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【後編】谷井大介のつくる道——仄暗いフロアに光を探して

*前編は<こちら

*本記事は、ふくしまFM「FUKU-SPACE」1月11日放送の「つながる音楽」のコーナーと連動しています。あわせてぜひお聞きください。
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なんか生きれちゃっている。奇跡がずっと続いてるんじゃないか

——仕事にまた就いて、それを辞められたっていうのは、ラジオで触れてた震災のタイミング?

 そうっすね。うちの家系が、女の人は歌い手だったり踊り手だったり、専門的に指導をする人になりなさい、それしかやっちゃダメ、みたいな。だけど、男の人は、まあこういう世界、僕らのやってることもそうだけど、水ものだから、浮き沈みがあるかもしれないから、男の人は手に職をつけながらやりなさいっていう、教えというか、家訓というかがあって。親父はそれでカメラマンをやってて。
 で、僕もやっぱり絵描くのとか好きで、自分のライブのフライヤーとかも描いたりしてて。親父が働いてたデザイン事務所に、ちょうどその街でワンマンライブがあったんで、「貼ってもらえない?」って言って貼ってもらったら、「このポスター誰がデザインしたの?」っていうふうになって、「あ、僕が」って言ったら、「ちょうど人辞めるから、バイトしない?」みたいな話になって、入って。なんか洗脳されるかのように……(笑)就職になってしまって。デザインやりながらずっと10年間、カメラマンの仕事を僕もやるようになって。
 結婚式でのカメラマンの仕事をほぼほぼやってたんですよね。あとは修学旅行について行って、学校の卒業アルバムを作ったり。それで震災があって、仕事がなくなって、会社もどうなるかわかんないってなって。でも1年後には復興に向けたイベントとかが、音楽でもめちゃくちゃあったじゃないですか。それにすごい声かけていただけるようになって。ちょうど福島、いわきですね。いわきの湯本にライブ行った時に……「結婚式の仕事も上向きにこれからなっていくって時に、お前何やってんだ」って、電話がリハーサル中にかかってきたんですよ。で、僕は絶対その復興のイベントとか断りたくなかったし、仕事をちゃんとやった上で行っていて、(それなのに)怒られちゃったから、「じゃあ仕事辞めます」って言って(笑)辞めちゃったんです、そのリハーサル最中に。
 で、「辞めちゃった」ってなって。「辞めたんだったらCD作って、うちの街まで歌いに来いよ」って言ってくれる先輩とかが、やっぱり対バンの人とかでいたりして、「じゃあ作ります」って言って作って、全国発売しようみたいな流れにもなって、そのヒッチハイクで出会った人たちの出会いで、じゃあ回ってみようってなって。で、回ってみたら「もう一回来て」っていうのが何か所かあって、そこに行ったら「今後はここ来て」って言って……で、今まで来ちゃったんですよ(笑)もうずっとそれなんですよ。
 それが震災の1年後からだから、2012年から……11年? ってこと? になるの?

——そうですよね。ラジオでもおっしゃってましたけど、本当に文字通り「ずっと」だったんですね。

 うん。最初は貯金崩しながらやってましたけどね。だけどそれで食べられるようになっちゃって。
 だから絵の仕事は、たまたま友達のアーティストの似顔絵を描いたら、「え、こんなの描けんの?」みたいになって、今もいろんなロゴとか作らせてもらったり。それこそ福島のいわきのエミールっていうお店のロゴとか作らせてもらったり、大阪のライブハウスの看板作らせてもらったり。もう何百点作ったかもわかんないですけど。でもそれは、自分の中では本職じゃないんで。お小遣い稼ぎみたいな感覚でやっていて。
 まあなんかね、なんか生きれちゃっている。奇跡がずっと続いてるんじゃないかっていう不安とともに。

——なんか、「これ今、きっちいなあ……」みたいな時期とかもありました?

 精神的にはいっぱいあります(笑)でも生活で困ったことはなくて。最初の頃、貯金崩してた頃とか、ヒッチハイクしてたこともあって、野宿とかもするの平気だったから。その震災後のツアーとかも寝袋持って、公園とか泊まったりして。宿代もかかんないし……なんていうんだろう、生活レベルっていうことに関してものすごく、鈍感なのかな。生きれればいいと思っちゃう、やっぱり。

——ハードルがそんなに高くない。

 そうそうそうそう。そうなんですよ。だから今もそうですけど、車、軽自動車だけど改造して、中に鉄パイプめちゃくちゃ組んで、中で料理できるくらいになってるんで(笑)。

——へえー! すげえ。

 セミダブルのベッド積んであって、余裕で寝れるし、そうするとホテル代もかかんないし。ずっと電車移動してたんですけど、ギター棚の上に置き忘れてたりして(笑)もうそういうの嫌だと思って。車移動にしたときに、やっぱそういうふうに、なんとか生きれるようにっていうのは。ケチなのか、節約家なのか(笑)なんかね、でも楽しいんですよね、そういうのが。それは楽しい。辛いって、そこでは思ったことが一回もないかもしれないですね。

せっかく来たんだから、そこにいるお客さんがどういう人か、どういう顔で見てるのか知りたい

——ラジオのときに話があった、福島のメンバーで組んでるバンド、あれって(アベ)マンセイさんとかのやつですか?

 そうそうそうそう!

——動画であがってたあれがそうだったのかなって。

 そう、トリオ(Gt. アベマンセイ Dr. 花澤一也)でやってる時と、横山遊季くんっていう、もうほとんど何年もコロナになってからバンド形式でやってないからおおっぴらに言えないかもだけど(笑)。

——全国回るけど、福島との距離感は気持ち的にも割と近かったって感じですか?

 近かったっすね。僕が出てたLIVE GARAGE常陸小川屋っていう、田んぼの真ん中にポツンと一軒だけあったライブハウスがあって。そこのマスターが仲良かったっすね。
 で、いわきにしょっちゅう行ってて、次第にいわきのミュージシャンも小川屋に出るようになって、交流が深まっていって。それが震災前後なんですよね。そのライブハウスが7年間あって、そのうちの2年目に、僕は初めて行ったんですよね。そこで多分、初めて行った日に見たのが、衰退羞恥心、真琴さんなんです。僕ずっと見てて、お客さんで。
 対バンは相当後なんですよ、福島市だったかな。JAPAN FOLK SPIRITっていう、東京の四谷天窓のブッカーさんたちが運営している、全国からのアコースティックミュージシャンで全国キャラバンしようっていう企画が当時あって。それの福島編がAREA559でやってて、福島のホストがaveさんだったんですよ。そこでパイナップル独りウェイさんとか、thing of gypsy lion、∞Zもいたかなあ? そういう人たちと繋がっていったんですよね。
(郡山)PEAK ACTIONは……なんで行ったんだろう? でも、真琴さんに呼ばれたのが初めてなのかなあ。ちょっと一回見てみていいですか? すごい気になる。全部とってるんですよ(ライブの記録)。
 ……あ、やっぱり真琴さんですね。

——いつぐらいの話ですか?

 2013年の7月16日です。10年前!(笑)うわあ、そうか。いろいろやってるなあ、郡山も。MAPLEさんってドーナツ屋さんだったり、屋台村……シャープナインは行ったことないんだよな。本当にこの前、1ヶ月前に初めてフォーク酒場6575さんに行かせてもらったりしましたね。

——コンビニはあれですけど、本当にいろんなところでやられるじゃないですか。ご自身的に落ち着く場所とか環境とかっていうのはあるんですか?

 落ち着く環境、場所……あの、暗いのが苦手なんすよ。

——ライブハウス(笑)。

(笑)そうなんですよ。だからピークアクションとかでもたまに「客電つけてください」とか言います。せっかくそこに来てるのに何も見えないって、悲しいんすよ。
 これ、なんか語弊があったら嫌ですけど、真っ暗だったらどこでやっても同じってなっちゃう。せっかく来たんだから、そこにいるお客さんがどういう人か、どういう顔で見てるのか知りたいし。やっぱり歌いながら景色見てることすごく多くて、壁に何が貼ってあるとか、それで曲ができたりもしてるから。
 だからラジオで(永井が好きな曲だと)言ってくれた『つくるひと』とか、そうなんですよ。閉店するお店でのリハーサルの最中に作ったんですよ、あれ。で、その最後の日に歌ったんです。だから、景色とかが見えた方が僕は好きかな。

——ライティングによっては本当に何も見えない時ってありますもんね。

 そう。不安になる(笑)ひとりぼっちなんじゃないかとか。前のバンドさんとか弾き語りの人がめっちゃ人気あったりして、ライトがパーってなって幕が上がって。で、MCの時にちょっとスポットが弱くなって、ふと見た時に(前の演者の時には)あんだけいた人が今いない!(笑)とかなんかそういう経験もあるから、怖いのかもしれないですね。

——でも気持ち分かる気がします、お客さんの表情はやっぱ見たい。

 うん。

「無理」が録音されちゃうことが苦痛

——2023年から二本松で過ごされてきたわけですけど、シンプルに福島で過ごしてみてどうだったかなっていうのをお聞きしてみたかったです。

 ああ、でも、前にながいせんせに初めて会った時に「これから(福島で繋がりを拡げて)何かしていきたいんで」って言ったように、なんっにもできなかったんですよ。
 言うなれば、引っ越してからの方が福島でライブやってなくて。やっぱりツアーに出るのは今までの生活としてあって、帰ってきて家リフォームしてたんで、「帰ってきたからそれ」ってなっちゃったってたんですよ、ずーっとこの1年。
 でも甘えてたかな、ちょっと。やっぱり知ってる人、hpnさん、kumajiroさん、真琴さん、DEFROCK、吉田チキン。みんな僕が茨城にいた頃からすごく良くしてくれて。ダーフーさんもそうだし。なので、ちょっと「いつでも会える」みたいな感じにはなってて。よその土地から来たから、「頑張んなきゃ! 今! 繋がり作んなきゃ!」みたいな意識がちょっと薄れてたのかもしれないかなあ。
 全く知らない土地だったのね、二本松って。山の中の古民家リフォームしたんですけど、そこにね、人がまずいないんですよ。「『ポツンと一軒家』貸してください」って言っちゃったんで。だから何百メートルか先に大家さんが住んでるんですけど、その大家さんに畑のやり方を教えてもらったり、そういうふれあいはあって。大家さんが勝手に庭にいるんですよ(笑)そういうのはね、やっぱり田舎のおばあちゃんだからホッとする部分もあったり。

——2024年から活動をもう一回押し上げていきたいっていう部分に関しては、変わらず?

 そうっすね、変わらないですね。

——ラジオの時に伺ったのは「新しいアルバムを作りたい」とか「イベントを盛り上げていきたい」という話だったと思うんですけど、アルバムを作るに あたっては、今までの作り方とまた変わってくる部分とかありそうですか?

 ああ~……どうだろう。まずもってね、レコーディングがね……好きじゃないんですよ(笑)ははは。もうネガティブなことしか言ってないな(笑)好きじゃないんですよ〜。すぐ次の日には「いや、こんなはずじゃない」って思っちゃって。だからそこに向かい合うのかって思うと……でも精神的な部分が多いから、そういうふうにならないように作りたいっていうのはもちろんあったりして。楽曲ももちろんそうですけど。
 だから何か新しいことっていうより、いつもそうかもしれないけどそのレコーディングをする時に、僕の中でレコーディングってすごい無理してることが多くて、正直。その「無理」が録音されちゃうことが苦痛なんですよ。だからその目指してるものっていうのは絶対毎回毎回、どんくらい自然に録れるかだったりするから。で、当時(前の作品)の「どんくらい自然か」っていう感覚と、今録るアルバムの「どんくらい自然か」って絶対違うんですよね。そこは目指すものが同じでも目指すものが違うというか。そういう感じはあるかも。

——どうしてもやりながらどんどん変わっていくものですしね。

 うん。まあでも、目論みとして楽器全部自分でやってみようかなとかも思ってたりするっすね。一回やってみようかなって、やったことないんですよ、全部自分でやるって。それもいいな、って思って。今までは人に頼んで派手になっていって、すごくそれが自分にできないことだから嬉しくて「やったー」ってなるけど、ものすごく引き算したアルバム作りたいなっても思ったりして。ここぞ、これ、みたいな楽器が弾き込まないというか、入れ込まない、入れ込みすぎないというか。そういうアルバムを作ってみたいけど。ながいせんせがラジオで言ってくれたように「熱い」って言われることが多いから、「合うのかな、僕のスタイルに」って思うけど、まあでもそれもやってみて、楽しみかな、とは思います。

——やってみて見つかるものとかもありますもんね。

 うんうん。

今の自分がどこに感動して、どこに感動しないのか

——結構、直近ではないですけども、近いところでの今後の見通しを聞かせてもらったと思うんですけども、より長期スパンで、こんな自分でありたい、こんな歌唄ってたいなっていうのは。

 ずっと今の楽曲を、60歳、65歳でもしツアー回っていたとして、ライブシーンに若者がいたとして、お客さんにも直接的なつながりがないかもしれないけども誰かのつながりで中学生高校生とかがいたとして……なんて言ったらいいだろう。
 今作っている楽曲を、60歳、65歳になっても、その60歳、65歳になった僕が恥ずかしいと思うことなく歌えるかどうか、っていうのは今思って作ってるんですよ。勢いで、今の「まだまだいける! 勢いで! うわー!」っていうふうに、ライブもパフォーマンスもわーってやっているって、すごく輝きがあることっていう一面もあるけど、それを60歳、65歳になってやった時に、引いちゃう自分がいそう。お客さんというより自分が引いちゃいそうで。うわーってやるにしても、60歳、65歳の自分がうわーってやっても歌えるぞっていう楽曲を、作ろうとはずっと思って作ってるんですよ。
 すっごいこれ、結構言ってるんですけど、すんごい怒られるかもしれないですけど、働きたくないんですよ(笑)一生働きたくなくて。だから音楽でご飯を食べるっていうことに関して、そこにもちろん照準を合わせて楽曲作ってるわけじゃないけど、そうしたいんですよね。もちろん誰でもそうだけど、必要とされなくなったらもう終わりで。だからどこまで食い込めて、どこで引いていくんだろうの差し合いというか。っていうのはすごくいつも考えてるかも。
 もう中堅なんで、完全に。言うたら下の世代も年々……ライブやっても「一番年上です」ってのも増えてきたし。そこでどうやって……まあもちろん、集客ができないとか、CDが売れないってなったら生活ができないわけだから、どういうふうにその時その時の時代で生きていくか、自分が引かないように、っていうのは、長期スパンって言葉に合ってるかわかんないですけど、ずっとそれは思ってるかも。

——最初に言いかけた、若いミュージシャンとか、お客さんに学生がいたりとか……っていうのは、そういう人たちにとっても違和感のない、タイムレスなものを作りたいってことですよね。

 そうそう、そうそう。それってもしかしたら、今のシーンを見てて、世代の近い人たちとしかやれなくなっていくかもしれないですよね。ライブハウスのブッカーも若くなっていくから、そういうところの「枠」にはめられるかもしれないですよね、もしかしたら。
 だけど、若い人の音楽をずっと聴いていたいなって思うんですよ。今の自分がどこに感動して、どこに感動しないのか。感動したものはすぐやりたいですよね。もちろんパクリとかじゃなくて、エッセンスとしてはすぐやりたくて。それができてるかどうかは別ですよ?(笑)自分のことだけしか考えなくなったら、どんどんどんどん、もしかしたらそういう「枠」にはめられそうな恐怖感とかがあって。
 もしかしたらそういう世代の違う人にも届く音楽を、自分で引かずにやっていったら、いろんな人の音楽聴けるかな、対バンとかでも。で、自分もそういう自分になっていけるかな、とか。対バンじゃなくても、世に流れているところにも、聴こうと思える自分になっていけるかなっていうのはすごい思うかな。ちょっとまとまんないですけど(笑)。

——いえいえいえ。そういうことを伺いたい質問でした。そんな感じで、こちらからは以上になります。

 うわあ〜〜丸裸にされた感じ(笑)ははははは。お疲れ様でした!

——ありがとうございました!

 やっぱ僕ネガティブなんだな(笑)ははは。


谷井大介(たにい・だいすけ)
1981年1月29日生まれ。茨城県出身。
2000年、自転車やヒッチハイクで日本を一周し、様々な出会いと音楽の研鑽を重ねた経験から現在の音楽活動を開始。
ギター、時にピアノで歌いながら全国各地を回り、そのキャリアは12年目に差しかかる。
デザイン・イラストでも、自主制作・外注品ともにその手腕を振るっている。
X(@tannysm
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