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【前編】谷井大介のつくる道——仄暗いフロアに光を探して

谷井大介さんに取材を行ったのは、2023年もいよいよ佳境という頃だった。

暮れの多忙な時期に、午前中にふくしまFMでラジオ収録を行い、同日の夜に改めて記事用の取材の時間をいただいた。車ひとつ、時には身ひとつで日本各地を飛び回る谷井さんのタフさに甘えたハードなスケジューリングでありながら、さらに取材の中でも余すことなく克明にその旅の足跡をなぞってくださったことに感謝したい。

あくまでダイジェストの域を出ないことはもちろん承知だが、この記事が谷井さんの旅路を少しでも追体験できるものとなっていれば嬉しい。

取材・編集:永井慎之介

*本記事は、ふくしまFM「FUKU-SPACE」1月11日放送の「つながる音楽」のコーナーと連動しています。あわせてぜひお聞きください。
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遠足1個増えてる、みたいな感覚

 緊張する……(笑)。

——いえいえいえ(笑)。記事、何個か多分見てくださったと思うんですけど、あんな感じで本当に、ただただ人生のお話を(笑)聞いていくっていう。

 あんなにスパスパ出てくるかなあと思って……(笑)。

——(笑)。皆さんそう言うんですけど、形になってみると結構、面白かったりするんです。

 わかりました(笑)お願いします。

——まず、ラジオのほうで、ご両親も音楽関係の仕事でと仰ってたんですが、それは具体的にお聞きしていいんですか?

 あ、全然全然。両親というか、祖父も尺八吹きで。うち民謡の家系なんですけど、茨城で日本三代民謡のひとつの磯節っていうのがあって、それを伝承していくっていうのが父親の家系なんです。だからじいちゃん石碑とか建ったりしてて(笑)。そこに母方の、僕の祖父が、うちの母親を内弟子に入れると。で、政略結婚ののち(笑)僕が生まれる、みたいな。

——じゃあその家系のことで、ご両親もやられて。

 そうですね、今も教えてますし、いろんな会が派閥として出ていってるんですけど。父親は4年前にもう他界してて。でもカメラマンやりながら三味線弾きやってて。ずっと僕の家もお稽古場だったし、僕自身もずっと民謡やってて、っていう感じですね。

——ご自宅にじゃあ、いろんな人が習いに来てたみたいな。

 うん。今はもうやってないんですけど、気づいたらそうでしたね。お稽古場があって。父方の実家は今でも大きいお稽古場があって、子供たちに伝統芸能を伝えるっていう。

——子供たちになんですね。

 そうですね、やっぱりおじいちゃんおばあちゃんは多いけど、どんどんどんどん減っていくかもしれなくて、そこ(次世代への継承)には力を入れてると思います。僕は和太鼓やってて。

——結構いろんな……尺八から始まり、民謡とか和太鼓とか。

 まあ要はバンドと同じで、いっぱい楽器があるんですよね。父親三味線引きで、おじいちゃんは尺八で、踊りを踊る人もいるし、歌い手を育てるとかもあるし。僕は……なんかわかんないですけど和太鼓(笑)。

——「気づいたらやってた」みたいな?

 気づいたら、もう3歳くらいからだったかな、舞台に立ってて。

——それは楽しかったですか?

「楽しかった」か……? なんか……その初舞台、名古屋なんですけど、名古屋市民会館。毎年大型バス借り切って、それこそ選抜チームじゃないですけど、それで行くんですよ。それが要は、遠足と同じで、僕の中で(笑)遠足1個増えてる、みたいな感覚で行ってるのとかはあったから、楽しかったは楽しかったのかなぁ。ただ、難しかったです。「間の取り方をこうしなさい」とか言われても、わかんないんですよ(笑)。

——(笑)今だったら、多少あるかもしれないですけどね。

 いやでも、リズムに乗せて……バンドだったらクリック聴いて、ドラムでリズムの練習する。じゃなくて、歌を聴いて、「間を外しなさい」っていう教えなんですよ。

——「外しなさい」。

 要は、「わびさびを感じて」、簡単に言うと。「合わせたら、合っちゃうでしょ」みたいな(笑)。

——結構、尖ってるというか……?(笑)

(笑)尖ってるのかもしれない。そういう教えが、ずっとだったんで。「なんか違う」。でも、何が違うかは、教えてくれないんですよ。感じるもの。「どう思う?」って、うまい人がやって(それを聴いて)。

——それは、おいおい、今みたいな音楽の活動をするようになっていって、「あの時のあれって、こういうことだったのかな」みたいなのって、あったりしますか。

 民謡から……う~ん…………ああどうだろう。

——やっぱりまるっきり違うものですか? 同じ音楽っていっても。

 あの、母親と話したことがあって。要は、民謡って昔からあるもので。「自分の歌、っていうものを歌いたいと思ったことってないの?」って聞いたことあったんですよ。要はオリジナル。僕らは多分、生み出していきたいというか、そういう方向だけど、母親は、「どれだけ崩さずに後世に残せるか」だから、もうね、考え方が全然違くて。
 だけど、僕がギターを持ったきっかけも……母親が、一番最初はギター教室に通ってたらしいんですよ。クラシックギターを持ってて。でも方向転換させられて、内弟子に入りなさいってなってギターを辞めたらしいんです。ピアノも本当はやりたかったのに、ギターも辞めさせられて内弟子に入っていくから、僕にやらせようと思ってたらしくて、ギターをくれたんです。エレクトーンがその頃流行っていて、ピアノ習いたかったからエレクトーンやらせたいってなって。
 嫌々それはやってました。周りにピアノ習ってる男の子、僕らの世代っていなくて、すっごいバカにされてて。

絵と音楽しか、ずっとやってない気がする

——小さい時だったらなおさらかもですね。ご自身の性格的には、幼い時の人となりってどんな感じだったんですか?

 性格か。でも写真とかを見る限り、やたらふざけてるんですよ(笑)。やたら変な顔してるし、変なポーズとってるし。今でもそうですけど、ライブの時とかでも、歌うのはもちろんだけど「なんか笑かしたい」ってあるんですよね(笑)笑かせるかどうかは別として、笑かしたいってあるから、まあお調子面だったのかなあ。
 絶対にこう、アカレンジャーにはなれないタイプというか(笑)ははは、黄色かな。それはずっと、今でも思ってるんですよね。「トップランナーにはなれないな」っていうのは、今でも思ってるんです。

——その習ってたもの以外に、何か興味を持ってたものとか好きだったことは?

 あ、絵を描くことかな。

——あ、もうその時から。

 もうちっちゃい頃から絵描いてて。賞とか一回、ちっちゃい頃に取ったんですよね、金賞みたいなのを。やっぱ褒められると嬉しいじゃないですか。それで好きになっていって。父親もカメラマンだし、その父親の実家の民謡教室と一緒に書道教室もやってるんですよ。

——本当にカバー範囲が広いですね。

 だからそういう、ものを描くとか、作るとかがすごい好きで。今も並行して絵の仕事とか入ってくるのもそうですし。絵と音楽しか、ずっとやってない気がする。学校の成績も絵と音楽しか良くなかったし。結局専門学校行ったんですけど、専門学校もどっち行くか迷いましたね。音響の専門学校に行ったんですけど。

——そのときは何をもって判断したんですか?

 音楽に関しては、ちょっと勉強したんですよ。けど絵は全く勉強しなかったんですよ。好きで描いてただけで。だからその自信というか、後押しする材料の多い少ない、だったかもしれないです。

——うんうん。後々プロフェッショナルになることを考えても確かにそうなりますよね。家で楽器やられてたっていう話だったんですけど、周りの友達とかと一緒にバンド組むこととかはあったんですか?

 中学校の文化祭でバンドやろうってなりました。BOΦWYやろうってなって、初めてエレキギター買って。エレクトーンも弾けたんで「シンセサイザーで」って言われたんだけど、「BOΦWYにシンセサイザー要るのかな……」と思って(笑)ギターになったんですけど、練習してて、確か学校側でバンドやっちゃダメってなったんですよ。それで、でも一人でやりたくて、尾崎豊を3曲、全校生徒と父兄の前でやったっていうのが初めて。

——結局じゃあできなかったんですね。その後は高校とかでできたりとか?

 高校とかはめちゃめちゃやりました。スカパンクバンドをずっとやってて。一時期……名前出していいのかわかんないけど、BRAHMANとかの動員を抜いたこともありました(笑)。

——(笑)すごいですね!?

 イベントを一緒にやってる……FACTってわかります? バンドの。そのメンバーたちと入れ替わり立ち替わり、バンドメンバーを替えて。同い年なんですよ。今でも僕の幼馴染がマネージャーやってて。入れ替わり立ち替わりバンド組んで、一緒にやるイベントっていうのがずっとあって。それで、過去最高動員記録を(水戸)LIGHTHOUSEで作ったりしてて(笑)調子に乗ってましたね。
 だから「これでいけるんじゃないかな」と思ってたけど、やっぱり進路のことがあって、解散して。僕その時は和太鼓やってたから「お前ドラムな」って言われてドラムになったんですけど。だからずーっとバンド時代は、一瞬ベースやったりもしたんですけど、ずーっとドラムしかやったことないです。確か専門学校でもドラムだったし。
 でも、めちゃくちゃ悩んだんですけど……「和太鼓だからドラムね」って言われるのはわかるけど、民謡時代には「間を外せ」って言われてるんですよ。その癖が絶対つくから、もう苦しくて苦しくてしょうがなくて(笑)。

——やっぱ影響するんですね。

 うん、でしたでした。

——しばらく結構長いこと、ギター・エレクトーンを離れて打楽器時代が続いてたんですね。

 うんうん、続いてましたね。でも作曲はギターでやったりして、バンドの曲全部僕が作ってたんで。

——あ、パートとしては。

 パートとしてはドラムだけど、作曲は僕でしたね。

元の元をたどっていくと、褒められることが嬉しいんですよ

——弾き語りの時でもバンドの時でもいいんですけど、ステージ上がった時の衝撃というか、印象というかそういうのって覚えてます?

 いや、「緊張した」くらいしかないですね……でもちょっと、今でも緊張するじゃないですか。やっぱりだから、僕これ劣等感でもあるんですけど……これ話ずれるかもしれないですけど、みんな「何々に憧れて音楽始めました」とかが多くて。弾き語りも今だったら「竹原ピストルさんが大好きで始めました」って若い子言うし、そういうのが僕ね、それがないんですよ。もう気づいたら舞台立っちゃってたから。

——与えられていたから。

 うん。だから考えたことあって、それについて。本当にこう、衝動が溢れて、「僕はこれがやりたい!」って言って今に至っているかって考えたら、絶対そうじゃないよなと思って。そこがもしかしたら、他の人より劣っているのかもしれないって悩んだことがあって。でも母親も父親もそれで生きてきてるのを見てるから、要は親が子供に教えられることもそういうものだったから、自ずと「それでしか生きられないんだな」って思ってたんですよね……でも衝動がないから、「本当にこれで大丈夫?」っていうのはずっとあって。

——その劣等感みたいなものに対しての、一旦の答えみたいなものは出たんですか?

「これで好きって言ったらおこがましい」とか思うことも、今でもあるんですけど、やっぱり元の元をたどっていくと、褒められることが嬉しいんですよ。絵で金賞取って褒められたから絵を描きました、中学校でもカラオケ大会があって1位取って嬉しいからやっぱり音楽を続けました。弾き語り始めてもそうだし、バンドやってもそうだし。それがもちろんダメな時もあるし、未だに「今日集客がもしかしたらゼロかもしれない」みたいな時とかもあったりするし、たまに。でもやっぱり褒められる瞬間って必ず来てしまって。だからそこに対して期待をしちゃってる自分がいて。
 でも、「本当に音楽好きか?」「本当に絵好きか?」「心の底から?」って聞かれたら、わかんない。多分ステージに上がって……この前の山崎まさよしさんじゃないですけど「歌いたくない」って喋って爆笑とったりして、絵本読んで誰かが泣いてたりして、それで褒められたりしたらそれで良くなっちゃうのかもしれないな、って考えたことあって。
 一回ワンマンライブで絵本読んだことあるんですよ。「これで褒められたら……」と思ったけど、全っ然褒められなくて(笑)「何やってんの?」って。あとは、どっちかっていったら僕、弾き語りでギターを褒められることが多いんですよ。「ギターが上手いね」。で、それも劣等感で嫌だったから、30分間全部アカペラでやったこともあったんですよ(笑)手ぶらで。「何やってんの?」って言われて(笑)。ライブハウスの人に、終わったら「どうしたの?」って言われて。「いや、何かやってみたくて」「これでも認められるのかどうかやってみたかったです」。やっぱ認められなくて。だったらやっぱり、褒められることで行くしかないのかなっていうふうに、落ち着いていったというか。結局ネガティブな発想できてる気がするんですけどね(笑)。

——ますます話ずらして申し訳ないんですけど、好きかどうかはともかくギターを褒められることが多いと。そこにはやっぱスキルがあるからだと思うんですけど、これを培ってこれたのって、好きな気持ちがあったからではなくて? それとはまた違う……単なる蓄積というか。

 ああでも、僕らって「路上ライブ」っていう名前ができたのを目の当たりにしてる世代で。その前って「路上ライブ」っていう名前なかったんですよ。「流し」とか言ってて、路上でやっててもお店回るでもなくても。「路上ライブ」っていう名前が出た頃にゆずが流行ったりした頃。僕はゆずとかは歌わなかったけど、バンドサウンドが一瞬にして「うわ、もういいや」って思って。一瞬にして、今まで聴いてきた、要はメロコアだとかスカパンク系の音楽を、もう一日でぴったり聴かなくなった日があったんですよ。相当CDも持ってたんですけど、でも、「あ、もういいや」ってなって、そっから弾き語りっていうものにまた手を出すんですけど。
 その頃にやっぱり路上ライブ流行りだしてて、なんかわかんないですけど、なんだったのか……友達ができたからだったのか、365日路上に出た年があったんです。多分、今アコギが弾けるようになったのって、その1年間のおかげだと思います。それまでは下手くそだったし、やっぱり。で、地元の日立の街なかのBGMは21時に止まるんですよ。21時に止まって、そこから始発までは毎日やってたんで。雪降ってもやってたんで。

——それはもう「ギター大丈夫かな!?」ってなっちゃいます(笑)。

 そうそうそう(笑)行き過ぎてギターも盗まれたことあったし、トイレ行ってる間。

——続けられるもんなんですね。

 楽しかったですね。好き……まあ好きなんでしょうね(笑)そう言われると。好きじゃないと維持できないんだろうなあとは、そこでは思うかな。

——「好き」と「楽しい」はもしかしたらちょっと微妙に違うかも分かんないんですけどね。

 うん。でも一人でやってなかったんですよね、ずっと。弾き語りの仲間たちがだんだん集まるようになって、1曲1曲歌い回したりして。誰にお客さんが付くかとか(そういう話にも)なるじゃないですか、そうなると。そこで僕についたら、また来ようと思うじゃないですか。やっぱり褒められたいんだなあ……ああ、ヤバい、なんか記事の内容が承認欲求の塊みたいになってて(笑)怖い怖い怖い。

——(笑)でもラジオで『リトルライト』の話してもらったじゃないですか。フロアでお客さんの顔が見える(そのひとつひとつが小さな光のように見える)っていう。その人たちもきっと褒めてくれる人たちなんだろうなっていうふうには。

 ああ、そうっすね。確かにそうかも。

——その路上をしてたのは、仕事を辞めた後の話ですか?

 ああ、そう。音響の仕事辞めて、自転車で帰ってきて、その年かその次の年ぐらいですね……あ、違う、ヒッチハイクで帰ってきてからかな。アバウトだな。でもそこら辺ですね。

気づいちゃって、「やっぱり歌いたかったんだ」って

——旅をしてたじゃないですか、自転車とかヒッチハイクとかで(2000年、自転車・ヒッチハイクで日本を一周。その旅をきっかけに音楽活動を開始している。詳しくはラジオで)。またラジオのときと似たような質問になっちゃいますけど、動力源というか、目的ってどういうところに?

 自転車の時は、その日が……その時小田和正さん(のツアー)についてて、最終日だったんですよ。で、大渋滞か何かでローディーさんが来れないってなって、トランポ屋さんってギターとかを運ぶ人は着いていて。要はギターのサウンドチェックをする時に、ローディーさんとかがいつも弾いてたんですけど、PAはいる、ローディーさんはいない、楽器は届いている。じゃあ誰がサウンドチェックするんだってなった時に、僕の働いてたところのPAさんだけかはわかんないけど、後で聞いたら「いやそういう人多いよ」って言われたけど、楽器弾けない人が多いんですって、意外と。僕は弾けるんですけど、その現場にいた先輩は誰も弾けなかったんですよ。
 先輩が、3人1組みたいな感じで現場に行って、あとはバイトの方達がいて、音響チームはそんな感じだったんですけど、誰も弾けなくて。僕は弾けるのに、弾けない先輩が、プロの人のギターを、本番ではないけどステージで弾いているっていうことに、「なんで、僕は弾けるのに」って思っちゃって、でも言い出せなくて。本番が始まって、要は、ステージの上手のモニターPAさんがいて、その裏でずっと本番見てて、「僕は一生もうあそこに立てないんだな」って思ったんですよ。
 で、辞めました。気づいちゃって、「やっぱり歌いたかったんだ」って。そこで気づいたんですよ。

——このままここにいたら、あそこにはもう立てないから。

 そう。嘘ついてたって思ったんです、自分に。音楽に「携われればいい」って思い込もうとしていて、何年か過ごしちゃっていることに気づいて。
 帰り際に路上ライブやろうと思ってて、友達と。
 それ終わって、自転車で家に帰るのにカレー作ろうと思って、カレーの材料を自転車にかけて、ギターを背負って帰ろうと思ってた時に、そのまま帰らず旅に出ちゃったんです。

——そこから何日走ったんですか?

 その頃、京王多摩川って、調布の隣にある駅に住んでて、そこから23時間でとりあえず日立まで帰ってきたんです。ばーって走って。色々モヤモヤしてたこともあったし、当時付き合ってた彼女とうまくいかないとか、家族の体調が悪いとか、そういうの全部振り払いたくなって、ひたすら走っちゃって。そこで初めて曲作って、帰ってきたらまた自転車で旅に出て。
 また戻ってきた時、今でもすごい親友なんですけど、ヒッチハイクで回ってた僕の2個下の男の子に会うんです。「ヒッチハイクってどうやってやってんの?」って言って、こうやってやってるよって。僕もやってみようと思って。
 自転車の旅は、自分との対話なんですよ、ずっと。誰も話しかけてくれないし、ずっと自問自答で汗流して消化していくみたいなことだと思うんだけど、ヒッチハイクで「誰々とこういう話してさ」みたいなのがもう全くなかったと思って。いろんな人と会いたい、会ってみたいと思ってヒッチハイクにしました。

——自分と話す必要がある時もあれば、人と話す必要がある時も、どっちもありますもんね。記憶に残ってる道中の出会いとかありますか?

 ああもう全然あります(笑)あの……嘘か本当かも分かんないけど、すごい黒塗りの高級車に乗せてもらって。まあ明らかにサングラスかけてて短髪で、金色のネックレスしてて。で、僕からだいたい話しかけるんですよね。「何してる方なんですか?」。その質問はみんな同じなんですよ、何か取っ掛かりが欲しいから、僕も。どういう人に乗せてもらっても。そしたら「いや最近まで何の仕事もしてなくてね~。前はちょっと悪い仕事してて、最近まで刑務所に入ってて」……僕も笑うしかない(笑)本当ですかって……でも優しかったですよ、すごい。優しくて、怖かったけど、あれは衝撃かなぁ。
 青森で言葉の通じないおばあちゃんに、なんて言ってるか全然方言でわからなくて、温泉の前で降ろされて、なんなんだろうと思ったら、紙に書かれて。ヒッチハイクなんで、まともに風呂とかも入れなくて、「あんた臭いから風呂入ってきなさい」って書かれて(笑)。
 あとは、大人数の、結婚式帰りのお兄ちゃんたちに、車2~3台くらいだったのかな、10人くらいはいて、乗せてもらって、神奈川県で。小田原のミニストップの駐車場で降ろしてもらって、「俺に一曲歌ってよ!」って言われて、駐車場で歌ってたんです。そしたら、そのミニストップの店長さんが出てきて、めっちゃ怒られて、「お前何やってんだ!」「うるせえ!」って言って、で、「やるんだったら店の中でやれ」って言われて。その頃、今みたいにセブンイレブンとかイートインスペースありますけど、ミニストップしかその頃、イートインスペースってなくて。で、ミニストップの中でライブやったことあるんですよ。店長さんも聞いててくれて。もちろんね、お客さんとかの対応はしてたけど。面白い人たちいっぱいいたなと思って。

——いろんな人いますね。どうですか? 今、もちろんやってよかったことだとは思うんですけど、「あの時の経験があったからこそ」みたいなのって。

 うーん。いいのか悪いのか分かんないけれども、ヒッチハイクで当時一番強く思ったのは、「死ななきゃOK」っていうのはすごい思って。どうにかなっちゃう、みたいな。それがいいふうに働いてる時と、悪いふうに働いてる時もあるんですけど。
 あとはやっぱり、ちゃんとその後就職とかもするんですけど、その仕事も辞めて、また全国をこうやってツアーで回るようになった時に、その(自転車やヒッチハイクの)時に出会った人たちに助けてもらうことになるんですよ、もう一回。それをやってなかったら、いきなり全国に出て……普通の人は徐々に徐々に、「今度あそこ行くんだけどさ」っていうのが(少しずつ広げていくはずのものが)、弾き語りでちゃんと全国ツアーを回ろうってなった時に、最初からもうあったんですよね。ヒッチハイクの時ももちろんギターは持ってたけど、それはやっぱり、でかかったかな。

——種を蒔いてたわけですもんね。

 知らずにね。そんなつもりも、打算なんかまったくなかったけど。

——それめっちゃ素敵ですね。


<次回>
シンガーソングライターとしての現在の矜持と、これからについて。
*後編は1月22日公開予定

記事に頂いたサポートは、全額をその記事の語り手の方へお渡しさせて頂きます。