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上皇・上皇后はどのようにして葬られるのか―現場の「最前線」へ 東京都八王子市

はじめに―上皇による「ご改革」

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武蔵陵墓地:総門

 大正天皇多摩陵は、明治天皇伏見桃山陵が京都伏見に造営されたのに対して、東京西部に造られた。現在の八王子市である。

 この地は実に美しい。東東京エリアの近未来や喧騒からは遠く離れていて、それらの「音」とは正反対にある多摩川のせせらぎや、草木より生まれた緑色の風を心地よく感じられる自然豊かな場所だ。「多摩の横山」を背後に据えたタワーマンションも、武蔵小杉やお台場で見るそれとは全く異なる印象を与えてくれる。自然の中の人工物に、これほどの好感を抱いたことはない。

 大正天皇の多摩陵が造営されて以来、この地には歴代天皇・皇后の陵が造営されてきた。歴代とはいっても、大正・昭和の各天皇とその皇后を合わせた4人に過ぎないのではあるが、この場所が「武蔵陵墓地」と称されている点をみれば、これからも未来の天皇と皇后を専用にした陵地となっていくことが理解できよう。

 そのように考えたとき、次にこの場所に葬送されるのは誰であろうか。しっかりと順番通りにいけば、それは現在の上皇・上皇后の二人である。それも遠くない未来に、二人は多摩の土となり、永久の眠りにつくのである。これは揺るぎのない事実だ。

 ところで、6年ほど前にその上皇・上皇后(当時は天皇・皇后)の2人から重大なる言葉が発せられた。

 それは一般人にとっても縁がないわけではない、上皇と上皇后なりの「終活」に関するものだった。大葬の簡略化、陵の小規模化、土葬から火葬への変更……。様々な「ご改革」とも称されるべきものが、当時の天皇・皇后から「ご意向」として発せられたのである。

 そのおよそ5年後に天皇位を退いた明仁天皇は、いまや「上皇」となったのであるが、まさにこれは、治世中に成した最後の業ということになろう。上皇の進歩的な姿勢は稀に目を見張るものがあるが、その中でも特に重要な一件が、武蔵陵墓地と自身の葬送方法の「ご改革」にあると感じる。

 そのような意向を受けて宮内庁は「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」として一連の議論をまとめた書類を、インターネット上で公開にあたっている。

 今回はそれらの資料を確認し、私自身が実際に武蔵陵墓地をフィールドワークして、上皇・上皇后が葬られる陵、すなわち「現場の最前線」に迫るものである。上皇と上皇后は既に年を重ねつつある。いつ「その時」が訪れるかわからない昨今になったからには、国民一人一人が皇室のお墓事情に目を向ける必要があるだろう。

 次章からが本編となる。まずは上皇による火葬の意向とそれを受けた宮内庁の初期の姿勢を追っていく。

① 上皇が示した2つの意向―宮内庁の初期姿勢

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武蔵陵墓地:参道

 上皇(当時は天皇であるが便宜上上皇と記す)は年間にスケジュールされている武蔵陵墓地への参拝を通して、皇室の葬儀や陵に関する自らの意向を上皇后に述べていたという。それが明るみに出たのが、平成25年の秋頃であった。宮内庁により公表された上皇の意向を大まかにまとめると、以下のようになる。

つまり、

・皇室葬儀が国民に与える影響を最小限に抑える
・武蔵陵墓地の逼迫を鑑みての陵の縮小

の二点に要約される。上皇は葬儀に伴う多数の皇室行事によって、国民生活が不便に陥ることを不安視していた。これには昭和天皇の崩御にともない行なわれた一連の儀式が、国民に「自粛」という雰囲気を強制させた歴史が影響しているものとみられる。

 そして武蔵陵墓地への現実的な視点も存在した。事実、現状の武蔵陵墓地の土地はかなり逼迫してきているという。東京では失われつつある、自然溢れる多摩山地を切り開いて造営されていく陵であるため、樹木の伐採などを最小限に抑えたいという意向も感じられる。

 そのような上皇の意向は、先述したように、武蔵陵墓地の陵への参拝のたびに養われていた。「大元帥天皇」と「象徴天皇」を半分ずつ生きた昭和天皇を父にもつ上皇であるが、それも多分に影響していることだろう。上皇は国民の内に存在する完全なる「象徴天皇」として即位した。上皇の試行錯誤の果てが窺える「ご意向」といえよう。

 宮内庁はそのような上皇の意向を受けて、天皇の火葬の先例や武蔵陵墓地の再調査などに踏み切り、上皇の意向に沿う決定を下している。そして一年余りにわたって議論や調査が繰り広げられた。ここで重要なのは、内閣の助言と承認によって開催される国事行為の「大喪の礼」は、調査や議論の対象にならなかった点である。あくまで宮内庁としては、皇室行事である「葬場殿の儀」や「陵所の儀」、そして陵墓の規模などの検討にとどまっている。

 こういった国家行事と皇室行事を分ける姿勢は非常に興味深く、これからの象徴天皇制を考えるうえでも、十分に参考にされるべき方法であろう。

 次に上皇の意向で特に注目を集めた火葬について追究していきたい。

② 皇室の火葬事情―土葬処理の負担軽減へ

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深草北陵(京都市伏見区):12人の天皇の遺骨が納められているという

 火葬それ自体が、皇室の伝統に沿わないということはない。歴代天皇は古代から中世の間で多くが荼毘に付されており、同時に分骨される例もないわけではなかった。

 ところが、宮内庁も指摘するように、江戸時代初めの後光明天皇から昭和天皇までの歴代天皇は、泉涌寺または武蔵陵墓地において土葬されてきたことも事実である。

泉涌寺については上記を参考 

 それゆえに長く続いてきた土葬を廃止して、天皇を火葬するということは、大きな転換であることに変わりはない。

 ところで、上皇の「二つの意向」をもう一度振り返りたい。上皇は国民生活への影響を最小限に抑えることを何よりも希望している。

 皇室の土葬は「殯宮(ひんきゅう)」と呼ばれる長い通夜期間がある。またそれを行なうために棺を幾重にも重ねて遺体を納めるので、人手や費用も高くつく。遺体を火葬せずに「残す」ということには、様々な費用や労力が費やされるのである。そのため、国民習慣に根付いている火葬を取り入れることが、皇室への敷居を高くさせない方法にも作用して、費用の削減にもつながる。そのような理由から「簡略化」と題して、火葬の意向が尊重されたのである。

 ちなみにではあるが、天皇と皇后以外の皇族の火葬は、新宿の落合火葬場で行なわれている。同火葬場の火葬炉はランク分けされており、皇族はその最上級で火葬される。最近では2016年に薨去した三笠宮崇仁親王が、ここ落合火葬場で荼毘に付された。

 では、上皇も新宿の一角にある私営の火葬場で荼毘にされるのであろうか。さすがにそれはないようである。上皇の亡骸は武蔵陵墓地に新たに造営される火葬炉で火葬されるようだ。

 宮内庁によれば、この火葬炉は一代限りの使用に留まり、二度目の使用はないという。火葬および火葬施設に使用された資材は、「適宜な処理」を図るものとされている。また、周辺環境にも配慮した設計になるようだ。多摩山地の深林のなかで火を用いるわけだから、火の用心には徹底した造りになるであろう。

 つまり、上皇を火葬するための施設は、武蔵陵墓地内に造営され、施設はその都度新しいものが造営されていく。「陵」と称される墓を有することができるのは天皇・上皇・皇后・皇太后・太皇太后のみであるが、その身位に準じた火葬施設の使用が図られるようである。

 では火葬されるタイミングはいつであろうか。我々の葬儀にも通夜、告別式、四十九日などの儀式が連なるが、皇室の場合はその量と期間が極めて長い。つぎに、上皇の崩御から埋葬や追善供養に至るまでの儀式の流れを確認していこう。

③ 火葬までの流れ―武蔵陵墓地で火葬

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 大正天皇:多摩陵

 まず、上皇が崩御すれば、直ちに宮内庁長官の記者会見、および内閣総理大臣の謹話が発せられる。しかし、ここではそのような報道関連の周辺は割愛する。

 主に宮中で何が起こるのか、ということであるが、第一に上皇の亡骸は「櫬殿(しんでん)」に安置される。宮内庁の「御火葬導入に伴う天皇御喪儀の構成」資料を見れば、そのように解釈されるが、おそらくその前には、我々が一般的にまず故人を布団に寝かせるように、宮中でも同様の処置が取られることと思われる。続いてその数日後に、「お舟入」と呼ばれる納棺儀礼が行なわれる。この霊柩を祭る場所が「櫬殿」にあたる。

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「御火葬導入に伴う天皇御喪儀の構成」より

 この期間に「殯宮」が宮殿の正殿・松の間に造営されていく。昭和天皇大喪儀においても、宮殿のうち格式が最も高く設定されている正殿松の間に殯宮が造営されたので、今回もそれが踏襲されるであろう。そして、本来であれば、大喪儀当日まで殯宮に霊柩が安置され毎日祭祀が行なわれるが、上皇の場合は殯宮の終わりのタイミングで、火葬に付されることが予定されている。

 殯宮に祀られた霊柩は、火葬当日になると武蔵陵墓地に移動して、現地で火葬される。そこでは比較的小規模な葬送儀礼が開催されることもわかっている。わかりやすくいえば、火葬炉前にて行われる読経のような儀式が、ここでは皇室の神道式で催される。

 上皇の遺骨を納めた「御霊櫃(ごれいひつ)」はその後「奉安宮」に安置されて、葬場殿の儀および陵所の儀当日を待つ。ここでいう御霊櫃は、一般の骨壺と解釈されて問題ない。

 つまり、一連の儀式から読み取れることは、儀式の中心である大喪の礼や皇室行事の葬場殿の儀の時点では、上皇は既に火葬された状態であって、祭祀の対象は上皇の遺骨が納められた「御霊櫃」になるのである。

 そして、昭和天皇大喪儀の際には、霊柩を納めた自動車(これを霊轜と言う)が、長い列を成して八王子の武蔵陵墓地に築かれた武蔵野陵まで向かったが、上皇の場合、自動車の中には「御霊櫃」が安置されると推測される。

 まとめると、上皇の火葬は殯宮期間の最後に実行されることがわかる。そして、本来ならさらに長期間にわたって殯宮が置かれるが、火葬の実施により殯宮の期間は今までのものと比較して短期間になる。火葬後は奉安宮に御霊櫃が安置されて祭祀が継続されながら、大喪の礼並びに斂葬当日を待つ。

 したがって、上皇の葬儀は、国民の目に触れることが多い大喪の礼や、皇室行事である葬場殿の儀の時点では、すでに火葬された状態にあって、祭祀の対象は上皇の遺骨が納められた、一般の骨壺にあたる「御霊櫃」となるのだ。我々の葬儀では、告別式を火葬の前後どちらに開催するかという分岐があるが(筆者の母方の実家は先に告別式、父方の実家は先に火葬であった)、上皇の場合は火葬後に告別式を催すものと考えるとわかりやすい。しかし、皇室の葬儀は追善供養も含めて長期にわたるため、一概に我々のそれと同質性を有すとはいえない点には留意しておきたい。

 昭和天皇の大喪儀では、確実に天皇の「玉体」が、棺という長方形の物体に代わって可視化されていたのに対し、上皇の大喪儀では、御霊櫃という小さな正方形のものとなる。これを国民が見つめたときに、天皇葬儀の重大なる転換が強く意識されるのではないだろうか。そして、通常よりも短い殯宮の期間が明け、宮中という秘められた空間からようやく上皇の亡骸が現れたと思ったら、そのまま多摩の山に煙となって消えてしまうのである。我々が上皇の死を認識したと思ったら、上皇はすでに小さな箱の中に収まっているのである。

 つぎに、武蔵陵墓地の現在と実際に造営される陵の規模について追っていきたい。

④ 陵の規模と現在―従来の半分のサイズに

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昭和天皇:武蔵野陵

 上皇は、今後の葬儀のあり方について「武蔵陵墓地の逼迫を鑑みて陵の縮小」の意向を表した。これには文字通り、武蔵陵墓地全体の逼迫した現状という現実的な視線が含まれている。

 近代に整備された「皇室陵墓令」は、天皇と三后の陵や皇族の墓の造営に関する様々な事項が定められた法令である。戦後にそれを含む「皇室令」は廃止されたが、陵墓令を含めて、その多くが現在でも慣例的に使用されている。

 「皇室陵墓令」にしたがって昭和天皇と香淳皇后の陵も造営されたのだが、その規模は戦前に造営された大正天皇陵と、戦後間近に造営された貞明皇后陵とほとんど同規模であった。そのために陵の規模は戦前戦後を通して変更がなく、墳丘の佇まいや高度に多少の変化があるのみとなった。

 ちなみに、大正天皇陵はやや高めの位置にあるが、昭和天皇陵は仰ぎ見る必要のない、比較的に緩やかな丘に円墳が築かれている。しかし、繰り返すように、面積は全く大正天皇陵と同規模である。

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上皇・上皇后陵の造営現場:武蔵陵墓地の一角に存在

 今回、宮内庁は上皇の意向を受けて、陵の大幅な規模の縮小を決定した。それは前提として、上皇と上皇后の陵が完全に隣り合わせに造営されることを念頭に置いたものであった。すなわち、従来の武蔵陵墓地における天皇と皇后の陵は、隣り合わせになることはあったが、必ず樹木の生い茂る緑地を挟んでいた。しかし、今回の上皇と上皇后の陵は、そのような緑地を設けることなく、同じ敷地に2つの円墳が築かれる予定となっている。つまり、同敷地内に2つの陵が存在することとなる。

 その規模については、上皇の縮小の意向に忠実に沿ったものであった。大正天皇と貞明皇后の陵を合わせた規模よりも51%の縮小がなされて、昭和天皇と香淳皇后の合わせた陵よりも58%もの縮小が実行される予定のようだ。従来の武蔵陵墓地における天皇皇后陵を合わせた規模の半分ほどのサイズが、上皇と上皇后の陵の敷地になるのである。

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天皇・皇后陵イメージ図」より

 ところが、図を見てもわかるように、上皇と上皇后の陵は同一敷地内にあるとはいっても、合葬されるわけではない。鳥居は一つずつそれぞれの円墳の前に設置されて、拝所も別々に設けられる。

 しかし、このような陵は歴代の天皇皇后陵を見ても、類例が少ない事例である。天皇同士の陵が横に並ぶことはあっても、夫婦が隣同士になる例は極めて珍しいのではないだろうか。上皇と上皇后の夫婦仲が、参拝者に目視で確認することのできる、穏やかな表情を浮かべた陵が造営されるのであろう。

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両御陵用に必要な区域の面積」より

 上皇と上皇后の陵は、大正天皇陵の西側に造営される。現在、実際に武蔵陵墓地に行けば、工事の様子を伺うことができる。今更いうまでもないが、すでに二人の陵は造営の段階に入っているのである。

 削られた山には、黄土色がむき出しになった部分に潤いを与えるようにして、植樹がなされている。やがては二人の陵を覆う鎮守の森として、武蔵陵墓地の緑の一部になるのであろう。また、通行止めではあったが、将来の参道らしき道が、上皇と上皇后の陵が予定されている土地の前方を通過して、奥まで整備されていたように見えた。当今の天皇と皇后の陵の予定地であろうか。

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上皇・上皇后陵予定地:奥に道が続いている

 まとめよう。上皇と上皇后の陵が従来のように東京都八王子市に造営されることは、確認した通りである。その陵は大正天皇以来の天皇皇后陵から規模は半分に縮小されて、比較的に小規模な円墳が築かれる。陵は隣り合うように造営され、その間に緑地は設けられない。鳥居と拝所は上皇・上皇后の陵それぞれに設置されて、これにより祭祀は別々に行うことが可能となっている。自然との一体化を演出するという点では、多く歴代天皇陵のコンセプトと変わるところはないであろう。

おわりに―上皇の革新性と保守性からみえてくるもの

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明仁上皇 (引用:Wikipedia)

 国王の葬儀というものは、王権を誇示するための最大級の儀式であると考える。これは東西古今の王朝において不変であろう。一人の王の死をどのように演出するかという問題は、君主制国家にとっては非常に重要な課題である。

 上皇の葬儀は、今まで見てきたように「簡略化」と言い表すことができるものだ。陵の規模は大幅に縮小されて、何かと手間のかかる土葬は火葬に転換される。なるほど火葬は決して伝統に反するものではなく、歴代天皇の多くが火葬にされてきた例を見れば、大きな転換とはいえないかもしれない。しかし、今回予定されている火葬は、近代天皇制の確立以降「初」の事例であって、中世以来の火葬となることは明らかだ。これを見て「改革」というは、決して間違った見方ではないと考える。

 そして、陵の規模の縮小を行うという点では、さらにその意味合いが強くなる。そもそも、天皇陵は江戸時代の朝廷への注目の中から徐々に整備がされてきたものだった。今、我々が見つめる多くの歴代天皇陵は、近世から近代にかけて整備された「作られた伝統」ともいえる。近代の天皇権力を増大させるにあたって、過去の列聖を可視化させることが急務だったために、天皇陵は皇室の威厳を示す、格好の手段となったのである。

 そのような流れは、昭和天皇まで続いてきた。廃止された「皇室陵墓令」をそのまま踏襲し、葬儀もその多くが戦前の方法に準拠された。戦後にあたっても、天皇はまさに日本国における権威の最高保持者として、国民の前に葬られた。先述のように、戦後に崩御した昭和天皇の陵も、面積においては大正天皇陵と変わらかった。

 そのような歴史を省みれば省みるほどに、上皇は実に革新的な天皇であったと思える。以上のような皇室における天皇陵の流れに反して、その縮小や簡略化を図ったからだ。同じ象徴天皇であった昭和天皇にも起こし得なかった行動を、上皇は次々に果たしていったように感じる。

 それは、上皇が完全なる「象徴天皇」として君臨し、その道程を歩んできたからだと考える。上皇は父である昭和天皇を一部では否定しながら、現在の制度の中で天皇制のあり方を模索してきた。その集大成が生前退位であったが、それに加えて、今回の記事で追ってきた上皇なりの「終活」に関するものがあったと感じる。

 象徴天皇制下における初代天皇は、間違いなく天皇明仁になるであろう。制度上では昭和天皇にあたるが、未来の先例となるべき行動は、そのほとんどが上皇によってなされてきたといっていい。上皇は31年の治世の中で、象徴天皇のモデルを提示し続けてきた。

 それは一方で、保守派による攻撃を受けかねないものであった。しかしながら、上皇は皇室の革新を続けながら、極めて伝統的な天皇制の維持に努めていると、私は考える。上皇による皇室行事の簡略化の姿勢は、表面上では国民生活への影響を考慮しつつも、他方では皇室の「私的行事」と割り切っている部分があると考えるからである。皇室と国家のある程度の分離は、皇室の自立化を進め、政教分離などの障害を回避できる狙いがある。皇室は必ず国家と運命を共にするというわけではなく、国家の下に置かれた一つの権威としての地位を守っていくのである。

 上皇の行動は間違いなく、国民に寄り添ったものだ。しかし、私には以上のような思惑が存在しているように見えた。明治以来の近代天皇制は国家とともに皇室が運命を共にし、その影響で皇室は断絶の危機に見舞われた。朝廷と幕府という二重王権が一つに集合してしまった結果が、皇室を陥れるものとなったのである。そのような歴史事実を省みたときに、皇室の行事をある程度国家から切り離して「私的行事」とすることは、決して伝統を蔑ろにするというわけではないのではないか。むしろ、皇室の伝統を守る手段になり得るものと考える。

 しかしながら、皇室は常に国民の理解のもとで存在する必要があるだろう。「私的」とはいっても、わがままが通じるわけではない。王は民に推戴されるからこそ王たりうるのであって、民なき王はただ一部の信仰者が崇拝する教祖でしかない。上皇の「ご改革」は未来の先例となって、皇室を保全するための方法となっていくであろう。

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京王高尾駅より武蔵陵墓地をのぞむ

 我々は誰しもがいずれ来たる「死」と対面しなければならない。それは上皇にとっても同じことである。上皇は自らの死を考え、そしてこれからの象徴天皇制を考えていた。陵の縮小や火葬への転換は、伝統を振り切った改革という見方もあるが、皇室のこれからを考えた、極めて保守性の強い一件といえるのである。

 今、私の住むアパートからは武蔵陵墓地の鎮まる多摩の山々が、稜線をはっきりと浮かべながらその姿を晒してくれている。遠くには冠雪した富士山も見える。実に良い場所に住んでいると思う。

 これから、その多摩の山々に秋が降り立つ。武蔵陵墓地の樹木は紅葉を進ませて、陵を一層と華やかに染め上げるだろう。葉がその色を濃く深くするように、皇室のお墓周りや葬儀事情にさらなるの関心が向けられることを、祈ってやまない。


参考文献・ウェブサイト

大角修『天皇家のお葬式』(講談社現代新書、2017)
藤井利章『天皇と御陵を知る事典』(日本文芸社、1990)
井上亮『天皇と葬儀』(新潮選書、2013)
皇室事典編集委員会編『皇室事典 令和版』(角川書店、2019年、426頁〜436頁、所功「大喪の礼と皇族の喪儀」)

・宮内庁「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」各PDF資料(2020年10月16日最終閲覧)

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