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【韓国】 ソウルの「橋」をめぐる歴史と思想

今回の旅の道程(Googleマップに加筆した上で作成)

はじめに

夢の浮橋跡
現在は暗渠化され、橋は残っていない

  江戸時代、現在の京都御所で死去した天皇の遺体は、東山の山麓にある泉涌寺に葬られた。このとき、葬列に従った人々は泉涌寺には来ず、その途中まで随行した。ここで境となった地が、泉涌寺に至る道に架けられた「夢の浮橋」である。橋の名は、人の死の無常のさまが、波に漂う浮橋のような儚さに喩えられたことに由来する。

 平安時代のある頃、朝廷に仕えていた文章博士の三善清行が死去した。訃報を聞いた息子の浄蔵は紀州熊野(和歌山県)から京に馳せ参じ、ちょうど一条のとある橋の上を通過していた葬列に追いつき、父の柩にすがって泣き叫んだ。すると、清行は一時的に息を吹き返し、しばしの間、親子の再会がなされた。それから、この橋は「一条戻橋」と称されるようになった。

一条戻橋

 以上の事例によると、橋は、生者と死者とを分かつある種の境界として認識されていたようである。橋は、この世ならざる空間につながる道であった。つまり、現世で何かしらの境界を創り出そうとしたときに、橋は生まれ得たのであり、必ずしも河川等の障害を越えるためだけに造られたのではない。また、建設当初こそ利便性のためだったとしても、橋は後に人々によって別の意味を付与され得る存在であった。こうした点から、日本人の橋に抱いた思想の一端が窺い知れよう。では、韓国における橋の場合、そこにはいかなる歴史が存在し、いかなる思想が展開されていたのだろうか。

Ⅰ清渓川に架かる橋

清渓川

 清渓川とは、ソウル特別市鍾路区を中心に流れる河川のことである。北方の北漢山や仁王山の渓谷に発源し、市内中心部を西から東に流れて最終的に漢江に合流する。この川は朝鮮王朝の首都・漢城にとって風水思想上、漢江とともに極めて重要視された河川であった。高度経済成長期には高速道路が建設され、しばらく暗渠の状態だったが、2005年に当時のソウル市長だった李明博元大統領により親水性のある都市型河川として新たに整備・復元された。

広通橋

 広通橋は、かつて清渓川に架けられていた橋の一つである。王宮に続く道中に位置し、漢城内部で最も人々が往来した場所にあったため、清渓川では最大の規模を有した橋であった。その起源は太祖李成桂の時代にさかのぼる。当時は土で造られた土橋だったが、洪水被害を受け、3代目の太宗によって強固な石橋に改築された。このとき、太宗が顕にした橋に対する思想が注目される。

 太宗は朝鮮王朝(1392-1910)3代目の国王である。太祖李成桂と神懿王后韓氏の第5子であり、王朝創業の功績は王室第一といってよい。ところが、太宗の働きにもかかわらず、太祖は継妃の神徳王后に愛情を捧げ、異母兄たちを差し置いて彼女との子を王位につけようとしたため、太宗は神懿王后の存在を強く憎んだ。後に太宗は2度もの乱を経て王位継承権の奪還に成功し、兄の2代定宗の後に即位する。このとき、王朝の最高権力者となった太宗が行うべきことは、継母神徳王后に対する復讐であっただろう。

 神徳王后の葬られた貞陵は、太祖の意志により漢城の城壁内部に設けられていた。ところが、古来より生活空間にあたる城壁の内側に陵墓を設けた事例はなく、当時の漢城は古制を重んじる儒教官僚にとって許しがたい状況にあった。また、当該地は王宮に近い都城内での一等地にあたり、王権と距離的にも密接な関係を結びたい官僚にとっては是非とも私邸を構えたい場所であった。そのような中、貞陵の移転が論議されることとなる。当然、反対する者はわずかに過ぎず、貞陵は太宗9年2月に都城外に移転されていった。

かつて貞陵に使われた墓石. 封土を下部で支えた屏風石に当たる部分とみられる

 このわずか一年後のこと。太宗10年に清渓川が洪水に見舞われると、土製の広通橋は流されてしまった。太宗は、より強固な橋を造るために石製の橋に建て替えるよう臣下に提案される。石橋の素材は、ちょうど1年前に郊外に移転した神徳王后の貞陵に使われた墓石が用意された。太宗は憎き継母の陵の墓石を、不特定多数の人々が踏み歩く橋の素材として再利用させたのである。

 かつてより若干位置を上流に移動させているが、現在の広通橋においても旧貞陵に用いられた墓石の一部をみることができる。神徳王后は17世紀に名誉回復され、所在地さえ不明になりかけていた貞陵も王后の品格に合うよう復興された。しかし今なお、太宗の継母に対する強い怨恨の念は広通橋に残存し、今日も多くの人々によって踏み歩かれている。太宗が広通橋に込めた思想は、大都会ソウルの真ん中で、これからも生き続けるであろう。

Ⅱ王宮に架かる橋

景福宮の正殿・勤政殿

 太祖李成桂は高麗最後の王・恭譲王より譲位され、開京で即位した。ところが、開京は前王朝・高麗の都であり、依然として旧王朝の支持勢力が残存していたため、太祖は別の地に新王朝の首都を建設しようとする。その地とは、高麗時代より度々遷都候補地として挙げられていた、現在のソウルこと漢陽(漢城)であった。

 新首都の設計に際しては、王室の祖先を祀る宗廟の設置や王宮の造営を優先した。儒教的礼制に従ったためである。たとえば、王宮の場合、正殿の「勤政殿」や便殿の「思政殿」等の名称は、建国の功臣にして朱子学の信奉者・鄭道伝による命名であった。彼の求めた儒教的君主像が、王宮の諸殿閣にまで投影された事例といえる。朝鮮王朝の正宮・景福宮は、このような王朝初期の雰囲気の中で誕生した。

昌徳宮の正殿・仁政殿
勤政殿と比べてやや小ぶりである

 景福宮の東側にある王宮が、城内での位置から「東闕」とも称された昌徳宮である。これは3代国王太宗による造営であった。ところで、太宗は景福宮設計者の鄭道伝とは対立した人である。上述のように、景福宮を構成する諸殿閣は彼による命名だったため、太宗にとって景福宮は居心地の悪いものだったに違いない。太宗の時代は王権の強化が積極的になされるなど、王朝の基礎が固められた時代であった。昌徳宮はこうした太宗の強いリーダーシップのもと、景福宮に対する離宮として造営が進められた。

 では、景福宮と昌徳宮という、朝鮮王朝を代表する王宮に架かる橋は、王宮という空間においていかなる位置付けにあったのだろうか。ここでも橋をめぐる歴史から、そこに込められた思想について考えてみたい。

 景福宮と昌徳宮の両宮で同様の意図から造られた橋が、永済橋と錦川橋である。これらの橋が王宮に存在する理由に、朝鮮時代に重要視された風水の思想が挙げられる。風水思想では、玄武(北)の方角に発源し、東から西に流れていく水の存在を吉と考えた。実際、朝鮮王朝の五大宮には必ず小さな水路が設けられており、大概、北に発し東から西に流れている。要するに、王宮の前面に対し、風水でいう“良い気”を運ぶよう設けた水路を渡るために架けられた橋が、永済橋と錦川橋であった。

錦川橋
奥が北で手前が南.この水路は後に東へ流れていく

 昌徳宮の錦川橋をみてみると、王宮の北側より流れてきた水路に架かっている様子がたしかに窺える。錦川橋は太宗11年(1411)にかけられた石製の橋で、ソウル最古の石橋と伝わる。橋の名にある「錦」とは美しい錦の水を指す一方、「禁」にも通じ「誰もがむやみに渡れない橋」という意味を表している。国王との謁見に参じた官僚たちは、この橋を渡るまでに世上でのケガレを浄化させる必要があった。橋には多様な動物の姿がみられ、北側には玄武を象徴する亀の彫刻が、欄干の下には疫病神や火魔などの雑鬼を払う鬼面の彫刻が施されており、王宮に進入する者に対して睨みをきかせている。

永済橋

 一方、景福宮の永済橋というと、やはり橋の装飾や周辺には想像上の動物である海駱が確認できる。これは疫病や火魔から王宮を守る意味で設置された。北より伸びてきた水路が西から東に向かって流れる場所に架けられており、錦川橋の場合と同様に風水思想に基づいた配置といえる。

 ところで、永済橋は別の面でも注目される。20世紀末まで、現在の景福宮の地には日本植民地支配の象徴だった朝鮮総督府庁舎が聳え立っていた。当時、総督府庁舎は光化門のすぐ後ろに建設したため、景福宮の一部建築物は取り壊されるか、別の場所に移転を余儀なくされてしまう。このとき、景福宮正殿の勤政殿東側に移されたのが、この永済橋であった。

世宗大王像
光化門広場にたつ

 2001年の興礼門の復元に際し、永済橋は本来の興礼門と勤政門との間の位置にようやく戻されることとなった。この金大中政権期における事業は、盧泰愚政権後に本格化した「日帝残滓清算」の延長として位置付けられ、より具体的には金泳三政権下での旧総督府庁舎の撤去に続く事業といえる。一連の作業によって景福宮一帯の景観は大きく変貌し、李明博政権期には景福宮に続く大通りに光化門広場も誕生した。ここには世宗大王像や李舜臣像が設置されたが、いずれも韓国における国家的英雄である点はいうまでもない。

 景福宮は、儒教と風水の思想に従って建てられた朝鮮王朝の正宮である。しかし、こうした元来の思想は、今では復元事業に託けた「民族史への矜持の回復」という別の思想に変化したと思われる。かつての風水思想の存在は薄れ、現代の景福宮には極めて政治的な雰囲気が漂っている。永済橋は、その過程で日本に歪められた位置から元に戻された建築物として象徴的といえよう。当該事業の是非はともかくも、橋をめぐる韓国人の思想の変遷と考えてみると興味深い。

おわりに

漢江(ハンガン)
ソウルの中心部を流れる大河川

 今まで紹介してきた韓国の橋は、あくまでほんの一部に過ぎない。韓国には、古代から現代まで多種多様な橋が造られた。そもそも、漢江という日本列島にはとうてい存在し得ない巨大な河川が首都ソウルの中心部に流れている以上、橋と韓国人とは切っても切れない関係にあるといってよい。

「橋は異常なものを常のものにかえる。伝承の橋は、この世ならぬもの同士を結びつけてこの世のものにかえる。ロマンチシズムがリアリズムにかわるところに、橋はある。だから、橋は悲しくもある」

山田宗睦「橋の思想」(同『道の思想史(上)』講談社,1975 )より

橋の思想をめぐる歴史学も、思いのほかに奥深そうである。


参考文献/ウェブサイト

・『韓国の古宮建築―景福宮 昌徳宮 昌慶宮 徳壽宮 宗廟』(悦話堂,1988)
・桑野栄治『李成桂―天翔ける海東の龍(世界史リブレット37)』(山川出版社, 2015)
・同上「朝鮮初期の官撰史料にみる王陵」(妹尾達彦編『都市と環境の歴史学[増補版(初版2006)]第3集 特集 東アジアの都城と葬制』中央大学文学部東洋史学研究室, 2015)

경복궁 복원 30일제가 훼손한 '조선의 상징' 되찾다(景福宮復元30年…日帝が毀損した'朝鮮の象徴'を取り戻す」)」(『한국경제』20210624)
이향우천록·해치·거북해학 넘치는 돌짐승 만나러 궁궐로 가자(天祿•獬豸•龜鼈…諧謔あふれる石珍獣 会いに宮闕へ行こう)」(『중앙일보』201911
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「朝鮮王朝実録 専門事典 wiki」
「韓国民族文化大百科事典」
「文化財庁 文化遺産ポータル」

※ 写真は漢江の一枚を除き全て筆者の撮影による

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