短歌二ヶ月の所感
短歌を詠み始めて、二ヶ月近く経った。
まだ日が浅いにも程があるが、見えてきたことがある。「私は何処までいっても私」ということだ。
結論、自分の中にあることしか詠めないのである。自分が体験したことのないことは空想で詠むしかない。想像で補うことしか出来ない。想像もつかない分野に関してはお手上げである。短歌にせよ小説にせよ、文筆は己の中にしかない。
短歌が巧くなりたくて、何冊か入門書を読もうとした。だが元来読書が苦手な私である。すぐに音を上げた。次に、好みの短歌集を読もうとした。これすら駄目だった。すぐに気が散り、飽きてしまうのである。例え好みの歌人であっても。
とにかく「読む」ということに向いていない。ならば数を「詠む」しかなかった。「詠む」、つまり己から何か出力する作業は楽しい。大仰な言い方であるし、もう言い尽くされ擦り切れた言葉であろうが、短歌は人生そのものである。人生にないものは詠めない。無い語彙は使えない。無い経験は活かせない。無い想像は膨らませられない。
短歌が歩んだ人生を反映する鏡であるとしたら、私の人生はしょうもないものなのであるが、それは事実であるから仕方ない。人に敬われるような人生は送っていない。そんな性格もしていない。卑下するつもりではない。本当にそうなのだ。
私はこの二ヶ月、醜い短歌しか生み出せなかった。今後詠み散らす短歌も醜いだろう。だが、醜さの中に美はある。その美を惜しみない労力で探すのが、私の短歌の作り方だ。
たった二ヶ月弱で何を偉そうに、と思うかもしれないが、嘘なく辿り着いた答えがこれだった。また二ヶ月後には違うことを言っているかもしれない。同じことを言っているかもしれない。短歌とは、楽しい。
意味が伝わらずとも、技巧が稚拙であろうとも、楽しんで詠んでいるのだな、と滲み渡ればそれで御の字。
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