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またここか、と思うこと

先日のnoteにも書いたのだけれど、劇団明後日の『またここか』の戯曲をふと思い立って購入した。
買ったその瞬間はフィクションを作るという行為について再考したいの気分かなと思っていたけど、上演当時気になっていた部分をじっくり読んでみると、おやこれは、となった。

『またここか』はある郊外のガソリンスタンドを舞台に、腹違いの兄が弟の元を訪れる話だ。
弟はやってはいけないな、と一度思うとそれをやりたくなってしまう性分の持ち主で、それは例えば押してはいけない非常ボタンを見つけたら押したくなってしまうとか、お葬式で笑ってしまうとか、そういう類のものだ。禁忌が強ければ強いほど、やりたくなってしまうので、小学生の集団下校を見かけると、車で突っ込んではいけない、突っ込んではいけない、と思いながらアクセルを踏み込んでしまいそうになる。そして弟は、そういう風に人を殺してしまいそうな自分自身に苦しんでいる。
そんな弟に対し、小説家だった兄は小説を書くことを弟に教える。

小説に書くのは二つのこと。本当はやっちゃいけないこと。もうひとつは、もう起こってしまった、どうしようもなくやりきれないことをやり直すってこと。そういうことを書く。そこに夢と思い出を閉じ込める。それが、お話を作るっていうこと。

弟が自分自身の性分と一緒に生きることの難しさを、じわじわと味わってきた観客たちは、このセリフを契機に書かれた彼の物語をかみしめ、劇場を後にする。そしてまた、たくさんの作品を作り続けてきた脚本家が、自分となんとか生きていくための方法に物語を作ることを据えたということについて考えずにはいられない。

しかし、果たして弟は物語を作ることを頼りに生きていけるのか、ということは意外に明言されずに終わっているような、と気付いたり、肝心の作品タイトルである『またここか』は兄の言葉から来ているというのが、気になったり、すごく心揺さぶられた反面もう少し考えてみるべきこともあるように思えた。そして読み返すと、やはり兄の物語も重要だなぁと思う。

またここか、というタイトルは兄のこの言葉から来ている。

おまえ、葉書って。葉書って何書いたの。ごめん、読んでないんだよ。読んでたら、なんか変わってたのかな。三人して、かき氷のベロでも見せ合ういつかがあったのかな。そしたらな、俺も介護手伝って……手伝わないだろうな、俺は。たらればじゃないんだもん。人間性だもんね。ダサいお兄ちゃんですよ。いっつもそう。進んでるつもりで同じことしてる。左折、左折、左折、左折して。着いてはみたら、あーここかって。左折、左折、左折、左折で、また、あーここかって。いつ来ても、ここだよ。私の至らぬ点がございましてね、へへへ。

一人で父親の介護をしていた弟は兄に葉書を出したが、兄がそれを読むことはなかった。そして、ある日弟は人工呼吸器のチューブを結んで、父の呼吸を止めてしまい、それが原因で父は死んだ。

兄は茶化して、ごまかしながら話しているが、この「またここか」という感覚こそが、自分からは逃れられず、自分は自分と生きていかなければいけないということを噛み締める言葉なのだな、とわかってきた。
弟も弟の性分と共に生きていかなければならず、どうしようもなくやってはいけないことをやりたくなる時に、やってしまったことを後悔したときに、またここか、と思うのだが、兄もまた兄で、自分の性分と共に生きていかなければならない苦しさを抱えている。自分が書いた小説をきっかけに自殺してしまった女の子の存在から逃避したり、葉書を読まなくて気づいたら弟は父を殺していたり。たった今も離婚で揉めていて、さまざまな後悔を抱えている。

弟のように、物凄く生きづらいというわけでなくとも、人々は「またここか」と自分自身をつぶやかせてしまうような場所を持っていて、そういう思いとと度々遭遇しながら、ずーっと一緒に生きていくのだ。

直ったと思う自分の悪癖に久々に巡り合うという体験が、最近わたし自身に多いので、ああ、またここかってこういうことだったのか、と腹に落ちた。
些細な悪癖ではあるけれど、成長していなくなったんだと思っていたよ、悪癖たちよ、って気持ちでぐったりする。1個何かができるようになる。するとさらにその上に何かを積み上げて、どんどん高くできる、となんとなく思っていたけれど、お?こりゃ違うな、と気付いてくる。きっとこれは、この先もまた、左折、左折、左折、左折で戻ってくる。上には進まない。

でも、そういうぼんやりした逃れられない自分に対して、またここか、ってなることを分かりつつ、それでもそこから遠ざかろうとする、克服しようとする行為には、意味があると思う。というか、悪癖だけでなくて、自分ってこういう人間だからな、と思っていること全般に対して、それを突き崩し作り直すことは続ける必要があるんだろうなと、なんとなく思う。し、思いたいのでその理由になるものを探している。

でもまあ、あとで、またここかって気持ちになることは分かっていても、何かできるようになることは嬉しいし、それで戻ってきてしまってもいいし、またここに戻ってくると分かりながら、ここを離れようと努力することが耐えられなくなったら、全部何もかもやめて怨念のたくさんこもった小説を書けるかもしれない。

実際のところ、いまはめちゃくちゃ元気で「ここ」を離れるパワーが湧いていて、戻ってくるかもしれないな~と、努力って不毛だなって思わされちゃうかもしれないな〜と思いながら、ちょっと前に進んでいるような気持ちを味わえたらいいな~、と懲りずに思っている。

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