竜の仔の物語 −第五章|二節|−ラームの攻防
竜の仔の物語 −第五章|二節|−
ラームの攻防
−その1−戦い前日
少し時間は戻り、ソリトア奪還から数日前。
ラームから北の街道を外れ、崖下に波頭の望める場所にミルマが立つ。彼女は海に向かい、ひたすらに奇妙な形状をした笛を吹いている。ストライダ特製のその笛からは何の音もせず、特殊な音波が海の魔物エギドナを呼び寄せるのだ。
「こんな作戦、師匠はどうして考えつくのだろう。」
やがて、東の海から歌声のような高音が聞こえ、トビウオのように海面から飛び出す群れが見えると、彼女は崖から離れ、ソレルたちを待つ。
一方、二人のストライダは藪の中にいる。彼らは崖からリコラに続く街道へ向け、かなり間隔を空けて、動物の血を草木に塗りつけていく。
「ウォー・オルグに鼻が効くという確証はないぞ。」ソレルが言う。
「鼻ではない、目だ。」レザッドが短く答える。
「だとしても、こちらへ向かって来るとは限らない。」「ピフならば、必ずこの血痕に気がつくはずだ。」
「逆に、すべての魔兵がこちらへ進軍しはじめたら、我々に勝ち目もない。」ソレルがなおも反論する。
「泣きごとだけ言いに来たなら、ラームへ帰れ。」レザッドの鋭い物言いに彼は諦めたふうに肩をすくめ、黙って従いはじめる。
ソレルは長い付き合いのこの男を知っている。やはりレザッドははじめから敵を本隊から引き剥がす算段はなく、すべての魔兵を相手してでも、ピフとウロイドを仕留めるつもりなのだ。
二人は黙って作業を続ける。しばらくすると、踏みしめた先、飛び出た白い糸に触れそうになると、ソレルがゆっくりとつま先をずらす。
彼は声を殺してレザッドを呼ぶ。指で合図し、足許の糸を指差す。「これは何だと思う?」
「知らん。だが、お前の様子を見れば、あらかたの想像はつく。」
彼らは糸に触れずに、その先の葉むらに入っていく。糸を辿るにつれ、それは絡み合いどんどん太くなっていく。糸は別の方向からも伸び、魔物が近いことを報せている。
ほどなくすると、開けた藪の先に枯れた古木が見える。一見すれば奇妙な瘤の付いた木肌のように見えるが、ストライダの眼を使えば、それが擬態した魔獣だということがわかる。
「あれがマンテコラスか。退治したのじゃなかったのか?」
「ああ、だがどうやらもう一匹いたようだ。」二人が見てる間に、マンテコラスが奇妙な音を出しはじめる。怪我を負い、金切り声を上げる鳥のような声だ。
「獲物が髭に触れた。」二人は観察を続ける。すぐに遠くから獣の悲鳴が聞こえ、髭に絡み取られた狐が手繰り寄せられる。暴れる獲物を捕捉すると、髭に包まっていた人間によく似た巨大な顔が現れ、大口を開けて狐を丸呑みする。そうして、再び顔を髭に隠し、何事もなかったかのように巨木に擬態する。
「マンテコラスは、何も無ければああして周囲の生き物を食い尽くすまで、数年はそこに留まる。」
「髭の範囲は?」
「かなり長い。あの巨体の五倍は伸びるだろう。」
「ふむ、これは使えるな。」「どうかな。・・吉と出るか凶と出るか。」短絡的なレザッドの物言いに、ソレルが意見する。
「どちらにせよ、使わぬ手はない。」
彼らは髭の範囲を大回りし、動物の血を塗りつけていく。そうして街道の側に出ると、レザッドはポーチから藁で編んだ馬を取りだし、近くの小枝に括り付ける。
そうして二人はミルマの待つ崖へと戻っていく。戻る際は葉むらをわざとかき分け、分かりやすい獣道を作っていく。
「それで、あの藁の馬は?」ソレルの質問に、レザッドは答えない。「ピフとウロイドとは、どれくらいだった?」別の質問に切り替える。
「さあな。数年か、数十年だったか・・、」それだけを言う。
それ以上何も訊ねずにいると、今度はレザッドの方から口を開く。
「イギーニアに来た時のピフは、ミルマよりもチビだった。」
「ほう。」珍しく過去を語りはじめた彼に、ソレルが相づちだけを打つ。
「それでも奴はすでに、タミナから金貨三十枚の懸賞が掛けられていた。」レザッドは途切れ途切れに語り出す。
それはピフがまだストライダではない時の話だ。彼はタミナの貧民街で育ったという。盗みはするが殺しはしないというのが彼の信条であったが、ある時ごろつきの罠に掛かり、殺人の罪を擦り付けられた。
「それで奴は、名を変えたいという。・・奴の本名はなんだったか。」そこでレザッドの昔語りは突然途切れる。
しかしソレルは続きをせがんだりはしない。それでも彼には、この無口な男にしては随分な長話をしたことを、興味深くも、面白くも感じる。
◇
「ウロイドのことはよく知らないね。」
ソッソが裂けた口できゃははと笑う。オトネは苦笑いで応じつつも、相づちだけを打つ。
「あいつ、無口、っていうか一言も喋らなかったけど、飯はいつも作ってくれたなぁ。・・つってもまあ、ただ焼くだけだけどねぇ。」
「マニオレは?」オトネを挟み、隣に座るラウが顔を突き出す。
「あいつはレザッドと時々組んでた。付き合いも長かったみたい。だからレザッドにとって、マニオレが魔兵になってピフを殺って、それからウロイドがマニオレと相討ちになったのは・・、」そこでソッソが首を傾げる。「・・どんな気持ちなんだろ?きゃはは、知らね。」
三人は砦の物見台に座り、敵に備える合間の僅かな休息を取っている。ソッソは魔兵となってしまった仲間のことをなぜだか楽しそうに語るが、それを聞く二人の顔は真剣だ。
「・・じゃあ、ピフは?」ラウがソッソの気分を損ねぬよう、慎重に訊ねる。
「ピフ!」すると彼女は笑い出す。「あいつはおっかしいんだ。」そうして彼女は思い出を語り始める。
ピフとソッソは同時期にイギーニアに訪れたという。そこでのやり方は全てレザッドに教わったと言う。修行も仕事も戦い方も、全てをだ。
「でね、あいつ、ガキの頃から悪党で、タミナで懸賞金掛かってたから、名前変えるっていうんだ。それで、レザッドに別の名前を名付けてもらうことにして、二人してあいつのとこいったんだ。」楽しげに話す。「で、そのことをレザッドに頼むと、あいつ、考えもせずに一言。“ピフ”って。」
彼女は身体を捻って笑う。「それで、みんな大笑い。」
「なぜ?なんでみんな笑ったの?」オトネはくすりともせずに訊ねる。
「おっかしいんだ。だって、それって、その時レザッドが乗ってた馬の名前なんだもん。」ソッソがさらに身をよじらせる。それから身体を起こすと、彼女は急に寂しそうな顔になる。
「・・けど、あいつはすげぇ喜んださ。・・そりゃそうだ。レザッドに名前をもらったんだもの。あたしだってほんとは羨ましかったんだ。」彼女の声色が少し変わる。
二人は黙っている。
「で、それから、その“ピフ”って馬が死んだ時、あいつは藁で編んだ馬をレザッドに送ったんだ。これが“ピフ”の代わりだって。・・ガキだったからね。」彼女は首を逸らす。オトネは彼女の頬に光るものを見るが、やはり何も言わない。
「・・あの藁の馬、・・レザッドはどうしたんだろう?」
◇
砦の裏側では、ダバンとブブリアが砦の点検をしている。裏手は太古の森から流れ出る小川を利用し、深い堀になっていて、水底を通る水路から返しの付いた壁を通り、砦内部の裏庭の小川に繋がっている。
「妖精王の話では、ここの水は少量だがアーミラルダの加護が溶け込んでおり、魔物にとっては毒に近いとのことでしたな。」ブブリアが意見する。
「うむ。だとすれば、堀を潜り裏庭に出ることも、壁をよじ登ることもないじゃろう。それに背後は太古の森。闇の魔道士も、エルフを警戒していないとは考え難い。」ダバンが言う。
「主戦場となるのはおそらく正面と側面のみ、・・それでも、いささか人手が足りませぬな。」
「少ない人数で、多くの敵を打ち倒す。それで犠牲者も少なくて済む。」ダバンは豪気なことを言う。真っ白の眉に真っ白の頭髪。瞳の虹彩も多少あせてもいるが、背の低い老人のその肉体は、はち切れんばかりに膨らみ、未だ衰えを知らない。
彼らは表口へ戻って来る。そこでは最後まで残った従事者たちが砦の補強に勤しんだり、ミスリルの加護を受けた武具を確かめるための訓練に興じている。
「残った者は二十名ほど。馬も全て逃がしたというのに、彼らはよくやってくれている。」
「うむ。我らと同じく、闇の勢力との戦いを使命と感じてくれておる。ありがたいことじゃ。」
「この砦も、どれだけ持ってくれるか。」
彼らは砦を見上げる。中庭からは入り組んだ坂道と、いくつかの防御壁で区切られていて、当然、内部も敵の侵入を撹乱する造りとなっている。もし正門が破られることとなれば、後退しつつ牽制し、最終的には砦の屋上に設置したクロスボウで迎え撃つ。それでだめならば尖塔へ逃げ込むか、でなければ、砦を捨てて撤退することになるだろう。
「ストライダ、いや、ベラゴアルドは試練に立たされておる。」ダバンが感慨深げに言う。「・・ミルマは大変な時期に訪れたものよ。」
「あの子は、自らの運命を自らが選んだ。」
「うむ。そうじゃな。それだけのことじゃ。」ダバンはそう言い、旧来の友と向き合う。
「ブブリアよ、魔の物を打ち倒すのが我々の使命じゃ。」今更なことを言うラーム提督を、ブブリアは茶化しもしない。
「だが、時として、老いた戦士は、未来を担う者のために、別の決断をする場面もあろう。」
ブブリアが静かに頷く。目の前に立つラーム提督と同じく、彼も真っ白な頭髪だが、背は高く、しなやかな長く細い手足をしている。
「大戦以降、ベラゴアルドの最大の危機。ストライダとして仕事を全ういたしましょう。」
老人達が頷き合い、肩を強く叩き合う。
◇
砦の正門前では黄玉を持ったルグが、ルーアンの指示で、砦の防壁を見て回っている。
と、そこへダオラーンが戻ってくるのが見える。
「ねえマルドゥーラは?」ルグの質問に、彼は申し訳なさそうに首を振る。
「やはり太古の森へ入ってしまった。二日待ったが戻っては来ないようであった。」
「だが、守りの咒具が打ち破られれば、間違いなくオトネを狙いに戻るであろう。」ルーアンが言う。
「飛んでるから、この壁は役に立たないな。」ルグが高い防壁を見上げる。
「しかし、大門は、ファルニリル殿のアリアルゴで補強され、魔兵にはまず打ち破られることはないであろう。」ダオラーンがそう言えば、「メチアの施した守りもある。」ルーアンも続ける。
「魔兵の装備はどんなだろう?この壁、登れる?」
「イギーニアの者が魔兵となったならば、鉤突きロープひとつで、よじ登れるでしょう。」
「どれくらいのひとが、ゲヲオルグになったんだろう?」
「それも問題ですな。ソッソ殿の耳でも、ウォー・オルグとゲヲオルグの聞き分けは出来ぬとのことでしたな。」ガンガァクスから確認された報告では、必ずしもストライダだけがゲヲオルグになるわけでもない。「敵の数、イギーニアとリコラを合わせれば、三、いや五千はくだりませんな。」ダオラーンが髭を整えさらに続ける。
「ラウ殿に闇の魔道士の相手をしてもらう以上、ルグ殿には、イミィールの相手をしていただくことになるやも。」
「それは、おれも望むと所だってば。」
「そうなると、やはりマルドゥーラが厄介ではあるな。」ルーアンが言う。
「任せとけって。」ルグは大きく息を吸い込み、鼻をすんすん鳴らす。「天気も、そう悪くないからさ。」
「それはそうと、ダバンにもすでに断ってはいるが、」ルーアンは低い声で告げる。「この戦いが終わり次第、我らはオトネを連れて、ハイドランドを目指す。」
「そこに何が?」ダオラーンが訊ねる。
「・・うむ。大事な用事だ。」ルーアンはそれだけを言う。
「ミルマも連れてって良いのか?」と、ルグ。
「いや。ハイドランドには、我とラウ、それからオトネだけで向かうつもりだ。」
「はぁぁぁ!?」ルグが大声を出す。
そこで指笛が聞こえる。見上げると、物見台でソッソが立ち上がり、東を指差し、隣でラウとオトネも手を振っている。
「魔兵がリコラから動き出した合図だ。」ダオラーンが言う。「さ、話は敵を退けてから、ゆるりと。」彼に促され、ルグは口を尖らせながら砦に引き上げ始める。
「ルーアン、後でちゃんと話し合おうな!」強い口調で言うルグに、ルーアンは何も答えない。
それから開かれていく門を待つ間に、思い出したかのようにルグが振り返る。「・・ねえ、そういえば。」
「な、何であるか?ルグ殿。」ダオラーンがぎくりと背筋を伸ばす。何度となく経験したこの場面に、彼は覚悟を決めている。
「・・おじさん、誰だっけ?」案の定の問いかけに、彼はお決まりの姿勢で大袈裟に転んで見せる。「おろろろ。」
◇
「それじゃ、あたしたちは行くね。」
フリセラがアルベルドに別れを告げる。すでにクゥピオの背には団長らが乗り込んでいる。グリフィンの機動力は戦力としても使えるが、イミィールとマルドゥーラ、飛行可能の敵が確認されている以上、戦いで失う訳にはいかない。そこで話合いの末、彼女らは戦いの間、別の場所へ避難する運びとなったのだった。
「合図があるまで、絶対に戻るなよ。」アルベルドが真剣に言う。
「わかってる。」
「戦の音が止んでも、最低一晩は待て。」
「うん。」
「ルーアンもしつこく言ってたけどよ、おまえたちはファフニンを守るんだ。あの鉱竜の力が知れたら、人間にだって利用されちまう。」彼らはクゥピオを見る。ここからは見えないが、妖精はファフニリルの力を使い果たし、何日も眠り込んでいる。
別れが苦手な二人はそこで黙り込む。フリセラも、魔神や闇の勢力との戦いが、吸血鬼退治よりも激しい戦いとなることはもちろん承知している。しかし彼女は、惚れた男がストライダであった以上、毎日毎夜、どの場面でも覚悟は持っているつもりでいる。
そのつもりでいるが、やはり二人の間に入り込んだ寂しさは、どうあっても取り払うことができない。
「・・えと、」アルベルドが頬を掻く。「おれたちがしくじったら、次の標的はおそらくタミナだ。」
「うん。」
「そうなれば、タミナの、」
「カユニリさんでしょ?もう何度も聞いたから。」
「ああ、そうだったな。カユニリは、右側だけ白髪頭だ、見ればすぐ、」
「わかってるってば!」
「・・悪い。」
「・・けど、そうはならないんでしょ?」
フリセラの問いかけにアルベルドは何も答えない。そこで再び集合の角笛が鳴る。二人はそれが鳴り止むまで見つめ合う。
「じゃあ、いくね。」フリセラが手を差し伸べる。アルベルドが手を取り、そのまま彼女を引き寄せ、短い抱擁をする。
そうして彼女はクゥピオに乗り込んでいく。
「メッツ!みんなを頼んだ!」顔を出したメッツに向かってアルベルドは叫ぶ。彼女はいつもの目つきで大きく頷き、しっかりと親指を立てる。
「アル!こっちのことは心配するな!」ウンナーナ団長が帽子を振り上げ叫ぶと、グリフィンが舞い上がる。枯れ葉が風で渦を巻き、アルベルドを包み込む。それでも彼はまんじりともせず、南の空に消えていくその影が見えなくなるまで見守り続ける。
◇
「戻って来た。」藪から気配を察知すると、隠れていたミルマが穴から飛び出し、二人の元へ走っていく。
「巧く呼び寄せたようだな。ミルマ。」ソレルが崖下がのぞき込めば、おびただしい数のエギドナの影が水面に見え、辺りには奇妙な歌声が聞こえている。それは心の弱い者が聞けば、無意識に海に飛び込み、エギドナの餌食となる死の音色ではあるが、ストライダたちにそれは効果を成さない。
「ここいらのエギドナは、“竜の海”のよりもかなり小さいな。」「そうなんだ。」レザッドの呟きにミルマが感心する。
「まさか、ストライダが魔物の手を借りるとは思いませんでした。」
「借りるのではない。ぶつけるのだ。」
「ねえ、少し考えたんですけど、」ミルマがさらに意見する。「魔兵が人間を捕虜にとってたら?・・ええと、その、兜か何かで顔を隠して、ウォー・オルグに紛らせて連れていたら、どうするんですか?」
「ストライダが魔の物を見誤ることはない。」ソレルが言う。
「そんなものですか。」ミルマは首を傾げる。
「間違いはしない。いくら人間に似ていようと、ストライダは魔の物を見分けることが出来る。」
「だが、仮に誤って人間を殺したとしても、それはやむを得ぬことだ。」そう言ってのけるレザッドに、ミルマが目を丸くする。
「忘れたかレザッド、」「アーミラルダの呪いなど無い。」ソレルの鋭い声をレザッドが遮る。
「なぜストライダは人間の手足を切り落としても、呪いには掛からない?」ソレルが口を開く間もなく、彼は続ける。
「その後、切り傷病や出血や高熱で絶命しても、なんら異変は起こらん。その場で殺すのが悪いのか? ならば、致命傷を負い、数歩先で息絶えても、視界から消えれば、呪いは免れるのか?」
「わからんよ。・・しかしそれが呪いというものだろう?」ソレルが肩をすくめる。
「ライカンは人間の血を多少舐めても狂わぬ。肉を噛みちぎってもな。だが、食うと途端に狂う。そもそも、なぜ人間だけなのだ?なぜ他の種族を殺しても、呪いは適用されぬ。」レザッドはさらに続ける。「なんなのだ?その曖昧な呪いは。」
「何が言いたい?」
「ようは、意識の問題だ。罪の意識、それに呪いは反応する。」
「つまり、そいつを感じなければ、ストライダは人間を殺せると?そう言いたいのか?」
「実際にその例はある。」レザッドは語りはしないが、ラームの者もその事例を知っている。
それは十数年前のイギーニア。その砦にひとりの男が訪れたという。男は流行病で顔が崩れたと話し、常に布を巻いていたという。そんな男は数日逗留したかと思えば、アーミラルダの泉に向かうと言い残し、砦を去っていった。誰も止めはしなかった。どこで誰が命を落とそうと、イギーニアは自由意志を重んじているからだ。
誰しもが戻りを予想はしていなかったが、男は傷一つ負わずに戻って来た。布から覘く瞳はストライダの青い輝きを灯していた。しかし男はストライダにはなるつもりはないという。それがイギーニアの唯一の規律に触れた。イギーニアを訪れストライダとなった者は、砦を拠点に生涯を過ごすという唯一の戒律だ。皆は男を咎めた。しかし、男はなんの反駁も言い訳もなく、代わりに、黙って剣を抜いた。そうして、実に三十名の手練れを事もなく斬り伏せ、男は去ったという。
「ストライダでは、なかったのではないか?そもそもそんな者をアーミラルダが選ぶとは考えられん。」
「おれもその場には居なかったからな、真相は分からん。だが、それ以来、イギーニアの者は、呪いを信じていない。」
「・・試したんですか?」ミルマが不安げに口を挟む。「その、レザッドさんは、人間を殺したことがあるのですか?」
「山ほどな、」その言葉にミルマがぎょっとする。
「ストライダになる前の話だ。」ソレルがそう付け加える。
「だが、もし小鬼の穴に人間がいたら、区別なく射貫くつもりだ。」そう続けるレザッドに、二人が顔を見合わせる。
「・・だとしても。お前が呪いを被ることに変わりはない。」ソレルが口角を引き上げ、肩をすくめる。
「なんだと?」睨むレザッドに彼は続ける。
「お前が、ここに立っていることが、その証拠だよ。」
その言葉を最後に、ストライダたちは同時に藪を見る。音と匂いから、間兵どもが進軍をはじめたことを彼らは察知する。
◇
同時刻。リコラの街を蹂躙し尽くした魔兵が進軍をはじめる。隊列を組み、呻き声さえ上げない。しばらくすると、列から双剣を背負う一体のゲヲオルグが外れ、それに従うように背の高いもう一体が街道から逸れる。
ゲヲオルグは藪へと入り、しゃがみ込む。枝に括り付けられた藁の馬を乱暴に掴み取ると、濡れた赤い瞳でまじまじとそれを眺め、小さく声を上げる。すると後ろの長身のゲヲオルグが咆哮を上げ、それに応じた千ものウォー・オルグが藪へと入っていく。
それを上空から見ていたイミィールが翼を切り返し、バライガの隣に立つ。
「おい、風船野郎。」
「バライガです。何度申したら・・、」その闇の魔道士は、四人の魔兵が担ぐ台座に座り込んでいる。
「オルグが道を逸れていったぞ。操れてねえんじゃねえのか?どうなんだ、風船野郎。」
「ふいい、」バライガが溜め息を吐く。「氷柱神様が進軍を急いだからです。なにぶん時間が足りませぬ故、すべてのオルグを完全に操ることはままなりません。」
「逃げちまったってことかよ。」イミィールが冷気を吐き出す。
「そうではありません。オルグどもは本能で人間を狩る。藪の先に人間でも見つけたのでしょう。皆殺せば、すぐに本隊に合流してくるはずです。」丸い腹が、ぴゅうと奇妙な音を立てる。
「あのオルグはもともとイギーニアの者、もしかしたら、ストライダが潜んでいるのを見つけたのかもしれません。」
「なんだと、」氷柱神の四つ目が吊り上がる。
「・・もしくは、ラームの罠かもしれませんな。」
「へぇ。」それだけ聞くと、イミィールが飛び上がる。
「お待ちに!」バライガの腹から下が糸となってほどける。ばねのように半身を台座から飛び上がらせが、上空のイミィールの隣へ並ぶ。
「さしたる問題ではないでしょう。そんなことより、いち早くラームを目指しましょう。」半身を地上に残したままに泰然と続ける。
「巣に籠もり、徒党を組んだストライダは手強いですぞ。」
「怖じ気づいてんじゃねえよ。」
「やつらは見知った領域においては、忌々しいほどの力を発揮いたします。入念な準備のもと、我々を待ち構えているでしょう。しかし、砦さえ潰してしまえば、奴らもただの野良犬と同等。」バライガが指差す先、隊列の後方、黒く煙った先には巨大な兵器が見える。
「ふぅん。」イミィールが腕を組む。首を傾け藪の先を見る。少し高台の崖の先には風に暴れる海が広がる。
「まあいい。」そうして魔神はそのまま低空に降り、台座の下半身をはね除け、その座面に沈み込んで深く背をもれる。
「ふぃぃぃ。」転がる半身にバライガの首が戻って来る。「ご安心下され。」鞠のよう地面を跳ねる。
「この紐使いバライガめがいる限り、必ずラームのストライダどもは滅びましょうぞ。」丸い目玉が無表情に言う。
−その2へ続く−
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