見出し画像

書き込まれた本と、共有の記憶

「自由に書き込んでいいよ」と言って、 友人に本を貸したことがある。

久しぶりに岡本太郎の本『自分の中に毒を持て』をひらくと、鉛筆で書き込まれた跡があった。記憶を辿ると、たぶん大学生活最後の2015年だと思う。2人にこの本を貸して、書き込んでもらったのだ。

大学生活が残りわずかになったその頃、大学生っぽいことをやっておきたいから本を読もう、という適当な動機で図書館に通っていた。最初こそ形から入ったものの、おもしろい本に出会うと芋づる式に他の本も読みたくなり、小説や人文書を中心に、3日に一冊のペースで読んでいた。

本を読んでいろいろな考え方を知るほど、あ、正解って必ずしもひとつだけじゃないんだ、ということが体感的にわかってきて、こうするべきだという思い込みがどんどん減った。そんな気持ちが病みつきになり、ページをめくる手がどんどんすすんだ。
短いかもしれないけど、人生の中でそういう期間があって良かったなと思う。

友人が私の部屋にあそびに来たある日。興味深そうに本棚を眺めながら、「何冊か借りてもいい?」と言った。そして、3冊ほどを手に取った中に、岡本太郎の本があった。

「自由に書き込んでいいよ」

ふと、口からそんな言葉が出たのは、汚しても大丈夫だよ、ということを伝えたかったのと、それ以上に、彼女はこの本を読んでどんな風に感じるのかを知りたかったからだ。

数ヶ月ほど経って本が返ってきた時に、彼女らしい文字と線が書き込まれているのを見て、もう私の本ではなく、「私たち」の本になったんだな、と嬉しく思った。その感覚をもっと味わいたく、同じようにもう1人にも貸した。

そうして、一冊の本に対して、私を入れると3人が書き込んだことになる。星マークをつけていたり、丸で囲んだり、二重線を引いたり、コメントを入れたりと、みんな結構自由だ。

1ページ目から岡本太郎節がすごい

その時から8年。ぱらぱらと鉛筆で書き込まれたページを見ていると、読んでいる人たちがすぐ近くにいるような気がしてハッとする。

同じ本を読み、何かを感じ、考えたことが、こうやって残っている。同じようなことをやって、共有していた過去がたしかにある。
写真を見返すよりも、よっぽどなにかを共にしている感覚があり、どことなく恥ずかしいようなくすぐったい気持ちが出てきて、じっくりと本を読み返すことはできなかった。

私の本ではなく、「私たち」の本。

間違いなく、本を通じてそれぞれの感じたことを共有し合えていると(当時もだけど今もまた)思う。そんな風に、誰かとなにかを共有している、と感じられることって、どれぐらいあるだろう。

SNSや一緒にご飯を食べたぐらいで、心から共有していると言えないのは、私がひねくれた人間だからなのだろうか。じゃあ、なにかを一緒につくったり、生活を共にしたり、長い時間を過ごすことが必要なんだろうか。
いや。そうじゃない気もする。

北海道・美瑛で、雄大な景色に圧倒されたあの瞬間。遥かに続く丘を前にして、言葉が出なくなったあの感覚は、一緒にいた友人たちと、たしかに、なにかを「共有した」と思う。

大学の授業での会話が盛り上がり、授業後もそのまま古い教室に残っていろんなことを真剣に話したあの時間。その記憶も、彼らとなにかを「共有した」と言える気がする。

私にとってなにかを共有するという感覚は、単に時間や空間を共にすることではないらしい。
身体が記憶するような深い感覚を、まずは私自身が感じられているかどうか。そして、その感覚を共有し合えると思える人がいるかどうか。それでやっと、本当の意味で心からなにかを共有した、と思えるのかもしれない。

雑なまとめになってしまうけど、本の書き込みを眺めながら思うのは、やっぱり手書きの文字はいいなということでした。✏️📚

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?