「待つ」時間が恋しい
20代の私がいうのもあれだが、最近の世は生き急ぎすぎていると思う。
LINEですぐに返信、Amazonプライムで即日配送、旅行計画は失敗しないよう事前にググって立てておく。
挙げたらキリがないが、便利なものが発明されていく中でやりたいことができるようになり、次は効率を求めるフェーズになっている。
という私自身も自他共に認める効率女で、仕事は慣れたらすぐに無駄な部分を省こうとするし、なにかを待つ時間を極力作らないように1日のスケジュールを立てるタイプだ。
ふと、十数年前の自分を思い返すことがある。
当時好きな子がいて、そのときはガラケーの時代だったのでその子とメアドを交換してやり取りをしていた。
メールが届くと、ケータイ表面についている小さい画面に「~メールが届きました!~」みたいな通知が来る。
そのたびに胸を躍らせて送信者を確認するのだ。
「既読」「未読無視」のような概念がない中で、相手からの連絡を待っている時間が純粋に楽しかった。
親世代にケータイがなかった時代の連絡方法を聞けば、「家電(いえでん)」「公衆電話」「手紙」の3つが出てくる。
じゃあ駅で人を待つとき、電車に長時間乗るときは何してたの?と聞いたら、「んー…何もしてなかったよ、ただぼーっとしてた。それか本読んでた。」と母親は答えた。
家電も公衆電話も相手とタイミングが合わないと連絡が取れないし、手紙はいくら速達であっても届くまで1日はかかる。
今のこの時代、私たちの世代からすれば想像もつかないが、当時はみなそれが当たり前で不自由なく生活できていたことは間違いない。
良くも悪くも、いまは便利で効率を上げるものが生活に溶け込みすぎている。
生活しやすくなったのは事実だが、世の中全体の効率が上がった分「待つ時間」「何もしない時間」を悪だと考える人も確実に増えたと思う。
私もそのうちのひとりだったが、常に、無意識に効率を求めていることに気づいたとき、同時にどこか息が詰まって疲れてしまっている自分にも気づいた。
世の中の流れに適応していくのは自然なことだけれど、新しく先進的なものが必ずしも人間にとって良いとは限らない。
元は動物を狩り、本能的に生きていた私たち人類。
文明に頼り切らず、もう少し、ゆっくりと、純粋に時間を楽しんで生きてもいいのではないか。
私に限らず同じような気持ちを抱えている人は少なくないはずだ。
それを表しているのが昨今のレトロブームだと思う。
プロフィールにも書いてある通り、私はフィルムカメラが好きだ。
写真の質感はもちろん、それ以上にフィルムを使い切って現像しにいく、という行為に価値がある気がしている。
使い切るのを、現像するのを待たなければ、見れない。
その「待つ」時間、不便さがあっても惹かれてしまうのはなぜだろう。
フィルムカメラに限らず、レトロなもの・場所に注目が集まっているのは単にデザインがかわいいとか雰囲気がいいだけでなく、その時代に対しての憧れや羨望も含まれているのだろう。
先人たちが未来のために絞った知恵が、過去への憧憬のきっかけになっているのは何とも皮肉な話だが、たまには無駄な時間、待つ時間を自分で作りながら享受できるものは享受していこうと思う筆者なのであった。
みなさん、この週末は家でお酒でも飲みながらぼーーーーっと過ごしましょう。
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