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『守護神 山科アオイ』32. 毒蛇

「宝生警部補、どうした? 新宿のバーに行くんじゃないのか?」
バックミラーの中、佐伯がイタズラを仕掛ける蛇の子のように、笑う。
「新宿? バー?」
「とぼけても、無駄だ。九鬼昇平がやっている『バー・マーロウ』だ。俺を置いて、そこに行くつもりだったんだろ。水臭いぞ。俺も連れて行け」

 世津奈は運転席で飛び上がりそうになるのを、こらえる。
――なぜ、こいつが「バー・マーロウ」を知っている? なぜ、こいつの口から九鬼さんの名前が出てくる? しかも、この距離の詰め方は、なんだ?
佐伯が「私」でなく「俺」と名乗るのを、今、初めて聞いた。「水臭い」なんて言葉が佐伯の口から出るとは、思ってもみなかった。

「貴様、鳩が豆鉄砲を食らったような顔してるな。俺が何の準備もなしに来て和倉のことを持ち出したとでも、思ったのか?」
 世津奈は、佐伯が大した準備なしに押しかけて来たと思っていた。権威を笠にブラフをかけ、何か役立つ情報を引き出せれば儲けもの。それが、世津奈の上司だったころの佐伯のやり方だった。今日も同じことをしているのだろう。救急車を呼んだのは慧子なのに、世津奈が119番にコールしたと言ったあたりが、いかにも佐伯らしい雑さだと思っていたのだ。だが、現在の佐伯には、緻密な部分もあるらしい。

 バックミラーに映る蛇が、シャーと舌を出し、満面に笑みを浮かべた。
「貴様が俺の命じた仕事を投げ出して警察を辞めて、何年になる?」
「2年です」
「『男子、三日会わざれば刮目して待つべし』というコトバを知っているか?」
「人間は成長するものだから、以前に知っていた相手と今の相手が同じだと決めつけてはいけない。そういう意味だったと思いますが」
「私大卒のノンキャリにしては上等だ。三日どころか、二年経っている。この二年間、貴様の行動を徹底して調べ上げてきた。誤解するな。貴様に気があるわけでは、ない。貴様を追えば、俺たちの邪魔をしている民間の産業スパイ・ハンターのやり口を掴めるからだ」
「ご冗談でしょう。私は、元警察官です。行動確認されていたら、気づいています」

「ハハハ」
佐伯が、声を立てて笑う。
「貴様は、『生安』の人間だ。『公安』や『二課』の連中に比べたら、貴様の尾行に対するガードなど、子供だましみたいなものだ」
「ですが、私を尾行するのも警視正の息がかかった人間、つまり私と同じ『生安』の人間でしょう」
佐伯がまた舌を出して笑ったように見えた。

「まさか、公安の助けを得ているのですか?」
「貴様、俺を舐めるのか。俺は、公安に助けを求めるような腑抜けではない」
佐伯の言葉が怒気を帯びる。佐伯は、キャリア警察官のエリートコースと言われる公安で失格の烙印を押されて生安に移ってきたのだ。
「公安の連中などより、もっと優秀なプロを雇った。国際的なセキュリティ・サービス会社の日本法人だ。アメリカ本社は、傘下に民間軍事会社も抱えている。勘違いするなよ。貴様を追わせるためだけでは、ない。そんなのは、オマケだ。連中に発注した仕事の中心は」
 世津奈は、佐伯の言葉をさえぎり、先回りせずにいられなくなる。
「民間の企業と研究機関内に情報提供者のネットワークを構築すること……ですか」

 佐伯は世津奈が先回りしたことに怒りはしなかった。
「その通り。貴様が投げ出した仕事だ。もっとも、プロのセキュリティ・サービス会社を使ってみてわかったが、貴様一人に任せて出来ることなど、たかが知れていたな。連中の力は大したものだ」
「そういう会社は、高くつきます。そんなお金は、どこから出たのですか?」
「それは、貴様が知らなくてもいいことだ。ただ、俺に巨額の資金を引き出せる力があることは、覚えておけ」
佐伯が鼻をうごめかす。

「警察の権威を何より大切にお考えになる警視正殿が、ずいぶん思い切ったことをなさいましたね」
つい、皮肉な調子になる。
「上を目指す人間には、名を捨てて実を取らねばならぬ時がある。今が、その時だ。だから、こうして貴様にも協力を仰いでいる」
――はぁ? 仰いでいない。脅迫し強要しているだろうが。

 しかし、こうなったら、佐伯に隠し立てすると、活動しにくくなるばかりだ。思い切って、手の内を明かすしかない。
「和倉修一は、アフリカの独裁者エウケ・レ・レが雇った産業スパイに抗マラリア新薬の技術情報を売り渡していました」
「俺たちが心配していたとおりだ」
――俺たち? 誰のことだ? 気になるが、今は、訊かない。2年間で成長したといっても、ここで「俺たち」と言ってしまうのが佐伯の甘いところだ。そのうち、もっとボロを出し始めるだろう。下手に警戒させずに、佐伯の自滅を待つのが得策というものだ。

「私は、和倉は、エウケ・レ・レが日本で雇った反社会勢力に転がり込んだと考えています」
「それで、裏社会に通じた九鬼昇平から情報を得ようとしているのだな」
「はい」
「では、さっそく、九鬼の所に行こうではないか」
世津奈は、観念して、アクセルを踏み込んだ。

〈「33. 共通の趣味」につづく〉