報いはなく、勝ち得るものもなく
—レムグレイド歴二百八十八年 朱鷺二十の月—
王都レムグレイドを抱くレム・オル山脈を越えて南、なだらかな丘陵に古代の遺跡群と花崗岩がドラゴンの牙の如く隆起する地点。緑豊かな大地だが街道は遠く、滅多に人は脚を踏み入れぬ場所に、長マントで身を包む男がひとり。見た目は物乞いのようでも赤髪を揺らすその健脚は旅に熟れ、両の肩口から覗く対なる剣柄の細かい傷跡は、その戦いの歴史を物語る。彼は野を駆ける者。ストライダ、ブライバスだ。
道なき道を進み、時折ブライバスはポーチから特別な腐肉を取り出す。風を読み、向かい風をしるべに進む。そうして岩の天然隧道に差し掛かると、何かを察知し脚を止める。マント越しに首を傾け、逆光となる黒い岩肌でちらつく影を見やり、逆方向で踏み付けられる草を確認する。正面から姿を現す男を睨めつけ、息を漏らす。
「誰だ? じじぃ」正面の男の声を合図に、背後の二人も姿を現し、それぞれ矢と手斧を首許に突きつける。老人がゆっくりと両腕を上げ、おとなしく手のひらを見せると、さっそく背後の二人が近づき、その腕と首にロープを回し、背中の双剣を没収する。しかし正面の男だけは動かずにいる。老人が妙なまねをしないか監視しているわけではなく、その鋭い眼差しに射竦めてられ、動けないのだ。
◇
ブライバスを連行した一行は遺跡群に入る。すぐに方々で休んでいた者たちが立ち上がり彼を囲む。
「くせえな」「食い物は持ってないのか?」「いいから殺しちまえよ」「誰が?」「お前がやれよ」賊どもが身勝手な意見を交わす。
見たところ、どの顔も若い。ブライバスは虚ろに観察する。侮蔑と嘲笑、無駄に張り上げる大声。若い、ごろつき特有の空威張り。
すぐに頭目らしき大男もやってきて、高圧的に一同を見下ろす。この男もありふれたごろつき。いかにも腕っ節だけを頼りにしてきたかのような、そんな気質の巨漢だ。
「猟兵ってわけじゃなさそうだな」
「…西の村で噂を聞いた」ブライバスは物憂げに口を開く。
「おやおや、このグツカ様の名も、ちっとは売れてきたか?」頭目は嬉しそうに笑い、手下に同意を求めるふうに見渡す。
「厄災に巻き込まれたな、グツカとやら」
「なに?」野党どもは一瞬きょとりと顔を見合わせ、それからどっと笑い合う。
「ちげえねえ」「その通りだぜ、じいさま」「完全にぼけてんな」そんな手下を制し、グツカが前に出る。力任せにマントを引き剥がしたところで皆が一斉に息を吞む。薄汚い老人の身に付けた、異常なほどの装備を見たからだ。
「何だって連れてくる前に奪わなかった!?」グツカは手下を叱り飛ばす。
「このじじい、ひでえ臭えから」手下たちは文句を垂れつつも、ブライバスの全身から武器を奪い取り、立場を知らしめるためにある程度の暴行も加える。
「戦場漁りでもしたのか?」
次々並べられる様々な武具に、グツカは目を剥く。二振りの直剣に手斧と弩弓、投げナイフと腰に二対で装備されていた短く幅広の刃、仕込み針や棘付きの手甲がある種の武器であることは理解できるが、手に取り眺める球体の物体や小瓶に入った液体においては、用途さえ判断できずにいる。
「こんなもん、どうするつもりだ?」何も答えずにいる老人を恣意的に殴りつける。
「ひとりで戦でもおっぱじめるつもりか?」
グツカの尋問も手下どもの威嚇にもまるで構わず、ブライバスは辺りを見渡している。充分だ。土壌、気候、景観。目算通りの土地だ。ここならば、外れた蟲どもが人里に流れることもあるまい。予定通り、ここで決着を着けようではないか。
「…早々にこの場を去れ」ブライバスはグツカにだけ聞こえるように声を殺す。だがその忠告を挑発と受け取ったグツカは、再度拳を振り下ろす。しかし打った頬は揺るぎもしない。苛立ちに任せて老人を押し倒し、頭を踏みつける。何度も踏み付け荒い息で見下した先、埃にまみれた赤髪から覗く眼差しにたじろぐ。
「娘をさらったな?」血混じりの唾を砂地に垂らしつつ、ブライバスは平然と身を起こす。
「なぜここにいない?」
「知るか」嘯く科白と裏腹に、たらりと滴る汗がグツカの心情を物語る。
「げえっ!」そこで手下のひとりが声を上げる。漁ったポーチから飛び出た、ぐずぐずに腐った肉塊を蹴り上げる。
「くっせえ!」「臭いはこれか」「こんなもん喰ってんのか?」「やっぱり狂ってるぜ」
「それは慎重に扱え」
老人の鋭い声に、賊たちは不可解に感じる。装備を引き剥がされ殴りつけられても全く抵抗しなかった老人が、忍ばせていた臭い放つ腐肉のみに反応したからだ。
◇
そうしてブライバスは裸に剥かれ、入念な身体検査の末に吊される。手ひどく殴られはしたが彼の意識ははっきりしている。少し先で話し合いを始めた野党の話し声も、彼の耳はしっかりと捕らえている。
「…なあカシラ」ひとりの男が控えめに発言する。
「もしかしてあのじじい、駆ける者、ってやつじゃ…」別の男が声をひそめる。
「それがどうした?」凄んでみせるグツカも僅かな動揺を見せる。殺すと呪われる。手出しすれば酷い仕返しが来る。魔女とつるんでいる。ストライダにまつわる不吉な噂はどの地域でも数知れない。
「ストライダは死なねえ」「跳ねた首さえ、毒蛇になって襲いかかるって話だ」次々に噂が飛び交う。
「まずいですぜ」「村の連中が雇ったのかも」「これから兵隊もやってくるんじゃ?」意見する部下たちにグツカは考えあぐね、低く唸るばかり。
そんなやりとりを耳にしつつ、ブライバスは心底うんざりしている。何度目だ? 彼は吊されたままに自問している。何度こんな目にあった? このような集団、追い払うことは容易い。あのグツカとやらが息を吐く間に、耳か指でも切り落とせば済む。
「隠れ家を変えましょう」「けどもうすぐ日没だ」「ひとまず様子をみましょう」「じじいひとりにビビるこたぁねえ」意見は一向にまとまる気配はない。
野党は大きく分けて二通りいる。筋金入りの玄人か、ただのごろつきだ。前者は略奪を続け、他人を出し抜け続ける狡猾な者たちだ。人員を入れ替えつつ精鋭集団に膨らむ生粋の悪党。倫理など覚者の嗜好としか受け止めぬ。独自の価値観で害を為す、いわば天然のはぐれ者。まるで魔物の端くれだ。だが下衆がゆえの潔さもあり、ある種の覚悟も養われている。ならばこそ話は簡単だ。こちらもただその流儀に則れば良い。
だがやつらはどうだ? 計画性はなく、まとまりもない。大方、けちな罪を重ねつつ兵隊から逃れ、腹を空かせ、こうして荒野の外れまで彷徨ってきたのだろう。判断力も鈍く、こんな老いぼれの処遇さえ躊躇う。問題はそういう半端者どもだ。下衆には違いないが、悪党にはなりきれず、覚悟もない。ただ、振り返らず、踏み外した道を反証せぬ愚か者だ。
ほれ、どうした。内心で自らを叱咤する。今にでも拘束を逃れ、やつらを軒並み不具者にしてしまえ。そのほうがずっと仕事も捗ろう。
しかし彼がそれをせずにいるのは、数日前に立ち寄った村に起因している。『娘がさらわれた』すがるように懇願する母親の残像が彼の行動を踏み留める。
吊るされ、風に揺れつつ連中を見渡し、投げ捨てられ砂まみれの腐肉に目を落とし、深い溜め息を吐き出す。
つまりこうだ。
ブライバスの懊悩は続く。人間に仕事を依頼され、別の人間に邪魔される。無謀な若人は常々、何も知らぬまま、気付かぬままに死地を歩む。そこにきて別の問題も飛び込む。憐れな老母の叫びを聞く。金切り声の不愉快な叫び。脇目もふらず、我が子を思うがゆえあまりに無神経。そういう声は、どんなに耳を塞ごうと決まってポーチに滑り込む。そんなものを忍ばせ放置しておけば、魔物を呼び寄せる特製の腐肉よりも、ずっと臭いを放つのはわかりきっている。
だが、それもこれも、すべておれの問題だ。そうだろう? 甘ったれが幅を利かせるのは、甘やかす者がいるからだ。
◇
野党はブライバスの処遇をひとまず先送り、毎夜恒例の酒盛りをはじめる。彼のもとには、連中のなかで特に年若い者ひとりを見張りに立つ。
「なあ、あんた、ほんとにストライダなのか?」
日が傾き、暇を持て余した若者がブライバスを見上げる。老人は尖った花崗岩にロープは結わかれ、つま先だけが僅かに砂地に触れ、ゆらゆらと震える度、蟻が這ったような筋を大地に引いている。
「なあ、」何度か声を掛けてみるも返事はなく、諦めた若者はつまらなそうに黙りこくる。それから岩に立て掛けていた直剣を手に取る。それは先ほどブライバスから奪い取った武器である。没収した装備の一端、それぞれがどんな得物かさえ、どれほど価値のある業物かさえ、何も理解せぬままに、グツカは見張りに立つ下っ端に渡したのだ。
若者は神妙な顔で抜刀し、覗く剣身が頬に反射したところでぞくりと身震いして鞘に収める。
ブライバスは目を落とし、そんな若者を見つめる。若者は鞘に収めたままに数度振り回し、それから腰に装備して、気取ったり尊大な態度で反り返ってみたりしている。
まるで玩具を手にした子供じゃないか。呆れる彼の予想に反し、次の動作で若者の目つきが急に変わる。
「ほう」思わず漏らした声は、小気味良く擦れる銀の音色にかき消される。若者が呼吸を止めて腰を落とし、慎重に柄を握り直してから一気に抜刀したのだ。
その挙動は明らかに見よう見まねだ。大方どこぞの騎士団の訓練でも盗み見たのだろう。ブライバスはそう推測する。
素人が初動で正解を引き当てることはままある。だが、素人の初動にその才を見出せぬでは達人とはいえぬ。先ほどからの鬱屈を切り裂くほどではないにしろ、少々の気晴らしにはなった。
「若いの、名は?」そうしてブライバスの気まぐれが声に出る。
「あ?」突然話掛けられた若者は間抜けな声を出す。何より彼の神経は、なかなか鞘に収まらぬ剣先にある。
「おれぁ、フビーってんだ」名乗ると同時に運よくぴたりと収まる刃に、得意げに背筋を伸ばし、己のうかつさに気付かない。
「で、あんたは?」顎を持ち上げ、フビーが訊ね返す。
「はっ!」ブライバスは思わず吹き出す。
「な、なんだよ?」訳もわからずフビーは不穏な声を出す。
「野党のくせに、素直に名乗るばかがどこにおる」
明らかな嘲弄にも、フビーはしばし惚けた顔で見上げていたが、やがて意味を解すると、「てめえ、」と小さく漏らし、腰の剣を握りしめる。
それを見たブライバスが残念そうに息を漏らす。「なっておらんな」怒りにぶれた体幹からでは、先ほどの新鮮な抜刀は望めぬだろう。彼は一筋の煌めきを見せた若者にすっかり興味を無くし、ロープをしならせ背を向ける。
そうして、興ざめしたフビーも再び剣を抜くことはない。彼も彼で顔を真っ赤にしたままにどかりと座り込むと、同じように背を向け、黙り込んでしまう。
◇
それから刻が過ぎる。相変わらずグツカたちは酔いどれている。
夜はふけこみ、空気が湿り気を帯びる。フビーはぶるりと身を震わせ、再び捕虜を見上げる。
「じいさん、寒さで死んじまうかな」そう漏らしつつ、思わず息を吞む。老人は微動だにもせず、鼻先まで隠した前髪だけが呼吸に震え、白い息を散らせている。吊られたその肉体は捩れた蔓のようにしなやかでいて、辺りの岩肌と同化するかのように堅固にも見える。その光景は不思議とフビーに古い記憶を蘇えらせる。それは彼が幼き頃に訪れた聖鈴都市アルトルでの光景だ。捻れた石柱、いばらの緑紋装飾、荘厳なる建築、巨大に見下ろす地母神と、それを護る聖騎士の彫像。
「…ごろつきはどこにでもいる」
そこで見上げていた先、ひび割れた唇が唐突に口を開く。彫刻が口を利いたと錯覚し、フビーは息を詰まらせる。だが先ほどのことを根に持ち、彼は声を出さず、ぷいといじけたふうに顔を背ける。
「…血の気の多いガキがいきがり、労働を嫌がり、村を捨てる。そんな奴らが集まり、ごろつきになり、野党と化す」ブライバスは構わず続ける。
「…正しい盗人など存在しないが、それでも余裕もあれば、はぐれ者の立場として、村々と均衡を図るものだ」
フビーは不穏な顔つきで振り向き、仲間を気にしつつ、老人の低い声に耳を傾ける。
「…楽しむぶんだけ略奪し、冬の蓄えは残していく。時として、富める者から奪った物品を横流し、貧者と安値で取引をしたりもする」
吊られたままの老人から目を逸らし、仲間を見る。皆はこちらを気にかけてさえいない様子で火を囲んでいる。
「…そんな暮らしに村娘たちも憧れを抱く。羽振りも良ければ、娼婦など自然に集まる。小汚い野党どもが、過酷な暮らしから解放してくれる英雄にさえ映るのだ」
ごくりと唾を吞む。見上げた先、赤髪が風で揺らめき、隠れていた茶色い眼差しが露わになる。
「…つまりは、まともな賊には、必ず女もいるものだ。だが、ここは男所帯とみえる」
「だまれ!」そこでフビーは声を殺して叫ぶ。再び仲間を見やるも、やはり皆はまるでこちらには気付かずにいる。老人の声は低くしわがれ、大地を吹く風鳴りのようだからだ。
「…女が欲しかったのだろう?」吊られた老人はなおも続ける。「それで娘をさらった。だがその娘はどこへ行った?」
「黙れって」フビーは明らかな狼狽をみせる。仲間と捕虜を交互に見やり、指を突き出す仕草だけをして、僅かに躊躇い、やはり何も言わずにいる。
「おいフビー! なに話してやがる」様子に気付いたグツカが叫ぶ。
「へ、へいっ!」名を呼ばれ、フビーは背筋を伸ばし身を強ばらせる。
「…ちゃんと、じじいを見張ってろよ」しかしグツカは振り向かずもせず、酩酊したただらしない声で釘を刺のみに留まり、その場でごろりと寝転がると、途端に大いびきを掻きはじめる。
「フビー」
今度は背後でその名が呼ばれる。フビーは怯えた目つきで老人のほうへ振り向く。
「娘を、どこへやった」
フビーは脂汗を滲ませ、おずおずと立ち上がる。老人に近寄り、躊躇いがちに指を突き立てる。
「カニナを追って来たのか? 村人に頼まれて?」
「違う。おれの行く先に、たまたま“貴様ら”がいた」それだけだ。
言葉の意味を解せず、フビーは落ち着きなく寝床を探る犬のような振る舞いでその場を一周し、あえぎ声を漏らす。そうしてみて幾らかの決心がついたのか、ひと呼吸吸い込み、早口で捲したて始める。
「カニナには申し訳ないとおもってる。初めはうまくやっていた。あの娘も楽しんでた。おれたちはしばらくしたら、帰すつもりだったんだ。けど、カシラがあんまり乱暴に扱うもんだから、あの娘は逃げ出して…」
熱に浮かされたふうに目玉を動かし力なく項垂れ、震える指で一方を指差す。そこには濡れた土が盛り上がり、申し訳程度に萎びたの弔い花と、棒きれが突き立てられている。
そこでブライバスは深く息を吐き出す。
「なぜ、グツカをとめなかった?」
「なんだって?」フビーは目元にかかる汗を拭い、何度も瞼をしばたかせる。
「おれにどうしろって?」
ブライバスは再度深いため息を漏らす。
「報いはなく、勝ち得るものもない」
そうして彼の口から意図せず余計な言葉が漏れる。
「なんだって?」フビーが不安げに聞き返す。
「欲せずにいれば、報いもなかろう」物憂げに言い直す。「…だが、そこに至るには、必ず判断があり、結果もあろう」
「い、いったい、なにをいってる?」フビーが聞き返す。
しかしブライバスは言葉を追従させることはない。わかりきっている。若さとはこういうものだ。がくりとしなだれ、吊るされるがままに身体を揺らす。
深慮もなく、覚悟さえ知らず、こうしてまた若者が破滅していく。彼は目の前の若者の奥に、別の若者たちを見ている。かつてストライダに仕立て、無謀に命を枯らした十六名の弟子たちを。
そしてこのほど育て上げた、二人の若者をだ。
二人とも実に立派な戦士に育ったものだ。だが、やつらでさえ、この十年、生き延びられるかどうか。なにせ一方は、まだまだ頭に殻を乗せた向こう見ずのひな鳥。もう一方は、余計なことに感情を揺すぶられ、なにかと首を突っ込みすぎるお人好しときたものだ。
そして、彼の深き諦念の眼差しの先には、丘から競り上がる赤い光を映している。
もう余計なことは何も考えるな。間もなく仕事の時間だ。
「おいっ!」
そこで二人の様子に気付いた男が立ち上がり、酒を片手に千鳥足で近寄ってくる。「いったいなにを話してる?」
フビーは板挟みにされたような気持ちが反転し、訳も分からぬ怒りが湧き出してくる。彼は勢いに任せて老人を揺さぶる。拳を振り上げ、項垂れた顔を睨み上げたところで吃驚する。赤銅色だった老人の瞳が、今は新月のようにはっきりとした輪郭をたたえ、青白く輝いていたからだ。
「…来たぞ」鋭い目つきとは裏腹に、ひどく物憂げな老人がそう告げる。
カナカナカナ。
「…なん、」だ? フビーは振り向き、音のする方、闇の奥に目を凝らす。
「ぎゃああああ!」
今度は背後での叫び声。振り向けばこちらに向かっていた仲間が不自然に崩れ落ちる。まるで沼か何かに落ちたかのように、ふっと下半身だけが消え、溺れるように地面を掻き、両腕だけでもがいている。
◇
「なにごとだっ?」闇夜を切り裂く悲鳴に、ごろつきたちが次々に跳ね起きる。焚き火の向こうで居眠りを続ける男だけが動かず、そのまま船を漕いだ首が、こくりと地面にずり落ちる。
カナカナカナカナ。そこら中で奇怪な音が響く。盗賊達の足許、闇の奥からぬらりと黒光りした鎧のような物体が近づいてくる。
「まさか…、」光沢を持った闇と赤く光る粒。松明を放ってみると闇が一斉に散り、ガチガチと蟹のような挟み爪を鳴らす。
フビーは後退り、岩場に背を預ける。
「ドレッガーは知っているだろう?」
頭上から老人の声がする。
「それにしたって、こんな数…」
ぱんっ。焚き火の爆ぜるような音と共に飛び上がる甲蟲が、すぐそばの岩場にぶつかる。それを合図に群れが一斉に飛び上がる。フビーは岩伝いに何とか逃げ回り、顔面に飛び込んでくる巨大な爪に腰を抜かしてへたり込むも、その行動が運よく彼の首を繫ぐ。
「構えろ」
頭上の声に無意識で反応する。そこでフビーは、自分が直剣を抜刀していることに気がつく。
迫る群れに、煙を吹き出した玉が投げ込まれる。多くの魔物どもは後退るが、一匹だけそのまま飛び上がってくる。
「ひいっ!」無闇に振り回した刃は堅い甲羅にぶつかり、同時に顔面に生ぬるい体液がかかる。
「ぶえっ」尻もちを付いたままに急いで目元だけ拭い、視界を確保する。辺りには煙が充満し、その奥で無限の赤い光が滲んでいる。
フビーはそこで、吊られているはずの老人がいないことを知る。
「戦え!フビーよ」
見上げれば老人は上にいる。拘束から抜け出し、尖った岩場で均衡を保ち、全裸のままで辺りを睥睨している。どの拍子に奪い返したものか、その手にはフビーが持つものと対の、銀色に輝く直剣を握っている。
「生き残りたくば戦え!」
ブライバスは叫ぶ。足元に迫る魔物に構わず、煙の向こうで逃げ惑う盗賊達に向かって叫んでいる。
「武器を取れ! 仲間に背を託し、目の前の蟲どもだけをたたき落とせ!」
しかし彼の指示も虚しく盗賊たちは混乱し、ほうぼうに逃げ回っては蟲どものうねりに消えていく。それでも気を取り直した者は幾人かは武器を手に取り、ドレッガーを払い除け、互いに固まり、鮮やかな陣形とはいかずとも何とか持ち直す。
ブライバスは、煙を嫌がり岩場に昇ってきたドレッガーを叩き斬る。だが決して襲われる者たちの援護に向かうことはしない。
「結局は、覚悟の問題なのだ」諦め声でそう漏らし、ふと下方を見やり、フビーが未だ生き残っていることに感心する。
「ひいい!」フビーは泣き叫びながらも、何とか飛びかかる甲蟲をかわしている。
「構えろ。敵を殺すことは考えるな。飛びかかる敵だけをただ叩き落とせ。生き残れば、それで勝ちだ」
「そんなっ…」逃げ腰のフビーが恨めしげに見上げる。そのうちのめされたはず裸体が、戦いに身を置く今は神々しくも感じる。だがそれは先ほど彼が連想した聖騎士像とは程遠く、荒々しい獣のような威圧感だ。
そして、そんな老人を見上げるフビーの中に、えもいえぬ情動が芽生えはじめる。
「ああああ!」フビーはでたらめに剣を振るう。握る剣は異常に軽く、刃に触れただけでも敵は空中で勝手に裂けていくふうに感じる。
「ふむ」それを見たブライバスはただ息を漏らし、決して助けに向かうことなしない。
「ちくしょうめ!」剣を振るうフビーが身震いする。半分は恐怖だが、もう半分は奇妙な高揚。戦えている自分に興奮し、力が漲るのは決して錯覚ではない。
ともかく目の前の敵だけに集中し、体液で髪までどろどろに濡らし、必死の思いで生き残ることだけを考える。どれほどの蟲を叩き割っただろう。両腕は痺れ、疲労が視界を霞ませる。だが如何せん数が多い。息を整える間もなく次が来し、吹き出す体液が脚を滑らす。岩場の隙間に身を捩じ込み、足元に食らいつこうとせん魔物の爪を蹴り払う。
「どうすればいい?」しつこく追ってくる魔物を突き刺し、フビーは叫ぶ。「教えてくれ、じいさん!」
「戦は、見て覚えるものだ」
無慈悲な老人の物言いだが、今のフビーはそう思ってもいられない。彼は決死で立ち回り、合間で上方を観察する。全裸の老人は片脚のつま先だけで尖った岩に立ち、時折コマのように回転しながら飛び付く蟲をたたき落としている。その身のこなしは独特を通り越して人間業とは思えぬ程で、どう考えても自分が同じように立ち回れるとは考えられない。
「むちゃいうな、」漏らしてみて、彼ははっとなる。彼は自分にも真似できることをひとつ発見する。
「岩の上かっ!」直ちに近くの岩に飛び付き、急な斜面を登り、足場の広そうな低い岩場に飛び付く。這いつくばる彼の身体中を尖った花崗岩が傷つけるが必死の彼に痛みはない。
「こんな」高台に辿り着き、見下ろしたフビーは呆然とする。よろりと立ち上がり、思わずその光景に見とれてしまう。
それはまるで夜が落ちてきたよう。夜空に満天の星空が輝き、赤い星の運河が大地に流れ出て、こちらに流れてきているふうに見える。方々では焚かれていた灯火が煙を上げて呑み込まれていく。鈍器がぶつかるような音と、連続した蟲の警戒音。それに紛れてあちこちで聞こえる叫び声。
カナカナカナ。背後の音にフビーは反応する。何とか爪をかわし、着地したところを剣でかち割る。すぐ側まで無数の蟲が這い上がってきている。しかし我先にと争うふうに昇ってくる蟲は、運よく固まりになって落ちていく。天辺に登ってくる魔物を撃ち落とせば済むぶん、先ほどよりも楽になる。少し落ち着いてみれば足腰が震え、集中力が鈍る。次々に登ってくる魔物に改めて恐怖を感じる。物言わず迫る魔物。蟲と呼ばれはするが、蟹か蠍を醜くしたような訳の分からぬ魔物。フビーは無我夢中でそいつらを叩き落とす。やがて音も聞こえず、痛みも忘れ、意識は遠ざかっていく。
「…夜明けまでだ」
必死のフビーの耳に、啓示のように老人の声が響く。
「それまで生き残れば、お前の勝ちだ。フビーよ」
そうしてブライバスは飛び上がる。その髪は炎のように揺らめき、同じく赤く輝く濁流に飛び込んでいく。
◇
気を失っていたフビーはまず臭いで覚醒する。それから陽の光。眼球の奥を刺す痛みに強引に揺り起こされる。
一面にぶちまかれた青黒い体液にも構わず、彼は身体をまさぐる。あちこち痛み傷だらけではあるが、自分の四肢が千切れていないことにひとまず安堵する。
そうしてふらりと立ち上がり、辺りを見渡す。昨夜見た赤のうねりは跡形もなく、代わりに夥しい数の蟲の死骸が大地を隠している。
「…ああ、」呻きを上げて歩き出す。途中、何かを見つけ、耐えがたい臭いに鼻を押さえつつも蟲の残骸をどける。その奥にはグツカだったものの片腕が見え、少し先にはひしゃげた頭部が転がっている。
「幸運だと思え」
気がつけば老人が背後に立っている。すでに元の装備を身に付け、その身を長マントで隠している。
「ストライダ、」フビーはぼんやりと言う。「そうなんだろ?」
赤髪の老人は何も言わない。
「ストライダは呪われている」思わずそう呟きへたり込む。「あんたが、蟲どもを連れてきたんだ」
「警告はした。武器も貸し与えた」ブライバスは若者を立ち上がらせる。
「そして、お前だけが生き残った。それだけだ」
彼はもつれる足取りのフビーを半ば強引に連れ、蟲の死骸の除けられた場所で投げ捨てる。その場は土が盛り上がり、真中には昨夜フビーが振るった直剣が突き刺さっている。
「だが、まだ仕事が残っているぞ」ブライバスは冷淡に、それだけを告げる。
フビーは呆けた顔でそんな彼をしばらく見上げていたが、土にめり込む剣を取ると、半ばやけになって土を掘り起こしていく。
無心で土を掘るフビーはグツカのことも死んだ仲間たちのことも一切脳裏によりぎりはしない。彼はただ、怯えた顔で泣き腫らしたカニナの顔だけを思い出している。
「ひっ!」不意に土から茶色い指が飛び出し、声が漏れる。尻もちと同時に襟首を掴まれ、振り飛ばされる。
そこからの彼は、慎重に土を掘り起こすストライダの背中だけを眺めている。やがて土くれから取り出され、抱えられた死体は思っていたよりも恐ろしくはない。腐敗もまだそれほど進んでいず、頬から首にかけて浮きあがった青白い血管が、その命の脈動を止めたことをただ突きつけている。
「…ああ、…カニナ」フビーは嗚咽を漏らす。彼はそこではじめて、自分が取り返しのつかない過ちを犯したことに気づき、土と体液で汚れた自分の顔を拭いうずくまる。
それを横目に、ストライダは何も言わず遠ざかっていく。耳だけでそれを聞き、立ち止まることのない足取りにフビーは顔を上げる。
「…おれは、どうすれば? どうすれば良かった!?」
「まだそれを聞くか」ブライバスは立ち止まりはしない。一度カニナの額にかかる前髪をかき分けてやり、首だけを傾けこう告げる。
「故郷でやり直せ」
「故郷になんか帰れるもんか!」フビーは土を掴んで放り投げる。「…こんなおれが、…いまさら帰れるもんか」
「ふむ」やれやれとばかりの息を漏らす。バイゼルならばどうしたろうか。そんなことを考えるが口にはしない。そうしてブライバスはさらに遠ざかり、思い立ったかのように立ち止まる。
「この先、尾根を目指し、真南に三日ほど進んだ場所で、スーズという名の者が開拓を始めた…」
「…おれをっ」そんな言葉をフビーが遮る。「おれを…」おれを連れてってくれ。懇願する想いも、煤けたマントから覗くカニナの汚れた茶色くなったブラウスの裾を見ていると、どうにも怖じ気づいて喉が縮まる。
「まだまだ開拓者は少ないが、だからこそ、活気に溢れてもいる」ブライバスは背中を向けたままに続ける。
「良い土地だ。レム・オルから吹き降りる風が、魔物を近づけない」
「ひとりで辿りつけるもんか!」フビーの癇癪が爆発する。
「くたくたなんだ! あれだけ戦って、もう戦えねえ、…おれだけじゃ、おれだけじゃ、魔物に喰われちまう!」すがる思いで叫ぶも、残念そうに首を振り、再び自分を残して歩き出すストライダを見ると、絶望して項垂れ、そのままいじけたように丸まり、動かなくなる。
「…覚悟を決めろ」
それだけが生き残る道だ。
ブライバスは振り向きもせずに呟く。すでに若者との距離は離れ、その呟きが届かぬことは承知している。
それでも彼は、彼があえて残した剣を手に取り、やがて若者が立ち上がることを知っている。自分の声は届かずとも、ストライダの耳は、若者が呻くように、怨むように反復する呟きが聞こえているからだ。
「…尾根を目指し、真南に三日 …尾根を目指し、真南に三日」
—おわり—
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