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尊き身代

—レムグレイド歴三百二十一年、紫千鳥十八の月—

 レムグレイド大陸北、港街ノマリナから南東に、チトマイオという小さな町がある。田舎でさしたる産業もないが、古くから王侯貴族たちの別荘地として栄え、温暖な気候と安定した治安を保ち、何より魔物が少ない土地である。

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 そんなチトマイオをガレリアン・ソレルが訪れたのは、レムグレイド王家の一端を担う大家、ヴァルデミリ家による依頼に応じるためである。

 街外れの警備に声を掛け、宿を取る間もなく彼は依頼宅に向かう。巨大な正門では、武器を預けろと言われ、彼はそれに従い剣と弓を差し出す。どちらも身の丈ほどのある武器を渡された守衛は、それだけで手一杯だったようで、灰色のマントの奥はろくに調べずに彼を通す。

 黄金杖を突き刺し眠る騎士、アーミラルダ守護四騎士が一翼、聖騎士ヴァルデミリ・カーズの銅像に見下ろされ、何もかも神経質なほどに四角く剪定された中庭を抜ける。邸宅の前では、背筋の伸びた身綺麗な老齢の男と、背の低い男が待っている。背の低いほうには見覚えがある。ラームに書状を送ったのもこの男だ。

「待っていましたソレル殿」その男だけが歓迎を現す。どことなく安心した様子も窺える。

「久しいですな、ノマリナのモウチ殿」ソレルも差し出されるままに握手で応える。

「覚えていてくれましたか」物腰柔らかにモウチは微笑む。

「覚えている。だがモウチ殿は風のつかさと記憶しているが?」

 その質問には、微妙に傾げた眉だけでモウチが反応する。何か事情がありそうだ。察したソレルはひとまずは多くを訊ねない。



 長く待たされ、屋敷へ招じ入られる。老齢の男は、挨拶もなければ見向きもしない。後に教えられるが、彼はこの邸宅を預かる執事長であり、王家に仕える身として、自国の民でさえない者と気安く話すことは出来ぬ決まりだそうだ。

 手続きを終えると執事長は姿を消し、モウチと二人になる。

「お嬢様のお世話は、わたしで五人目だそうです」老人の気配が完全に消えのを見計らい、モウチが事情を話し出す。

「先の三人は癒し手でした。初めの二人が症状を見誤り、次の者に交替された時にはすでに遅すぎた」

「遅すぎた?」

「い、いえ、もちろんエミリオお嬢様は御存命にあります」誤解を招くような言い回し。いまいち話は要領を得ない。

 そこでソレルは案内もなく階段を上がりはじめる。彼には、二階での異様な物音が聞こえているからだ。

 豪奢な調度品の並ぶ広く長い廊下を進む。壁には何枚もの王族の正装で決めた肖像画。その中の数枚、同じような構図でぬいぐるみを抱き微笑む少女こそが、問題の“お嬢様”なのだろう。

「お気を付けください。一部、拘束が解けてしまっています」遅れて付き従うモウチが警告する。最奥の扉に辿り着き、把手を握り、構わず扉を開いた途端、まず食器が飛んで来る。次に飛んで来た額縁を避け、寝台で半身を起こす影をソレルは見据える。

 少女はぼんやりと俯いた姿勢で、絵画でも描かれていた兎のぬいぐるみを抱いている。一見すれば普通の少女のようにも見えるが、後頭部から髪が逆立ち、それに混じり、目玉の付いた触手が伸びている。桃色のそれらは古木のように瘤を膨らませながら絡まり合い、部屋中に蔓延っている。

 触手は方々に括られたロープで動きを封じられているが、緩慢にうねる幾つかは赤子のような桃色の管を伸ばし、今まさに床に落ちた匙に絡みつき、投げ付けてくる。

「ひっ!」遅れて部屋に入ってきたモウチが、暗がりから飛んでくる気配に顔を覆うも、その鼻先でソレルが匙を掴み取る。

「ゲゲ!」少女がえずき、ひび割れた声で叫ぶ。

「ガ、ズ、ゲドン!」叫びとともに無数の触手が次々に部屋中に散乱する物を掴み、こちらに投げ付けてくる。「ガ、ズ、ゲッ、ゲッ!」

 そこで二人は部屋を出て、ひとまず扉を閉める。

「ゴァ、ズエエデ!」中で少女が老婆のような奇声を上げる。ソレルが寄りかかる扉の向こうで引っ切りなしに物がぶつかり、扉を乱暴に叩き続ける。

捧指瘤ほうしりゅうだ、もちろん知っているだろう?」

「アーラウネ」モウチが深刻そうに首を振る。「知っています」

「大層な屋敷の割に、質素な品物ではないか」先ほど掴んだ木製の匙をちらつかせるソレルに、モウチはただ苦笑いのみで応える。

 奥で叫び声が続く。それは何か特別な咒言葉まじないことばのようにも聞こえる。

「あの言葉の意味は?」

「意味などない。魔物が動く度に娘の喉を圧迫し、あんな声が出る」知恵のある魔物など滅多にいない。ソレルはそう付け加え、さらに続ける。

「しかし妙な話だ。先に癒し手が三人も診ていながら、なぜああなる前に?」

「それが…」モウチは言い淀む。

 ソレルは彼の提案を呑み、とりあえず客間で落ち着いて事情を聞くことにする。



 客間に案内したモウチは、ソレルを長椅子に座るように促すが、それを断られ、壁にもたれる彼へ向けて、所在なさげに目の前の水差しを持ち上げてもみるが、それも断られる。

「癒し手たちははじめ、ただの癇癪だと思い込んでいたそうです」ひとまず自分の口を湿らせて、モウチは続ける。
「部屋を出たがらず、明かりを嫌がり、使用人たちを遠ざけましたが、熱もなく、食欲は旺盛だったのでそう心配することはないだろう。彼らの判断はそうでした。しかし、エミリオお嬢様は次第に凶暴性を増し…、」

「…訳の分からぬ言葉を発した」ソレルから合いの手が入る。

「はい。そこで三人目の癒し手は、町の咒師まじないしを呼びました。次には、精霊憑きだと思い込んだのです」

「無理もない」

 アーラウネは通常キノコに似た姿で樹木などに寄生する魔物である。その姿での実害はほとんど見られないが、稀に人間に寄生することがあり、この魔物が人間を養分として生長すると、宿主の意識を混乱させ、ある程度操ることができる。

「だが、咒師は精霊憑きを否定した」

 ソレルの見解にモウチが頷く。そうして何かを言い出そうとして急に口を噤む。そこで執事長が幾人かの使用人を連れ、部屋に入ってきたからだ。

 ここまでのモウチの話に不自然な箇所はない。初期のアーラウネは寄生した肉の奥で成長し、表皮はただ疣にしか見えず、場所によっては発見し難い。また、根が喉を圧迫し宿主が不気味な声を発するようになると、知識に乏しい者は決まって“精霊憑き”と勘違いするものだ。

「そして、咒師がアーラウネを見つけた。そうだろう?」促すふうにソレルは訊ねる。少し待ち、モウチが何も言い出さないのを確認し、ソレルは先ほどの木製匙を掲げてみせる。

「咒師は、あの娘が銀食器を嫌がる様子に気づいた」ソレルは確信めいた推測を続ける。「寄生した魔物に同調し、宿主は銀を嫌がるものだ。それが判りさえすれば、原因は明白となる」見渡して、誰も口を開かずにいるのを確認し、続ける。

「癒し手は慌てて部屋中の銀を撤収した。でなければ、アーラウネが成長するにつれ、あの娘の皮膚は爛れてしまうからだ」

 やはり誰一人として頷きもしない。

「しかし結局処置は遅れ、原因が知れたところで、癒し手たちは追い出された。その時点で近隣にめぼしい癒し手はいなくなり、多少知識が重なるあなたが呼ばれた。そういう経緯でよろしいか? モウチ殿」

 名指しにされたモウチは曖昧に頷くばかり。途端に何も語らなくなった彼の様子に、ソレルは息を漏らし執事を見つめる。執事たちはソレルの立つ壁側とは逆の壁に並び、黙って佇んでいる。やはり彼らも黙りこくり、ただ監視するふうに二人を見ている。

「事情は把握した、ということにしておこう」仕方なくソレルは独り語りを続ける。

「…だが、肝心な箇所がまったく語られていないのでは?」

 やはり質問に対する応答はない。

「なぜ、あの娘を放っておく?」もったいぶらずに核心を突くも、やはり誰も応えてはくれない。

「アーラウネだと分かっていたのなら、癒し手でも咒師でも対処できたはずだ。知らないはずはなかろう、広く知られた方法だ」半ば独白を決め込みソレルは言う。

「無論モウチ殿、あなたでも」

「わたしは風の司です」そこでモウチがようやく口を開く。「帆に風を送る ことしかできない、ただの船乗りです」しかしそれは言い訳にさえならず、ソレルでさえ、その真意を計りかねてしまう。

「ならば執事殿、あなたでも対処できるはずだ」次に執事に問いかける。その少し白濁した瞳は何の感情も語らず、かといえ、決して侮辱しているふうにも見えない。

「五人もたらい回しにした挙句、あの娘を放置し、なぜ、わざわざラームに頼る?」ソレルは観念したふうに辺りを見渡す。

「呼び出されたとて、歓迎されぬことも慣れている」つい皮肉を吐いてしまう。よっぽどこのままこの部屋を出ていけたら楽か。そうは思うがそうはしない。

「誰か何か答えてもらおう」彼は辛抱強く誰かしらの言葉を待つ。ラームでこれが出来る人材は少ない。だからいつでもこの手の、ある種の“面倒”事となると、いつでも彼が呼び出され、対処するはめになるのだ。

「三人の癒し手と申したな?」埒もなく、試しに質問を変えてみる。

「モウチ殿、あなたは五人目だと」それを受け、モウチがぴくりと肩を振るわせる。ソレルは見逃さず、そこから攻めてみる。

「四人目は?」

「…知る必要は、ございません」そこでようやく執事の老人が口を開く。

「かもしれませんな」ソレルは茶化すことなく応える。

「ストライダの仕事はただひとつ」執事が当然の如くこう告げる。「魔物を退治していただくのみ」

「ならば、すぐにでもそれを成しましょう」これで済むはずはなかろう。そう確信しつつ、ソレルは大袈裟にぱちんと両手を弾き、部屋を出る素振りを見せる。

「あのっ!」案の定、モウチが呼び止める。しかし彼が何か言う前に、執事のほうが言葉を重ねる。

「エミリオ様は白鵜で六つになられる。男子であれば、第九位王位継承権を持つ御身」

「それが?」聞き返しつつも、ソレルは先の展開を掴んでいる。つまり、この仕事に解決はない。少なくとも、雇い主が望むような解決は、だ。

「すでにロレヒンデ家とのご縁談も、持ち上がっておられる」

「それはめでたいことですな」ただ肩をすくめてみせる。間の抜けた対応でいるのは、はっきり言うように促すためだ。

「ストライダ殿には、ただ魔物を退治して頂くのみ」執事が先ほどと同じ科白を吐き、「…但し、」充分間を置きこう続ける。

「但し、お嬢様を無傷で。それがヴァルデミリ家当主、ヴァルデミリ・オルデウス様のご意志でございます」



 ソレルはヴァルデミリの別宅を後にする。守衛は武器を返してはくれず、彼もその方針に従う。

 二日の有余。自らがそう提案したのは、さしたる解決案を見出したからではない。単純な話、見たところ、それ以上はエミリオの体力がもたないだろうからだ。

 とんだ貧乏くじを引かされたものだ。そうは思うが今出来ることをする。ひとまずソレルは街から出て森に入り、めぼしい薬草の材料を調達する。弓もないので牽制用の投げナイフで数羽の小鳥を打ち落とし、森でそのまま夕げを過ごす。

 彼はただ、時間をやり過ごすつもりでいる。小鬼でさえ見たこともないような、貴き方々の茶番に付き合うつもりはもうない。頃合いをみて邸宅に侵入し、強引にでも魔物を退治し、その脚でラームに引き上げてしまえば良い。彼はそんなことを考えつつも、生真面目な性格が災いし、一方では何かしら穏便に済むような手立てを考え、頭を巡らせてみてはいる。

 アーラウネは取るに足らぬ魔物だ。寄生されても命を取られることは滅多になく、その対処法も広く知られている。

 あれを退治するには、寄生された者に骨を食わせれば良い。ただそれだけで半日も待たずに魔は消滅し、さしたる後遺症も残さない。

 但し、骨は寄生された本人の骨でなくてはならない。親でも兄弟でもない、自分自身の骨を喰らうことが唯一、自らを救う方法となる。大した量でもない。ほんの小指ほど。それだけの骨を飲み込みさえすれば、その命は救われる。

 指を捧げる瘤、捧指瘤。名の通りだ。民間では大した厄災でもない。嵐が小屋を吹き飛ばす、木樵が巨木に潰される、猟師が高波に攫われる。魔物でなくても生きていれば厄災など山ほどある。小指を捧げる程度で済むならば、一晩休むだけで畑仕事にも戻れる。

 爆ぜる焚き火を見つめ、ソレルは僅かに顔を歪める。

 とはいえ、放置して良いという魔物は存在しない。アーラウネが成長すると、その宿主は混濁した精神のままに激しい痛みを伴う。あそこまで成長したとなれば、少女の苦しみは余程のものであろう。

 地位と財産を守ることしか頭に無い連中は厄介だ。その尊き身代、指一本でも失われでもしたら、価値を大きく損なうというわけだ。実子でさえ、ひとたび傷ものとなれば用無しとでも言いたげだ。ゴブリンよりも愚かな連中。だが刃も鏃も喰らわせられぬぶん、ストライダにとっては遥かに厄介な連中。

 あの少女。エミリアといったか。彼女は孤独だ。広い敷地に衛兵に使用人、多くの者に囲まれながら、誰ひとり助けを差し伸べようとはしない。

 なぜそれほどまでに愚かになれる?

 そうして彼は苦悶に叫ぶ少女の面差しを思い出す。魔物の声に意味などない。「ガ、ズ、ゲドン」「ゴァズ、ゲーデ」何度も繰り返されていた言葉。それを頭で響かせつつ、彼はストライダの“耳”を使う。少女の声を頭の中で繰り返し、濁った音域だけを切り離し、少女本来の声だけを拾っていく。

 タ・ス・ケ・テ

「無駄な時を過ごした」

 ソレルは呟き、立ち上がる。ゆらりと脚を踏み出した途端、木々を風のように抜け、森の切れ目を目指して音もなく木々を縫い、走り抜ける。

 ところが不意に、彼の頬に何かが張り付く。枯葉にしては柔らかな肌触り。妙な予感に、彼は直ちに脚を止める。

 剥がして見てみると、それは人型に切り取られた紙片だ。気づけばそんなものがひらひらと蝶のように飛び交っている。

 「なんだ?」次々舞い上がる紙片を払い除ける。腰のダガーを抜き、紙片が張り付く前に空中で斬り刻むも、木々の揺らめきは激しくなり、虹色に輝く靄が辺りを包む。

幻覚魔法ハルシネーションか!」咄嗟にポーチから気付けの実を取り出し、奥歯で噛み砕く。強烈な酸味が眼の奥で弾け、歪んだ景色が元に戻る。

 途端、視界に飛び込む人影を認めたソレルは、半歩飛び退き、両のダガーで十字に構える。

「素早いの」声は構える向きからではない。高速で身を翻しつつ、ソレルは気配に向けて、躊躇いなく突きを繰り出す。

「ふぉ!」

 今度はすぐ目の前、木のうろに嵌まり込んだ老人は、鼻先に刃を突きつけられつつ、余裕で笑う。



「驚かせたわな」老人が平坦に言う。大きな三角帽子に長い鷲鼻、皺だらけの皮膚、足首まですっぽりと纏ったぼろぼろのローブ。ガールーラの時代から変わらず、いかにも子供向けの物語に出てくるふうな、古典様相の老魔法使いオールドソーサラーだ。

「今の仕打ちは?」敵意の見られぬ相手にソレルはひとまず刃を引く。

「ああでもせねば、じじいに止められる手立てはなかろう」しゃがれた弦楽器のように咳き込み、そこから声色が変わる。

「ずいぶん急いでいるようじゃが、どこへ行く、ストライダ?」

「少女を救いに」即答しつつ、ソレルはひとまず半歩下がる。構えは解くも、ダガーを収めずにいる。魔法使いだとすれば、今見える容姿が真実とは限らないからだ。

「ずいぶんつまらぬことに巻き込んでしまったな」

 しかしその言葉で、ソレルはある程度の流れを把握し、正式に武器を収める。

「なるほど」警戒を緩めはしないが、姿勢だけはほぐして見せる。

「…あなたが四人目、というわけですか」

「ふぉ!」老人がもう一度笑う。

「鋭くもある。さすがは灰色のソレルよ」

 おためごかしとまでは取らぬが、魔法使いの言葉にソレルは眉ひとつ動かさない。ただ観察し、次の言葉を待つ。

「ヴァルデミリ・オルデウスはたいそう横暴な男でな…」

 老人が話し、ソレルは黙っている。魔法使いの知り合いは少ない。だが、話し方や笑い声からして決して知り合いではなさそうだ。

「金貨を積まれ、ハエのように集まる連中はいつでも現れるが、オルデウスは決して失敗を許さぬ。それで皆、結局は離れていく。狭窄な男じゃよ」 

「そして、今にも自分の娘さえ失いかけている」

「まったくじゃ!」ソレルの意見に、老人は咳き込むふうに同意する。

「強引にこのわしを呼びつけもしたが、結果は変わらん。アーラウネは魔法で消せはせん。そうじゃろう、ストライダ。自らの血肉を捧げるほか、救われる術はない」

「これ以上、そちらの事情に付き合う気はありません」同意はせず、ソレルは肩をすくめてみせる。

「…じゃが、一度は躊躇した」

 三角帽子の切れ端から覗く眼差しにも、ソレルは何も答えはしない。図星ではある。あるいは、いくらか良い手立てが見つかりはせぬかと躊躇いもしたが、今は違う。

「ただ事を成し、この土地を去ります」それだけを告げ、マントを整えその場を去ろうとする。

「救うべくを救うのみ、か」老人はストライダの訓示を引き合いに出し、「…わしは投げ出したがな」そう続け、うろの奥へとさらに縮こまる。

「放っておけば良いと思っておった。このベラゴアルドで、権力や血筋なぞでは、思い通りにならぬ物事もあるのだと、灸をすえる気持ちで静観しとった」

「二度言いますが、そちらの事情には…」

「…じゃが、次に呼ばれたのが、弟子の知り合いと聞いてな」老人は構わず続ける。「モウチと言う男、あやつは臆病だが善良な男と聞く。何よりの不幸は、ヴァルデミリに雇われていたということじゃ」

「…三度は言いませぬ」ソレルは息を漏らす。

「先に呼ばれた癒し手はどうなったと思う? 皆、ロカラク監獄に送られたそうじゃ、王家叛逆の罪での」

 魔法使いは事情を語り続ける。年寄り特有の強引さ。ソレルはむしろそれ自体にはラームで散々慣れてさえいる。彼は三たび肩をすくめ、観念したという態度を見せる。

「優秀な弟子の手前、モウチをそのような場所に送られるのを、見過ごすわけにはいかぬのじゃよ」

「くだらぬ事情の矢面に立たされた、子どもの苦しみは?」

「耳が痛いわい」老人はしかめ面で自分を責めるふうに言う。

「オルデウスも、たまさかこうも娘を放置するとはおもわんかった。どうにもならぬと思い知れば、流石に命に代えは利かぬことを悟るじゃろうと考えておった」

 そうして老人はのそりと立ち上がり、力なくこう続ける。

「…ひとつ、…頼まれてくれぬかの?」

 ソレルは決して頷きはしない。「この森に、魔法使いが隠遁しているなどという話、聞いたこともありませんがね」代わりにそう告げる。

「おお!」老人は思い出したかのように声をあげる。「これは失礼をした」

 そうしてゆるりと魔法使いはうろから這い出る。おぼつかぬ足取りで掴む木の根が盛り上がり、気がつけばその痩せた指には、立派にねじ曲がった杖が握られている。ぼろのローブは枯れ葉のように剥がれ落ち、みるみるうちに眩しいほどに純白のローブに変わる。同時に、顔つきも先ほどとは違う疣ひとつ無い柔和な深い皺と、長い白髭が特徴的な、これもやはり古典的な老魔法使いとなる。

 そう、これはこれであまりにも古典。王都の吟遊詩人が好んで謳うその姿、佇まい。胸に刺繍された対に絡み合う六つ羽鳩、王国付き魔法使いキングダムソーサラーの紋章をみれば、正体は容易に知れる。

「…あなたは」

「しっ!」魔法使いはソレルの言葉を指で遮り、茶目っ気のある目配せを送る。「これ以上、事を荒立てとうないのじゃ。…わしはここにはいなかった。どうか、そういうことにしてくれんかの?」

 それを受けソレルがにやりと笑う。

「確か、あなたはかつて、沈黙の魔法使いとも呼ばれていましたな?」

「言うな、灰色よ!」ソレルの細やかな皮肉を受け、渋い顔でかぶりを振る。「噂よりもわしがずっとお喋りなことは、このわしが一番自覚しておるわい!」

 白の大魔法使いアリアトは、大らかに笑う。



 次の朝、ガレリアン・ソレルは早くから屋敷を訪れる。険しい顔で早足で二階を目指す彼の様子にモウチも覚悟を決めたようで、顔色も変えず、黙って後に続く。

 ストライダの手際は鮮やかなものだ。暴れるアーラウネの触手を縛り上げ、エミリオを楽な姿勢に起こしてあげる。そうして取り出した小瓶の蓋を開け、液体をひと掬いして彼女の額に塗りつけてから、何かの丸薬を飲み込ませる。

 すると苦悶の表情を浮かべていたエミリオが穏やかになり、やがて静かに目を開ける。

「…だれ?」きょとりと目を瞬き、すぐに顔を歪める。「…苦しい」動けぬ身体で半身だけを捩らせる。

「もうすぐ終わる」

 エミリオは事情が飲み込めぬ様子ではあるが、それでもその灰色の眼差しをじっと見つめている。

「いまから、きみの小指を切り取る。そうすれば、きみに取り憑いた魔物はすぐにいなくなる」

「怖い、夢を見ていたの」ぼんやりと言う。

「悪夢など、目覚めれば消し去るつまらぬものだ」

「どうしてあたしだけこんな目にあうの?」少女は恐怖に引きつり、瞳いっぱいに涙を浮かべる。

「それは違う」ソレルは少女の手を握る。

「どう言ったら良いか…」彼は戸惑っている。王族の規範も、魔法使いや老人の長話も、適当に受け流すことは出来る。だが、涙を流す子どもを、どう受け流すことができよう?

「かつて、聖騎士カーズは邪悪な闇を退けた」そこで彼はヴァルデミリ家にまつわる伝説を引き合いに出す。

「しかし、闇とはそう簡単に消えるものではない。そこでカーズは人々の暮らしのために、自らの犠牲を選んだ」

「知ってる」エミリオが口を挟む。「地母神様の杖を突き立てて、聖騎士様は眠りについた」どうしてこんな時に御伽噺なんかを? そう言いたげに疑念の目を向ける。

「カーズは眠りについた」語るソレルも分かってはいない。なぜ自分が信じていさえもしないこんな伝説を持ち出したのか、この先何を言えば済むのかさえ、彼は手探りのままに続ける。

「英雄は今でも闇を押しとどめ、聖鈴都市アルトルで眠りについている」

「…あたし、犠牲になるの? みんなのために、ずっと怖い夢を見るの?」

「そうじゃない」慌ててソレルはかぶりを振る。

「いいか、よく聞くんだエミリオ」

 そうして彼は態度を改める。やはり取るに足らぬ仕事など何一つ無い。彼は思い直し、思い知る。魔物は侮れず、人もまたしぶといが、子供はさらに手強いものだ。

「英雄は眠りについた。だが、その子孫であるヴァルデミリ家はそれからずっと眠り続けてしまった。眠り続け、いつしか世界を見なくなってしまった。だが、きみは違う。きみは目覚めることができる。しかしそれには痛みが伴う。人は誰しも、痛みに耐え、目覚めなければならぬ時があるのだ」

 しっかりと少女を見つめ、「わかるな、エミリオ?」ソレルはそう締め括る。 

 エミリオは少し考え、「わかんない」率直にそう答える。

 ソレルはふっと笑う。

「そうだな」彼女の柔らかい髪を搔き分ける。

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「だが、痛みもそう悪いものでもない。なによりも、生きているという証明になるものだ」

「生きるのに、証明は必要?」問い返すエミリオの聡明さに、ソレルはつくづく観念する。

「必要ない。…何もかもきみの言う通りだ」

 そうして少しの沈黙を経て、エミリオのほうから口を開く。

「痛いの?」

「痛い。だが、今までよりもずっと楽だ」

「また外で遊べる?」

「どこにだって行けるさ」

「ピピとも遊べる?」エミリオが力なく毛布の端を指差す。

「ああ…、」ソレルは彼女が指差す先に転がるぬいぐるみを掴み、手元に添えてあげる。「…ピピともずっと一緒だ」

「…うう、」背後に立つモウチが嗚咽を漏らす。「お嬢様…」灰色の戦士の誠実さを受け、彼は猛省し、感情が溢れ出す。

 エミリオが人形ピピを力なく抱き寄せる。彼女がそれに集中している間に、ソレルはもう片方の小指に素早く紐を巻き付ける。そうしてぐったりとする彼女を寝かしつけるふうに撫でつけ、背中に回した逆の手でモウチを呼び寄せる。

 差し出されるままに何かを受け取ったモウチが言葉を失う。渡されたものは小さな小指である。目の前で見ていながら、刃を抜く瞬間さえ捉えられなかった彼は、そのことにまず驚き、血液さえ流れず、暖かささえも残して手のひらに収まる青白い肉の儚さに戸惑う。

「すぐに骨を取り出せ」低い声でのソレルの指示。

「は、はいっ!」

 モウチは跳ね飛ぶようにその場から去るモウチを尻目に、ソレルは少女を何度か撫でつけ、ピピを顔の側に座らせて、顎先まで毛布を掛けてあげる。

「よくがんばったな」指先の痛みすら未だ感じぬ少女は、その言葉の意味を受け止められずにいたが、その穏やかな灰色の眼差しに見守られ、心底安心したふうに眠りに落ちる。



 エミリオが寝付いたのを確認し、ソレルは立ち上がる。扉を開ければ、おそらくはずっとそこに立っていた執事の男がいる。

「大事になりますぞ」執事は無表情で言う。「…あなたにとっても、ラームにとっても」

「まるでごろつきの脅し文句ですな」言い返すソレルにも、執事は顔色を変えない。

「これは脅しではなく、事実です。あるじを、オルデウス様を侮らぬように」

「それで思い出した」そこでソレルは態とらしい声を上げ、懐から書面を取り出す。

 執事は小首を傾げ、受け取った書面の刻印に目を見開く。王冠を掲げた六つ羽鳩の紋様。それが本物であれば、それはレムグレイド王国を統べる者でしか扱えぬ信書である。

「いったいこれを…」どこで? 執事はそう言いかけ、過ぎたる詮索と思い直し、直ちに背筋を伸ばして書面を恭しく持ち直す。

「モウチ殿の処遇について書かれているそうだ」ソレルは改めて踵を返す。「ヴァルデミリ家が、悠王の信書を無碍にするというのなら、燃やしても構わぬそうだ」

「必ずや、主にお渡し致します」執事はそれだけを告げる。一瞬見せた色ある感情も、すでに隠れている。

「ならば、ついでに伝えてくれ」ソレルは振り向く。

「エミリオはよく耐えたとな」

 やはり執事は何も言わない。ただ預かった書面を大事そうに掲げて頭を垂れ、ソレルを見送りもしない。


 中庭では、モウチが小指の肉を削ぎ、粉々にした骨に魔法の風を当て乾かしている。少しでもエミリアが飲み込みやすいようにと施すその風は、弱々しいものだが温かく、慈しみに満ちている。

「いい風だ」背後に立つソレルが声を掛ける。

「わたしができることといえば、少しばかり風を操ることくらいなので」振り向きもしないその首筋にはじっとりと汗が滲んでいる。

「感謝しております。ソレル様」

「誰でも出来ることをしたまでだ」

「しかし、あなたはお嬢様と向き合ってくれました」

「…ああ、」ソレルはただ息を漏らす。彼自身も、なぜエミリオを覚醒させ、話をしたのか理解してはいない。小指を切り落とし、去れば済んだ仕事だ。おそらく多くのストライダはそうするだろう。ただ、師匠であるバイゼルならばそうするかもと、ほんの思い付きでの行動であった。何か出来るかと思ったが、結局は、何も出来ぬ仕舞いであった。

「わたしは…、」そこでモウチが口を開く。

「わたしの身ばかり案じ、お嬢様を苦しめてしまった」

「あなたは良くやった」彼の肩にソレルが手を添える。

「エミリオの具合を見ればそれはわかる」あれほどアーラウネに寄生され続け、彼女の身に自傷の痕ひとつ見られないのは、よっぽど身の回りを気に掛けた者が居る証拠である。

「報いは、受けるつもりです」慰めの言葉に感謝の意を示しつつ、モウチは決然とそう告げる。

「そうか」それを受け、ソレルはふっと笑う。

「あの堅物執事には、魔法使いから預かった書面を渡してきた」

「なんと?」驚くモウチだが、決して風を送る手は止めない。

王国付き魔法使いキングダムソーサラーが苦労して無精者の王に綴らせた書面だ、流石のヴァルデミリも、へたな真似はしないだろう」

 それを受け、しばらく事情を飲み込めずにいたモウチは、きょとりとその灰色の背中を見つめ、やがて涙を流しはじめる。

「泣き虫は直したほうがよかろう」たしなめるふうに言われ、急いで袖で涙を拭う。

 そんなモウチを残しソレルは歩き出す、しばらく進み、彼は思い出したかのように脚を止める。

「…もし、職を失うとなれば、ラームに来るがいい。ラームには腕の立つ船乗りはいるが、良い風を運んでくれる者はいない」そう告げ、ふたたび歩き出す。

 モウチは立ち上がり、深く礼をする。

 振り向きもしない灰色の戦士の後ろ姿を、彼はいつまでも見送る。


◇◇◇◇◇


 後にヴァルデミリ・オルデウスはその傲慢さが故に多くの者の恨みを買い、暗殺されるという顛末を辿る。彼は王都の城下大防壁正門前、アラングレイド並び初代レムグレイド王の巨像に見下ろされ、白昼堂々に見るも無残に惨殺される。明らかな見せしめの様相に、居合わせた衛兵達も恐れ慄き、遺体は放置され、長い時間、王都の住人たちに晒され続けた。

 それに伴い、一族の者にもおしなべてその凶刃は向けられる。ヴァルデミリ家の血統は次々と絶たれ、一族は衰退の一途を辿る。

 小指を失ったエミリオといえば、父オルデウスにその価値に見限られ、チトマイオ別宅で幽閉生活に近い少女時代を過ごす。当然、そんな彼女にも刺客の刃は向けられるのだが、何者かの手助けにより、彼女はレムグレイド大陸を脱し、竜の尾列島ドラゴンテールを越え、ガンガァクス大陸南西部、海賊国家クファンへ亡命に至る。

—— そしてさらに後。

 八首の竜が大地を割り、魔物の軍団がベラゴアルドを蹂躙しつつある刻、同時に幾つもの希望も立ち上がる。

 狂乱の時代の最中、クファン国ではとある傭兵団がその勇猛さで名を残す。彼らは灰色の旗を掲げている。それは『四本指の君』率いる、『目覚むる山猫団』の旗章である。


—おわり—

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