグ。」気がつけばいつの間にかダバンが背後に立っている。

 「闇の軍団との戦いを控え、また厄介なものが現れたの。」彼はアルデラルの弓を構え、マルドゥーラの眉間を照射し、三射ほど立て続けに矢を放つ。

 黒布めがけ矢が飛んでいく。マルドゥーラは振り向きもせずに棘を出して反応する。矢は生き物のように棘の手前で直角に折れ、大きく回り込む。別の棘に二射ほど迎撃されるが、残りの一射だけがその醜い顔面に突き刺さる。

 「うきょ。」マルドゥーラは短く戯けた声を上げるが、まるで痛がる様子もなく、布から生身の片腕を出し、眉間の矢を抜き取ると、何事もなかったかのように太古の森のほうへと去って行く。

 「おれ、追うよ。」ラウが走り出すと、ルグもそれに続く。

 「待て!おれが行く。」アルベルドが二人を止める。「お前達は戦いの要だろ?今は砦を離れるべきじゃねえ。・・そうだろ?爺さま。」

 「ならば、わたしが行こうではないか。」そこへダオラーンもやってくる。「うむ、頼もう。アルベルドも砦に残るのじゃ。」ダバンが指示を送る。

 「ねえ、オトネは?」ラウが訊ねる。

 「心配なさるな。オトネ殿はフリセラ殿が見ている。」ダオラーンはそう言うと、さっそく馬に乗り込む。

 「ダオ、攻撃しなければ向こうも攻撃してこねぇ。」「深追いせず、ひとまず監視を続けるのじゃ。」

 「心得た。」ダオラーンは二人の指示に頷くと、馬を蹴り込み黒布を追いかけていく。

 「・・とはいえ、あのまま太古の森に行っちまったら、出だしできねぇな。」見送るアルベルドが言う。

 「うむ。そうなるかもしれん。」ルーアンもそれに同意する。「いずれにしろ、守りの力が衰えぬ間は、奴は放っておき、イミィールと魔兵の軍団に備えたほうが良いかもしれん。」

 「さあ戦いの準備じゃ。ソッソがリコラ辺りに大軍の足音を聞いた。」ダバンが両手を弾く。

 「かぁ。あのねえちゃんの耳、そんな遠くまで聞こえるのかよ。」アルベルドがそう腐す。「顔も化けもんだけど、耳のがもっと化けもんだな。」彼は両手で口の端を引っ張り上げる。と、その足許すれすれに、鋭い矢が飛んでくる。

 「あぶねっ!なんだぁ!?」矢の飛んできた方を見ると、物見台でソッソが歯を剥き出して彼を睨んでいる。

 「・・ですよね。そりゃ、聞こえてますわな。」肝を冷やした彼の耳元を、再度ソッソの矢が掠める。





 銀雁も中程まで来ると気候も変わり、木々の紅葉と忙しない小動物の動きともに、冬の足跡も徐々に迫りつつある。そんな中、メチアは太古の森の手前で野宿を続ける。場所は彼が過ごした沼地のほど近く。少し窪地になった場所には、フィーンドとの戦いで命を落とした猟兵たちの簡素な墓標も見える。

 彼はそこで野鳥を呼び寄せ、書面を括り付けては、何度も太古の森へ飛ばしている。しかし森からの返事は一向に来なかった。それでも彼は辛抱強くそこへ留まり、書面を送り続けた。すると、次の日の朝には、使いの雁が書面を運んでくる。ところがそれは太古の森からではなく、フロバックからの便りであった。

 そこには、フロバックが弟子たちを連れてソリトアへ向かい、闇の魔道士と戦うつもりであることが書かれている。その報せを受け、メチアは居ても立ってもいられない気持ちになる。おそらくフロバックは命を賭して戦うつもりだろう。優れた才能を持つ彼のことだから、決して早まった行動は取らないにしろ、無事でいられるはずはない。

 それでもメチアはこうも思う。現時点で闇の魔道士に対抗できる魔法使いは、彼を置いて他いないようにも思える、と。

 フリオサル・リグ。その名はかつて蜘蛛目のオイノスを中心に、南方の三魔道士を退けた一団のひとりであり、その子孫にあたるのが彼、フリオサル・フロバックであり、そして、その一族だけが血で扱える、希有な魔法があった。それこそが、傲慢が故に魔境に囚われた闇の存在にのみ、有効な魔法だとも考えられた。

 しかし、いずれにしろ、彼と、彼の弟子達にのし掛かるものは、小さくはない。もし、あの誠実な青年の笑顔が見られなくなる事態を想像すると、それだけでもメチアは胸を引き裂かれる思いにもなった。

 それでも彼はこの場を動けずにいる。危機が迫るのはラームも同等。タイロンと魔兵。同時に侵攻をはじめた勢力に、何らかの繋がりがあることは明白である。そしてその両方に、身体ひとつで対応することはできない。優先順位など判断できぬが、今は考え得る最善を取るしかない。

 彼はそんなことを考えながら、沼地のほとりで独り過ごす。


 そうして二日を過ごした後に、ようやくエルフからの返事が来る。返事といっても、小熊に似た獣が咥えた木ぎれに、奇妙な紋章だけが焼き印されているだけの物だ。

 しかし彼はそれをエルフからの返事だと確信し、同じ場所で待ち続ける。そしてその晩、月が雲に隠れ、再び顔を出すと、千年樫の枝の上に、エルフが現れる。

 「久しぶりだな。魔法使い。」

 「ブリガウリフ殿。」メチアは久方ぶりに眼にしたエルフの戦士を見上げる。以前と違い、彼のミスリルの鎧は傷だらけで、顔つきも少し疲弊しているふうにも見える。

 「ラームに敵が迫っている。」メチアは単刀直入に言う。「人間同士のただの争いではない。敵は闇の軍勢。ガンガァクスの魔兵の軍団だ。」

 「では、ガンガァクスが破られたのか?」

 「そうではない。魔兵ははじめから各地にいたのだ。闇の魔道士は魔兵を蓄え、ベラゴアルドの混乱を狙っていたのだ。」

 「その前に、ひとつ訊こう。黒い悪魔はお前達の仕業ではあるまいな?」ブリガウリフが妙なことを言う。

 「黒い悪魔とな?」

 「そうだ。悪魔は東からやってきた。調度、ストライダの砦がある方向だ。」ブリガウリフは悪魔の特徴を告げる。黒い布きれから螺旋の棘を出す魔物。「訳の分からぬ呻き声を上げ、端々で“オトネ”、そう呼んでいるように聞こえた。」

 それを聞いたメチアが動揺する。「倒せたのか?」

 「いや。今も同胞たちが戦っている。我々は奴を二度ほど細切れにしたが、その度に復活し、何名かの同胞が喰われた。」

 「むう。」メチアが唸る。「・・それは、四の残り神がひとつ、マルドゥーラだ。」顔を拭い、ブリガウリフに事の成り行きを大まかに話す。

 「そうか。」エルフの戦士は動揺を見せない。「では、奴は戦神のように、不死なのか?」

 「それはわからぬ。だが、ドラゴンの炎を堪えたほどの生命力ではある。」

 「では、おれもすぐに向かわなければ。」ブリガウリフが踵を返す。

 「待たれ!」

 「なんだ魔法使い、わかっているだろう?我々は太古の森を出ない。もしラームが滅ぼされ、魔兵が森へ向かって来るようならば、その時は、我々が迎え撃つだろう。」

 「その時には、すでにベラゴアルドは闇に吞まれているだろう。」メチアは鋭い声を出す。「そうなった時に、太古の森だけが残ると何故思う?」

 「それでも、我々は森を出ぬ。そしてストライダも我々の森には入れぬ。」エルフの戦士は頑なに掟に準じる。

 「森を出る必要はない。」「では、話は終わりだ。」

 「・・もし、森がラームまで伸びたとしたら、どうだ?手を貸してくれぬか?」メチアの声にエルフが反応する。

 「ほう。」ブリガウリフは長い前髪をかき分け、眉間の十字の傷に指を当てる。

 「聞こうか、魔法使い。」


 

 メチアはブリガウリフに策を伝えた後、ただ懐かしさの余り沼地に立ち寄る。近くにある朽ちた棒杭をなで回し、試しに少しだけ魔法を込めてみると、カユニリが施した守りの印はいまだに復活する。

 「丁寧な仕事をする。」彼は独りごち、腐った橋桁を慎重に渡っていく。方々に小鬼や屍鬼の赤い目玉が過ぎるが、彼は構わず進む。霧が立ちこめる沼地は荒れ果て、かつて過ごした頃の面影は薄い。

 ところが、思い出深い小屋が見えると、そこにひとりの少女が佇んでいるのが見える。彼が駆け寄ると、少女は薄手のチュニックの姿で、荷物さえ何も持たず、裸足で佇んでいる。

 「こんなところにたった一人で、」彼は急いでマントを脱ぎ、後ろから彼女を包んであげる。奴隷?いや、難民が親とはぐれたのだろうか。少女の朱い髪に触れると、彼は異常な違和感を感じ、反射的に飛び退く。

 「何だ?・・・何者だ?」

 少女は振り向きもせずにじっと小屋のほうを見ている。真っ白い肌は陶磁器のようだ。触れた時に感じた奇妙な感覚はすぐに消えたが、その少女がただの人間ではないことは間違いなかった。

 「わたしを・・、」待っていたのか?そう言おうとするが、彼は口を噤む。自分がここを訪れたのはただの気まぐれだ。そのことを予測できる者などいやしない。

 メチアは少女を観察する。その作りもののような関節の節々には細い溝があり、そこが僅かに輝いて見える。ただの人間でないとすれば。少し考えるだけで、彼があるひとりの少女に行き当たるのにも、時間はさほどかからない。

 「・・わたしの推測が間違っていなければ、」メチアは慎重に言葉を選ぶ。「少ないが、あなたに関する記述は数千年もの間に、幾つか散見されている。」

 少女は何も答えない。メチアは少し待ってから言葉を続ける。

 「戦少女、聖女、燃る女、赤髪の魔女・・そしてドラゴンの使い。あなたを呼ぶ名はいくつもあった。」

 やはり少女は振り向きもしない。ただ惚けたように小屋を見つめている。

 「・・その役割には法則性もなく、モートリアの王のもとにも、屋根葺き職人のもとにも現れている。おとぎ噺でや詩であったり、神話であったり、記された記述もまちまちだ。時にベラゴアルド六神器を授けた話もあれば、鍋敷のような布をもたらされた者もいる。」

 少女は聞く耳を持たない。メチアの姿など見えてもいない様子で、今度は朽ちた橋桁を渡り始める。

 「わたしはそれらの記述に、何ら関連性を見出してはいなかった。」少女の背中を追いながら続ける。

 「だが、十四年前の長雨の後、アリアト様から卵を託されたあの、青梟の日から、今の今まで暇さえ見つけては、わたしはそのことについて調べ、考え続け、あなたに行き当たった。あなたは、いつでも歴史が動く節目に現れている。」

 そこで少女が立ち止まる。「アリアト。」小さな声だが確かにそう呟く。

 メチアは少し待ってみる。しかし少女は物言わず、再びゆっくりと歩み始める。

 「ふむ。」息を漏らし、再び後を追う。少女は気まぐれに歩いているようにも見えるが、メチアにはその向かう方向に心当たりがある。

 「ラウは健やかに育ちました。」試しにそう言ってみる。すると少女はそこではじめて彼に気がついたかのように、ゆっくりと振り返る。

 渦を巻いた瞳がメチアを見つめる。その表情からは何の感情も窺い知れない。しかし、その渦に彼の左眼が反応し、虹色に輝く。

 「あなたはいったい・・?」頭の中にあらゆる情報が入り込んでくる。どれもアリアトが語ったのと同じような文明や、見たこともない景色で、その総量にどんどん魔素を吸い取られていく。

 「卵を、我に返すのだ。」少女はどことなく哀しげに目を伏せ、それだけを言う。

 メチアは少し考え、それからこう言う。

 「それは、ラウのためかと訊くのは、愚問ですかな?」

 少女は何も答えない。

 「・・では、それはベラゴアルドのためなのですか?」

 「それも愚問だ。」少女は短く言い、歩き続ける。彼女は卵が沈んだ場所がわかっている様子で、迷いなく沼に足を浸していく。

 メチアはため息を吐き、呼び止める。そうして、彼女の望み通り、沼地の深い場所へと進み、魔法を込め、沼の奥底から卵を探る。ほどなくすると、持ち上げた杖に引き寄せられて殻が持ち上がり、彼の足許に停止する。

 不思議なことにラウの産まれた時に割れたひびは滑らかになり、綺麗に復元している。少女がしゃがみ込み殻に触れると、見慣れぬ文様が輝き、二つの殻が吸い寄せられて、ぴたりと合わさる。

 驚愕と謎ばかりだが、奇妙にも警戒心は湧き上がらず、なんの危機感も感じない。用心深い彼にしてみれば、あまりにも安直に少女に従っている自分にも驚く。彼は少女のうなじのあたりを見つめる。少女は卵を抱き抱えると振り向き、渦を巻いた瞳を向け、何かを差し出す。

 受け取ったそれは、どうやら咒具のようだ。片手に収まるほどの大きさで、星の形をしている。角の一部が少しだけ焦げてはいるが、その機能を失っているわけではないことが分かる。

 「これは?」その問いに少女は答えない。いや、そもそも彼女はメチアの疑問には何一つ応えてはいない。

 「このことは他言してはならない。」少女が口を開くと、頬や首筋から光る文様が走り、手のひらに伸びてくる。

 「話せば、運命がねじ曲がるやも知れん。」身体中に光りの文様が進み、薄いチュニックを透かす。「それでも構わぬのなら、モートリアの王や屋根葺き職人らと同じように、誰にでも話し、何にでも記すがよい。」

 「しかし、あなたは運命を変えたいのでは?」またしても憶測だけで尋ねてみる。

 「お前は、運命を変わるものだと思っているのか?」

 「はい。」メチアは淀みなく答える。

 「運命は命に帰属するもの。命の歩み次第では、必ず変わります。」

 その言葉に、少女は少しはにかんだような顔つきをする。文様は足首にまで及び、さらに輝きを増し、相反するように少女の身体が透けていく。

 「待ってくだされ、」メチアは急いで手をかざすが、少女の頬はもうそこにはない。透き通った肌が消え、手を伸ばした先にはマントだけを残し、完全に消え去ってしまう。

 彼は仕方なしにマントを拾い身に付ける。

 「・・あの少女は、いったい?」考えられる可能性を探れば、ひとつやふたつ、心当たりがないわけでもなかった。しかし全てが根拠のない憶測に過ぎず、それが当たっていたところで、その意味はまるで分からなかった。

 彼は渡された咒具を見つめる。状態からしてかなりの骨董品のように見える。あまり器用な者が創ったわけではないことが細工から見て取れ、少し魔法を込めてみても、性能の良いものだとも思えない。

 おそらくこれは誰かひとりに対象を絞った咒具。造った者の力によって、ある一定の対象にしか効果を成さない、そんな類いの咒具だ。

 「しかし、なぜわたしにこんなものを?」独りごちる。沼地を見渡し、彼はしばらく放心し物思いに耽る。そうして、しばらくするとマントを広げ、彼はオオタカとなって飛んでいく。


−第四章、終話へ続く−


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