見出し画像

『守護神 山科アオイ』15. マラリア

「マラリアはアフリカの癌です。膨大な数のアフリカの人々の命を奪い、アフリカの発展を妨げてきた」
「ハマダラ蚊に刺されて、マラリアになるんすよね」と、コータロー。
「そうです。しかし、ハマダラ蚊に毒性があるわけではない。ハマダラ蚊には〈マラリア原虫〉という寄生虫が住みついています。ハマダラ蚊がヒトの血を吸うときに〈マラリア原虫〉がヒトに移り、人間にマラリアを引き起こすのです。〈マラリア原虫〉には5種類があり〈熱帯熱マラリア原虫〉が最も致死率が高いのですが、アフリカの感染例は、ぼぼ100パーセントがこの〈熱帯熱マラリア原虫〉です」
慧子に怒り言葉を荒げた和倉だったが、今は、元の丁寧な口調に戻っている。

「感染すると、どんな症状が出るのですか?」
世津奈が尋ねる。
「初めは発熱と寒気。つづいて黄疸が現れ、脾臓と膵臓が肥大します。ここまでに適切な治療を施さないと、呼吸困難、意識の混濁、ケイレンが現れ、最悪の場合、死に至ります」
「きつい病気だなぁ」
アオイが顔をしかめる。

「世界で、毎年約2億3,000万人がマラリアに感染し、43万人が命を落としています。感染者の92%は、アフリカの人たち。約2億1,000万人です」
「日本の人口が1億2,000万人くらいだろう。毎年、日本の人口の倍近いアフリカの人たちが、マラリアにかかるんだ!」
アオイが驚く。
「世界の死者は43万人で、そのうち93%がアフリカの人々です」
「うーん、毎年、アフリカで40万人がマラリアで死ぬんだ……」
コータローがうなる。
「特に悲惨なのは、マラリアで亡くなる人の6割が、人生で初めてマラリアに感染する5歳以下の子どもたちだということです」

「治って免疫ができれば、二度とかからないんすか?」
コータローが尋ねる。
「免疫にそこまでの力はありません。免疫があっても、繰り返し何度でも感染し、その都度、軽度の症状が現れる。免疫があれば重症化するリスクが下がるというだけです」
「だから、マラリアがアフリカの発展を妨げているのですね。働き盛りの人たちが繰り返し感染し、その度に十分に働けなくなる。感染した子どもたちは学校に通えず、十分な教育を受けられない」
世津奈が言い、和倉が
「その通りです。マラリアは、アフリカに年間で1兆2,000億円の経済損失を与えていると言われています」
と答える。

「でも、キニーネで治療できるんじゃないすか? 戦争映画を観てると、兵隊がマラリア予防にキニーネを飲んでますよ」
「キニーネはキナという植物由来なので、キナの木を栽培しないと作れない。化学合成で作れてキニーネと同じ効能を持つクロロキンにとって代わられました」
「だから、そのクロロキンで治せんだろ」と、アオイ。
和倉が言葉に詰まる。
「病気を治せるクスリがあることと、そのクスリを使えることは、別問題なのよ」
ここまで黙っていた慧子が口を開いた。
「そうなんでしょ、和倉さん?」
和倉が慧子をにらむが、すぐに視線をやわらげる。
「そうです。クロロキンは1回の治療に10セントかかりますが、その10セントが、アフリカの最も貧しい人たちには高すぎるのです」
アオイとコータローが顔を見合わせる。

「クロロキンは長く使われてきたので、クロロキンに耐性を持つ〈熱帯熱マラリア原虫〉が増え、効果が衰えています。そこで、WHOは、中国で植物から抽出されたアルテミシニンと他の薬剤を組み合わせた多剤療法、ACTを推奨しています」
「ACTの値段は、どのくらいするんだ?」アオイが訊く。
「1回の治療に必要な量が、卸値で2.4ドルです」
「クロロキンの20倍を超えてるじゃないか!」
「実際には、もっと高くなります。小売り業者が自分の利益を上乗せしますから」

「なんで、ACTは、そんなに高いんすか?」
「ACTの主成分であるアルテミシニンを抽出するためにアルテミシアというキク科の植物を栽培する必要があり、さらに、精製にもコストがかかります。アルテミシニンと併用するクスリも、比較的高価なものです」
「製造コストがかかるってことすね。だけど、大量生産すればコストは下がります」
「そうだ、そうだ。毎年、日本の人口の2倍の人がマラリアにかかるんだろ。その人たちみんなを治すには、ものすごい量のACTが必要で、それだけの量を作れば、コストは下がるじゃないか」

 和倉の顔に影がさす。
「それは、大量に作ったACTが全部売れた場合の話です」
つぶやくように言う。
「みんなマラリアで困ってるんだ。売れないわけがないだろ」と、アオイ。
「ACTを必要な人に間違いなく届けられる保証がないのよ」
慧子が冷ややかに言う。
「アフリカは政情不安で治安が悪く、道路や鉄道などのインフラも整備されていない。クスリの流通にかかわる役人や商人が自分の懐を潤すためにクスリを横流しするかもしれない。私が製薬メーカーの経営者だったら、ACTを大量生産する気になんか、とてもなれない」
和倉が慧子をじっと見つめて、言う。
「あなたのおっしゃる通りだ。製薬はビジネスです。利益が保証されないクスリは、作られない」
「そういうものなのですね」と、世津奈。

 和倉が慧子の目にひたと視線を合わせる。
「あなたが指摘するようなアフリカの実情を考えると、アフリカ向けの抗マラリア薬は、開発と製造のコスト自体が安くなければならないのです。交通手段が確保されていて治安も良い限られた地域でしか売れなくても、開発と製造にかかったコストを回収できる。そんなクスリが必要なのです」
和倉の語気が熱を帯びる。
「そして、あなたは、そういう抗マラリア薬を開発した」
慧子の言葉に、和倉が黙ってうなずく。

〈「16. 新薬開発」につづく〉