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『KERA』と最近のこと

「検察庁法改正案」反対のツイートを投稿したことで、歌手のきゃりーぱみゅぱみゅに対する誹謗中傷(なかにはかなり偏見に満ちた職業差別も)が集まっている。きゃりーちゃん本人がファン同士の言い争いを避けたいとの説明の上、該当ツイートを削除したことから、「ものが言えなくなる過程を見せられているようだ」と評する人も多くいた。

その文脈から、Twitterでは「#きゃりーぱみゅぱみゅさんを応援します」とか、「#きゃりーぱみゅぱみゅさんを攻撃しないでください」というハッシュタグが作られて、5月25日のお昼頃にはトレンドにも入っていた。

あまり個人的な感情を書くのは得意ではないのだが、きゃりーぱみゅぱみゅはまだ読者モデルの「きゃりー」だった頃から『KERA』で目にしていて、ゴシック&ロリータやストリートファッションが精神的な支えだった自分にとってはかなり馴染み深い存在である。

『KERA』というのは、1998年から発行されているファッション誌で、主にストリートファッションやサブカルチャー、ゴシック&ロリータファッションを扱っている。2017年より紙媒体での販売を廃止しており、現在は電子媒体で配信されている(ちなみに「ケラ」でGoogle検索すると「バッタ目・キリギリス亜目・コオロギ上科・ケラ科に分類される昆虫の総称」のほうのケラが出てくるので、相応の覚悟が必要である)。

私が購読していた当時(2010年代)の『KERA』に顕著だったのが「気に入るものがないなら自分で作る」という姿勢で、きゃりーちゃんだけでなくさまざまな「ケラ!ッコ」(『KERA』の読者のこと。『KERA』は、なぜかカタカナ表記になると!が付く)たちが、ときには既製品のアクセサリーを解体しコラージュのように組み合わせて、ときには型紙から切り抜いて、自分の感性にあうものを作っていた。ストリートスナップや読者モデルの写真を見れば、それがすぐにわかる。

いまは休刊になってしまった『KERA』の姉妹誌『Gothic&Lolita Bible』では、ゴシック&ロリータファッションのブランドが提供した型紙が附録として綴じ込まれており、高価なロリータ服をお迎えできない人や、自分でより創造的なファッションをたのしみたい人は、それを使って服やアクセサリーを作れるようになっていた。

たしか、「お笑い芸人になりたい」といって友人たちと共に雑誌に出ることもあった当時のきゃりーちゃんのファッションは、まだ「原宿カワイイ」として名指される前の、暗中模索の魅力に満ちていた。
私はゴシックやクラシカルが好きだったので(いまも好き)、きゃりーちゃんのように明るくサイケデリックなファッションを身につけることはなかったが、彼女のファッションにまぶされるちょっとした毒っ気のようなものは本当にかわいいと思っていたし、憧れの目で見ることも多かった。パステルカラーのフリルや大きなリボンのなかに覗く、目玉や唇のモチーフ。いまではおそらく「原宿カワイイ」の代名詞として語られるであろうキュートさとグロテスクの取り合せの妙は、あの手探りの時代からの彼女の持ち味だった。

きゃりーちゃんをはじめ、『KERA』や『Gothic&Lolita Bible』のモデルたちは、ただブランドの服を宣伝するメディアであるというよりも、自分自身の肉体をキャンバスにした芸術家のようだった。
「気に入るものがないなら自分で作る」というのは、ある種の政治的な姿勢だろう。そもそも『KERA』という雑誌の名前自体が、アメリカの作家ジャック・ケルアックから付けられたものであって、誌面のなかでは指摘さえされていなかったものの、その精神性はカウンター・カルチャーの水脈をひいていたはずだ。

また『KERA』には、少なくとも私の記憶の限りでは、若者向けの雑誌にありがちな性や恋愛に関する記事が載ることがなかった。
それは青文字系ファッションを扱う雑誌ゆえかもしれないが、そこに私は勝手にストイックさのようなものを感じていた。要するに、ある一定量の読者を得られるであろう人間どうしの(そして、ヘテロセクシュアルの)恋愛の記事よりも、自由なファッションへの愛を綴った記事を優先するような姿勢に、ひとつの解放のかたちを見ていた。そこには、雑誌が喧伝する資本主義的な恋愛という、既成の価値観に組み込まれまいとする反骨精神があるように思われた。


先に述べたとおり、『KERA』はやがて電子媒体での配信となり、いまでは紙媒体で書店に置かれることはなくなった。私はきゃりーぱみゅぱみゅのもうひとつのルーツである『Zipper』についてはほとんどなにも知らない。けれども、いちケラ!ッコ(?)が勝手に推測するに、『KERA』にルーツをもつ彼女が、反骨精神のようなものを備えていないわけがないと思うのである。
彼女は芯の通った、「気に入るもの」を「自分で作れる」心の持ち主だし、私は彼女を尊敬している。
「気に入るものがないなら自分で作る」。それは社会においても同じだろう。


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