込めたるは祈りにあらず |五|
宴
振動と衝撃がレモロに覚醒を促す。
はじめは誰か、何かの叫び声をぼんやりと聞いている。外では激しく風が鳴り、本格的な赤鷺の嵐が今まさにやってくる。それはまるで、そこらじゅうで巨人が踊り狂っているかのよう。
屋根の補強は大丈夫だろうか?
ふと、そんなことを考える。見てこなくちゃ。見てこなくちゃ叱られる。
朦朧とした意識で瞼を開く。
定まらぬ視線で知った子と目が合う。その子はかなり間近で、こちらを見つめている。
「えっ?」目前で向き合う見開いた眼球が、強引にレモロを完全覚醒させる。慌てて飛び起きた拍子に、その子を叩いてしまう。そう強く叩いたわけでもないのに、その子の顔がぐるりと逆を向く。
「ひぃ!」足元に転がる頭部から避けるようにして、壁際に後退る。
屋敷中、香の煙が立ち込めている。辺りは散乱し、一面で悲鳴が聞こえる。煙る視界の先で皆が走り回っている。よく見ると、逃げる側と追いかける側に分かれている。楽しげに追いかけている子は暖炉の子だ。その子たちが野猿のように機敏に動き、のろまの違い子らを捕まえ、のし掛かっている。奇異なのがその頭部の大きさだ。追う子らは皆、放線型の布袋を被っているように見える。
間近の物音に振り返れば子がひとり、倒れた食器棚の上に乗っている。顔は緑色に膨れ上がり、両耳が尖っている。歪な牙だらけの裂けた口で、ばりばりと痩せた腕を貪っている。
「ひぃ!」短く悲鳴を上げるレモロに反応したのか、棚の異形が歪な唇を曲げ、きゅきゅっと音を出して飛び上がり、煙の中に消えていく。
「イ、イーゴー!」戸口に見知った影を見つけ、すがる思いでその足にしがみつく。
イーゴーは前に見た仮面を被っている。彼は扉に立ち、逃げ出そうとする子どもを押し退けている。
「見てみろ」彼は何食わぬ素振りで顎をしゃくり、暖炉の方を指差す。
そこでレモロはさらにおぞましい光景を見る。
普段食卓を囲む長机の上では、うつ伏せた女の姿が見える。隣には婆が座り、一心不乱に咒言葉を唱えている。
服装からして、女は明らかにモニーンではあるが、やはり頭部には腫れ上がった怪物の顔が付き、怠惰な動きで息を吐く度に分厚い唇を震わせ、時折、しがんだ血だらけの口許から、ずたずたになった肉片を吐き出している。腹は風船のように膨れあがり、婆の咒の抑揚に合わせるかのように、ぽこぽこと沸騰するふうに蠢いている。
すると、歪な二枚貝のようなその唇口が急激に蠕動し、激しく嗚咽を漏らしはじめる。腹がうねり、喉奥に何かが競り上がってくる。轟くような嫌らしい音で激しいげっぷを一度、二度、三度目に、どろりと緑色の肉塊を吐き出す。
「う…あ、」レモロは腰を抜かす。
「みろ」イーゴーが構わず平然と告げる。仮面で表情は覗い知れぬが、その指差す先、視線の先では吐き出された肉塊から膨らんだ四肢が蠢き、奇怪な産声が鳴り響く。
「もうじき、違い子はいねぐなる」自信に満ちた声。
「みな、じょうぶで、強え子になれる」
「…ちがう」レモ度は腰を抜かしたままにイーゴーから離れる。
「…ちがう」うわごとのように呟く、ちがう、ちがう。部屋の四隅まで逃げてうずくまる。
膝を立て目を瞑り、耳を塞いてやり過ごす。次第に部屋中の叫喚が修まってくる。ほんの少し静寂が交わり、ギギ、ギギと、軋む金属のような鳴き声がそこら中で聞こえてくる。
戸外では激しい風が吹いている。灌木が窓を撫で回し、風向きが変われば枝先が激しく窓を叩く。玄関のほうでも、何かが断続的に扉を叩いている。
ドン、ドン。ドン、ドン。
ビュウと雌猫の鳴くような甲高い風音が孤児院を包む。
ドン、ドン。ドン、ドン。玄関を叩く音も強くなる。
誰も、嵐に乗じた異変に気がつかない。
イーゴーも、咒に夢中な婆も。
ただひとり、いや、一匹の怪物だけがその異変に気がつく。
「ギギ」その、モニーンに似た怪物の鎌首が持ち上がる。野犬のような仕草で玄関へ続く扉を凝視し、ぶるりと躰を振るわせる。
「ョエエエエエーーー!!」
空を斬り裂く金切り声と共に、変形した腕がドレスを突き破り、肥大する。
ドンッッ!!
同時にもの凄い破裂音。突風が吹き抜け勢いよく扉を開く。
レモロも吹き飛ばされそうになるが、戸棚と壁の隙間に何とか逃げ込む。
彼はその隙間から状況を探る。扉にしがみついて踏ん張るイーゴー。軽々吹き飛ばされ風に巻かれる婆。同じく巻き上がる子どもの怪物と、血だらけの手足や臓物。
充満していた香の煙は突風に散らされているが、代わりにどこからか投げ込まれた丸い玉が勢いよく煙を吹き出し、あらゆる散乱物を隠していく。
そうして、再び煙る景色でレモロは見る。
部屋の中心、長机で四つん這いの姿勢で叫び声を上げる怪物と、激烈な勢いで一直線でそれにぶつかる、影の塊。
─ 続く ─
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?