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武蔵陵墓地の成立と帝室林野局林業試験場―東日本初の天皇陵誕生に至る過程を追う 東京都八王子市

1 「皇室陵墓令」で定められた陵墓地としての条件

葉山御用邸(神奈川県葉山町)

 大正15年(1926)12月25日。神奈川県の葉山御用邸で大正天皇は崩御した。皇太子裕仁親王以下の男性皇族・王公族はただちに葉山に集結し、一同の見守るなかで同親王の神器承継の儀が執り行われた。「昭和」の始まりである。

 大正天皇は、東宮時代と打って変わって、在世中は病に悩まされた。こうしたなか当時の政府は、かねてよりの懸案であった「皇室陵墓令」の作製を進めていた。「皇室令」のひとつに数えられる同令は、天皇・皇后の葬られる【陵】と、皇族の葬られる【墓】の規則について定めたものである。これは同天皇の崩御より約2ヶ月前の、大正15年10月21日に公布された。

 「皇室陵墓令」には、円墳や上円下方墳といった陵形や陵墓の個別データといえる陵籍・墓籍、陵墓の営建地やその範囲を表す兆域など、陵墓に関する基本事項が記されている。そのなかでも、ここでは陵墓の営建地について言及した一文に注目したい。同令の第21条第1項には以下のようにある。

将来ノ陵墓ヲ営建スヘキ地域ハ、東京府及之ニ隣接スル県ニ在ル御料地内ニ就キ、之ヲ勅定ス。地域ノ変更亦同シ
※ 句読点は筆者による(以下同じ)

『官報』1926年10月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)

 すなわち「皇室陵墓令」において陵墓は、
① 当時の東京府、あるいは同府に隣接する県
② 皇室の御料地内
という、2つの条件を満たした場所に営建されることが定められていた。当時の東京府は現在の東京都の範囲とほぼ同じといってよい。隣接する県は埼玉県・千葉県・神奈川県の3県で、御料地とは皇室の所有する林野等の土地のことである。

 ところで、「皇室陵墓令」の立案に携わった帝室制度調査局(明32〜41)や、次いで担当した皇室令整理委員(明41〜44)の作製による仮案では、陵墓の営建地については「東京府下ニ在ル御料地内」とし、東京府内に限定されていた。帝室制度調査局による「義解」(明治39年上奏)は、東京府内に限る理由として「独管理ニ最便ナルヲ以テナリ」と説明している。

 そもそも、「皇室陵墓令」制定の一目的は「管理と永久保存のために将来陵墓を営建する場所を一定する」ということにあった(外池2008)。つまり、一部の時代でみられるような天皇・皇后陵が各地に散在する状態は、明治39年の時点ですでに否定されていたのである。新たな陵墓地では、主として管理にかかる苦労を省くため、少なくとも二代以上の天皇と皇后の埋葬が前提となっていた。

 ところが、陵墓地をあえて東京府内に限定することには不安の声も上がったようである。その証拠として、皇室令整理委員に次いで担当した帝室制度審議会の第六特別委員会では、東京府外の御料地に陵墓地を設置することについても言及されている。下は、同委員会における富田政章委員と関屋貞三郎委員長とのやりとりである。

富田「第十七条以下ハ、東京付近ト定マルトキハ、永キ将来ニ互リ支障ナキカ」
関屋「東京府及隣接スル県ヲ加ヘタル故、支障ナカルヘシ」

帝室制度審議会・第二回第六特別委員会(大正13年11月26日)/外池昇2008

 こうして正式に公布された「皇室陵墓令」には、「之ニ隣接スル県ニ在ル御料地内」の一文が追加され、東京府に隣接する県の御料地内に対する将来的な陵墓地設置の可能性についても、道が拓かれたのである。

2 新陵墓地をめぐる各紙報道

武蔵家墓地正門

 とはいっても、東京府の隣接県内に陵墓地が設けられることはなかった。新たな陵墓地は、東京府南多摩郡の横山村・浅川村・元八王子村にまたがる御料地内に設置されると決定したためである。大正天皇の崩御より9日後の昭和2年(1927)1月3日、この事実は宮内庁告示第一号をもって世間に公表される。勅定による名称は「武蔵陵墓地」であった。

 一方、これ以前にはすでに大正天皇陵の営建予定地に対する実地調査が始められていた。同天皇の大喪執行にあたって設置された大喪使の総裁・閑院宮戴仁親王が、崩後4日にあたる12月29日に東京府知事らを連れて現地を訪れたのである。さらに同月27日、宮内庁は明治天皇陵と昭憲皇太后陵の営建を担ってきた大林組に、今回も天皇陵の営建を命じた。翌年1月3日には新陵墓地「武蔵陵墓地」の発表と同時に、同陵墓地内における大正天皇陵の具体的な位置も公表されている。

大正天皇多摩陵/陵墓地内の龍ヶ谷戸に営建された

 このように大正天皇崩御直後における一連の展開は、事前に新陵墓地が定められていなければ、とうてい成し得ない動きであったといえよう。実をいえば、大正15年4月24日の枢密院委員会で、東日本初となる新陵墓地が東京府内の御料地に設けられると言及されていた。このとき、一木喜徳郎宮内大臣は「吾々ノ腹ノ中ニテ定メ置クヘキモ、之ヲ予定シ公ニスヘキモノニハ非サルヘシ」と答弁し、具体的場所については明言を避けている。

 しかしながら、この情報はマスコミにリークされたようで、大正15年5月8日の『東京日日新聞』府下版に「浅川村の御料地に将来の御陵墓 由緒ある武蔵野の一角に営建の説漸次有力となる」と題した記事が掲載された。同紙は陵墓地の設置場所について、帝室林野局林野試験場(後述)の接続地という具体的な場所まで報道し、当該地域の有力者であった八王子織物組合会長の小林吉之氏にも話を伺っている。ここで小林は、

吾々がいたづらに憶測をたくましうする事は畏れ多いが、或信ずべき処より伺つた処によれば、高尾山の続き、現在帝室林業試験場の御料地に御決定相成る模様だとの事である。

『東京日日新聞』府下版(大正15年5月8日)/八王子市2012

と述べており、地元では小林氏のいう「信ずべき処」より、陵墓地の新設があらかじめ知らされていたとされる(保坂2016)。

 他方で『東京朝日新聞』も、新陵墓地に関する記事を出している。同紙は大正15年10月23日に「選定された皇室の陵墓地 府下南多摩郡の高台凡そ二十町歩の地に」という題で、帝室林野局林業試験場が「林業試験場地域拡張の名の下」に土地の買収を進めていると報道した。

『東京朝日新聞』(大正15年10月23日)/大正天皇の崩御はこの日より約2ヶ月後のこと

 以上の事実は、武蔵陵墓地の成立過程をみる上で重要な証言といえようが、ひとまずは後述に回した、帝室林野局林野試験場とその事業内容について確認しようと思う。

3 帝室林野局林業試験場の設置とその意味

戦後、林業試験場は国立研究開発法人森林研究・整備機構森林総合研究所多摩森林科学園(東京都八王子市)となった

 帝室林野局は、皇室財産たる御料林の確保および維持管理のため、明治18年(1885)に宮内省内に設置された御料局を前身とする組織である。当局の規模は御料林の増加に応じて拡大し、明治41年の宮内省組織再編で宮内省の省外部局となると、名称が帝室林野管理局に改められた。その後、大正13年の官制中改正により局名が帝室林野局と再び改称され、昭和12年にまた組織再編を経て戦後を迎えた(帝室林野局1934)。GHQによる宮内省組織の縮小要求にともない御料林は国有林に編入されたため、現在では農林水産省外局の林野庁に後継としての姿をみることができる。

 一方、林業試験場とはいかなる施設であったのか。第一次世界大戦後に享受した経済発展の結果、当時の日本では林産の増殖および改良が急務となっていた。こうした雰囲気のなか、土地や気候に即した苗木の栽培や造林樹種の剪定といった実験を行うための施設が構想されていく。そして大正11年(1922)11月、以上の目的の遂行のため、当時の東京府南多摩郡横山村(現八王子市)に、帝室林野管理局傘下の林業試験場が設けられたというわけである(帝室林野局1934)。

 では、この地に設置された意味とは何であったのだろうか。先述のように、日本林業のさらなる振興という面もあっただろう。関東山地の東端に立地した環境は各種林業に関する実験に好都合といえる。

上皇・上皇后陵予定地/現在、関東山地の一部を切り開いて整地が進められている

 しかしこうした疑問は、過去の武蔵陵墓地の土地をめぐる管理担当機関の変遷から理解され得るかもしれない。明治初年、依然ただの山野だったこの土地は内務省の所管となった。続く明治11年には宮内省御陵墓係の管理地となり、同41年には帝室林野管理局の所管に移った。

 ここで注目されるのが、帝室林野管理局による地籍の調査や境界の査定結果が、宮内省の諸陵寮に通達されていた点である(保坂2016)。諸陵寮とは宮内省の内にあって各地に散在する陵墓を管理した機関である。林業試験場は以上のような業務を担当してきた、他でもない帝室林野管理局の下におかれた施設であった。

 つまるところ、武蔵陵墓地の敷地をめぐる一連の動きは、東京府南多摩郡の3村にまたがる御料地を、あらかじめ将来の陵墓地として確保しようと展開したものであり、その過程での林業試験場の設置は、陵墓地確保の動きがより本格化したことを示すものだったのではないだろうか。当時の政府は試験場の設置をもって密かに、東京府内の当該地に新陵墓地を設ける意志を固めていたと考えられる。

 しかしながら、大正11年11月の時点では、後に武蔵陵墓地となる土地は依然として林業試験場の管理する土地、すなわち皇室の御料地ではなく、あくまでも御料地外の接続地に過ぎなかった。つまり、当時における林業試験場の設置は外堀を埋めた状態でしかなかったと思われる。この付近で明確な新陵墓地設置の動きがあらわれるようになるのは、大正15年の「皇室陵墓令」の公布を直前に控える頃まで待たなければならない。

4 御料地の拡大とそれに伴う民墓の改葬

長泉寺山門/元々は現在の武蔵陵墓地の敷地内に所在したが、陵墓地設置に伴い同市長房町に移転(写真はこちらより引用)

 ここで、先述した『東京朝日新聞』の記事に戻りたい。同新聞は、帝室林野局による土地買収に関して「(林業試験場)所長・中村賢一郎氏は、目下林業試験所地域拡張の名の下に前期地域の買収に当っている」とし、具体的な人物名まで引用して報道した。帝室林野局が、大正15年7月に林業試験場と接続する元八王子村の第三区共有地を買収したことは、同村会でも議決されており間違いない(保坂2016)。

 接続する土地といっても、正式な林業試験場の所有地ではなかったため、土地の買収には手間取ったようである。たとえば、当該地には多数の民墓が散在しており、この移転に難儀した。警視庁編『大正天皇御大喪儀記録』によれば、民墓は接続地内に所在した長泉寺(横山村)と東照寺(元八王子村)の墓と民間の私有墓であったが、住民は「醇朴ナル祖先崇拝ノ観念ニ厚」く、「一朝一夕ニシテ之ニ応スルノ模様ナカリシモ」という有様であったという(田中伸尚1988)。八王子署長と同署の衛生主任以下の係員による再三の遺族に対する戸別訪問を経て、ようやく改葬の承諾を得ている。

 ところが、こうした当時の警視庁による説明は事実と合致しない部分もあるという(保坂2016)。元八王子村の第三区共有地売却に関して記す同村役場の庶務関係綴では、共有地内にある墓地の改葬許可が、大正15年11月時点で東京府知事に出願されていた事実を確認することができる。一方で上の『大正天皇御大喪儀記録』は、昭和元年12月29日に初めて墓地改葬の交渉におよび、翌昭和2年1月10日に終了したと説明する。しかし、共有地内の墓地所有者はそれ以前の同15年12月21日に、すでに改葬願を八王子警察署長に提出していた。

 確認しておくと、『大正天皇御大喪儀記録』は警視庁側の記録であって、帝室林野局林野試験場側の記録ではない。警視庁がこうした動きを実際に行なったのかもしれないし、同書でいう村民の厚い祖先崇拝も偽りではないだろう。

 しかし、大正15年12月26日の『東京日日新聞』府下版が「十月中旬から宮内省が買収交渉をはじめ十一月中旬には全部の買収を了し」たと伝えたように、大正天皇の崩御以前から、林野試験場は元八王子村や横山村と協議して墓の移転を進めていた(保坂2016)。つまり、林野試験場による共有地の買収とともに、共有地内の墓の移転問題についても当局を中心に解決されていったのである。

おわりに

武蔵陵墓地参道(東京都道187号 多摩御陵線)/正門まで両脇に欅並木が続く

 以上にみてきたとおり、武蔵陵墓地の成立に関しては、帝室林野局林業試験場の果たした役割が大きかったものといえよう。林業試験場は「皇室陵墓令」の公布以前より東京府南多摩郡の3村地域を注視し、当該地への将来的な陵墓地設置を目指して密かに業務に当たっていたと考えられる。「林野試験場」という名称も、あからさまに天皇の死を連想させない上で効果的であったに違いない。もちろん、単に現地の植生に対する理解にあたっても、林野試験場という組織は不可欠であったとみられる。

 ところで、武蔵陵墓地の成立と帝室林野局林業試験場の関係にも表れているように、筆者は墓とその周辺の自然環境との相関は極めて重要であると考えている。我々は昔も今も変わらず、もとある自然環境に働きかけ、墓を造り、人を埋葬する。もとより墓に限らず、人間による自然への干渉という点は住居等あらゆる物体の造作でも同様といえよう。しかしながら、墓の造営という、生者による死者の「顕彰」は、他の事例とは異なる意味を有し得るのではないだろうか。

 そこでの、人々の自然環境に対する思想展開はいかなる様相を呈していたのか。この点については、とりわけ陵墓につづく参道の両脇を彩った並木の誕生経緯とその存在意義という問題に焦点を当てて、次回に論じてみようと思う。

参考文献・資料

・田中伸尚 1988『大正天皇の大葬』第三書館
・外池昇 2008 「大正十五年「皇室陵墓令」成立の経緯」『史潮』63, pp.106-125
・保坂一房 2016 「武蔵陵墓地多摩陵の造営」八王子市市史編纂委員会『新八王子市 通史編5 近現代(上)』八王子市  所収

・帝室林野局編 1934 『帝室林野局五十年史』帝室林野局(国立国会図書館デジタルコレクション)
・八王子市市史編纂委員会 2012 『新八王子市史 資料編6 近現代2』八王子市

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