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対になる『MIU404』と『アンナチュラル』

今日は『MIU404』3話をみて、これからどんどん行くよ~~というパワーを感じ、テンションが爆上がりしたので、『アンナチュラル』の話を絡めながら、感想を書くことにしました。

なので、その2作の特徴でもある食事シーンにあやかって、自分が友達とナポリタン作って食べたときの写真をチョイス。MIU404の食事シーンいつも楽しみにしている。わたしも友達ともりもりごはんたべたいな〜〜。

というわけで、今回のnoteの中心となる『MIU404』の3話には、『アンナチュラル』に出ていた刑事の毛利・向島コンビが登場している。彼らはこの2つの作品が地続きの世界線にあることを示すキャラクターとなるのだが、別の面でも彼らは2つの作品の間に位置する存在だと思うのだ。

『MIU404』は警察の機動捜査隊を舞台とした作品だ。公式サイトのはじめに、にはこう書いてある。

普段は覆面パトカーで地域をパトロールし、110番通報があれば事件現場に急行、迅速に初動捜査を行う。勤務は24時間制で、次の当番勤務は4日後。初動捜査で事件が解決できない場合は専門の課に捜査を引き継ぎ、継続捜査は行わない。つまり、街中で勃発する各事案に対し、24時間でできうる限り対処するのが彼らの仕事だ。

つまり彼らは、犯罪が起きた際、一番最初に捜査を行う人なのだ。その捜査は、毛利・向島コンビのような刑事の手に引き渡され、ときに2人は法医解剖医たちの務めるUDIラボに死因の究明を依頼する。
事件→機動捜査隊→各捜査課→UDIの流れがあり、毛利・向島コンビは事件の捜査を軸に考えた場合も『MIU404』と『アンナチュラル』の間の存在なのだ。

上記の事件の視点から見ると『アンナチュラル』に出てくる法医解剖医たちは、既に起こってしまった物事と向き合う人々だ。常にそこには起きてしまった死がある。

そんな『アンナチュラル』のメッセージとは、不条理な出来事に見舞われたとき、人はいかにして人生を不条理に支配されずに生きるか、だと思っている。

例えば、過去の事件の復讐に囚われ、犯人を殺そうと思っている中堂に対して、主人公であるミコトはこう言う。

私が嫌なんです。見たくないんです。不条理な事件に巻き込まれた人間が、自分の人生を手放して同じように不条理なことをしてしまったら負けなんじゃないですか?
中堂さんが負けるのなんて見たくないんです。私を、絶望させないでください。

この言葉を発したミコト自身も自分の不条理な過去と戦っていて、最終話ではそれに負けない彼女の姿が正面から描かれる。

しかし彼らが不条理と戦い、それらに負けないためには、UDIラボの同僚や家族の存在が必要であることも描かれている。彼ら自身の力のみで、物事が好転するわけではない。
最終話には、ミコトや中堂とは対照的な、自分の不条理な過去に人生をめちゃくちゃにされてしまった犯人が出てくるのだが、結局彼は救われずに物語は幕を閉じてしまう。
彼はミコトからこのような事を言われる。

被告人は今もなお、母親の幻影に苦しめられています。30歳になってなお、子どもの頃のまんまなんです。誰も彼を救えなかった。あなたも、自分自身を救えなかった。あなたの孤独に心から同情します。

不条理から救われなかった孤独な彼はどうすればよかったのか、どうやったら救われたのか。『アンナチュラル』を観終わったとき、わたしの心には、この救われなかった犯人が引っかかっていた。

不条理な出来事をきっかけに、犯罪を犯してしまうという負のループの中で、UDIは最も重たい死の近くにいるし、彼らが事件と向き合う時既にそこには死者が出ている。ことはすでに起こってしまっている。
しかし『MIU404』の機捜は事件が起きたその瞬間に、死が起きる前に、その事件と向き合うポジションにいる。彼らはことの渦中にいるのだ。彼らの仕事には無駄足が多く発生するというのも、それをよく表しているだろう(よく陣馬さんが九重に説明しているやつ)。

実際1話では、それが宣言されていると思う。
中盤、綾野剛演じる伊吹は、最初の24時間の初動捜査しか出来ない機捜(機動捜査隊)のシステムに対して、逮捕できないのぉ??、と不満を漏らす。しかし終盤には「誰かが最悪の事態になる前に止めてあげることができる、超いい仕事じゃん」というのである。
つまりきっと、『アンナチュラル』で救われなったような人たちが救われるかもしれない話なんじゃないか、とわたしは思っているのだ。死が訪れる前に、止める物語なのかも、と。

しかし2話は「息子が自殺する前に戻れるなら」という両親と、「罪を犯す前に戻りたい」という犯人の起きてしまったことに対する後悔が、滲みだす回だった。彼らは既に1度起こしてしまっている。
だが、お互いがお互いを救うかもしれない可能性を残して2話は終わるし、最後に志摩は伊吹に謝る。ことが起きる前に、謝るのだ。

そして、堂々の3話に突入する。
3話は「子ども」が主題に据えられており、最悪の事態を未然に防ぐことが、より意識されることになる。
彼らが犯してしまった犯罪に対してどう向き合うべきなのかという事を、隊長である桔梗は並々ならぬ思いをこめて語る。その向き合い方によって、将来の犯罪率が左右されるのだと。救うことの重要性が語られる。
しかし、機捜の新人九重は「自己責任」であることを強調したり、未成年だからといって罰する手を弱める必要はないのだ、と主張する。

志摩は、ピタゴラスイッチを例に九重の発言に疑問を呈す。
「障害物をよけたりしながら、なにかのスイッチで犯罪を犯してしまう」「ひとによって障害物の数は違う。正しい道に戻れる人もいれば取り返しがつかなくなる人もいる」「誰と出会うか出会わないか。この人の行く先を変えるスイッチはなにか。そのときが来るまで誰にもわからない」と。

『アンナチュラル』でも、同様に誰もが罪を犯す可能性は示されている。そして、ピタゴラスイッチの障害物の数や場所という些細な違いが、ミコトと、最終話の犯人を隔てた違いでもあるだろう。
3話のタイトル「分岐点」は、罪を犯すか、犯さないか、つまり不条理に飲み込まれるか、負けないでいられるか、の分岐点だ。

陸上部の生徒たちは「分岐点」の前に立たされ、警察から逃げた成川はほんの少しの違いで、彼の同級生とは違う道へと弾かれ、菅田将暉演ずる「スイッチ」となり得るであろう男と出会ってしまう。

あらすじを見る限り、4話のメインに据えられているのは3話の続きではなさそうなので(あくまで1話完結型のスタイルは維持される)、成川の話はきっと『MIU404』を貫く大きな物語の1つになるのだと思う。

野木さん脚本の特別ドラマ『フェイクニュース』のような、インターネットによる行き過ぎた社会的制裁の問題を引き起こしそうなナウチューバーの特派員RECやそれと共振しかねない九重の自己責任論。毎話活躍する防犯カメラの存在、女性で上の役職に立つ桔梗など、他にもたくさんのテーマがあるので、それぞれが絡み合っていくのを楽しみにしたい。

対になると、タイトルにつけつつ、アンナチュラルも救う物語なんだよな……とも思うので、アンナチュラル見返して考え直したくなった。
noteいくつかかいてるのでもしよかったら読んでください。

アンナチュラル3話
↑アンナチュラル、一筋縄ではいかないすげえええ、という気持ちの記事
アンナチュラル4話
↑誰でも罪を犯す可能性があるが、かたられてたと思うというnote
アンナチュラル7話(ドラマ全体の感想)
↑アンナチュラルって罪をどう裁くかって話じゃない?というnote
アンナチュラル最終回
↑アンナチュラルと不条理との戦いについて
ジョーカーを観る前のあれこれと観た後のあれこれ
↑不条理の負の連鎖・救われなかった人について書いているnote

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