タロットあたるけど、ところでどうすればいいの問題
小学校の時の夢は「30歳になる」ことと「社長になる」ことでした。
*8/28まで更新していきます
30歳になりたかったのは、つらい状況を脱出して大人になれば多少ましになるだろうと考えていたからでした。
「社長になること」は前向きな「社長になりたいエネルギー」ではなくなんとなく自分は人とうまくやっていくことができないことがわかっていたのと、エゴが変形成長したプライドだと思います。
こんちくしょうエネルギーです。
こんちくしょうエネルギーは瞬間的には推進力になります。
恐ろしいことに私は瞬間的なエネルギーを長い間、自分の推進力にしてきました。
結果、心をやみました。うらみつらみが原動力になっているからです。そらそうです、ギア3を常につかっていたら負荷がかかります。
中流の高校にはいって12時間勉強しないといけないと言われれば12時間勉強していました。帯状疱疹というストレス性の発疹と抜け毛に悩まされながらがんばりました。結果的に志望校には入れませんでした。
浪人が決定し、全世界が黒い世界につつまれているころ、高校の時私の前の席に座っていたⅠ君が同志社大学に受かって楽しく学生生活をおくっていることを聞きました。
「えっ、Ⅰ君でもうかるの?。おれも受けよ」
と2年目のセンター試験でまたもや失敗した私は方向転換します。
一日4時間集中しました。12時間なんて集中力がもちゃしません。
結果的に受かりました。ここで学んだのは、わけのわからない人の言うことは聞かないほうがいいということと、できると想像できないことはできないということです。できるとおもえばできるということです。
「Ⅰ君でも受かるくらいだったらオレも受かるな」
とおもったことが成功の要因でした。けして12時間の勉強の成果ではありません。そのあと、うらみのエネルギーの効果?でへんな女につかまってしまいます。詳細こちら
ばら色になるはずの大学生活はグレーな生活になってしまいました。
黒→グレーにはなっています。
さて、無事?卒業して入社した会社は入社前に潰れてしまします。
そして、大学4年の時に妊娠が発覚し私の人生はわりとツんでしまします。
詳細はこちら
それでも6年たったころには小学校の時の夢「30歳になる」を達成しました。
30歳の時は幸せとはかけ離れていましたが、「風水」と「斎藤一人」さんにであって会社の業績はイケイケでした。
北の方位がよいといえば300メートルだけの謎引っ越しをしたり、西がよいといえばスリランカに石(パワーストーン)を掘りに行ったりしていました。外資系(つぶれた会社が吸収された)だったので私の性格とあっていたのかもしれません。
年収は1000万をこえ、会社の権力者である専務の目にとまります。
移動先を打診され会社で1番大きい営業所の所長となりました。
が、しかしこの営業所がくせものでした。2大巨頭がいがみあっていて、1人は愛人を連れて出社(巨頭の部下です)しもう一人は私に情報を徹底的に隠します。
あー、めんどくさいと思ってしまった私はやる気をなくしました。そして勘違いしました。朝の会議をボイコットし、上司にもつれない態度をし最終的には半沢直樹ばりに調査をされはじめました。
身から出たさびで北海道に転勤になりました。
半沢直樹でいうところの証券会社勤務です。ひどいところで、社内検査もDランクだったため(前任はにげた)監査対策、検査対策は半沢直樹の前シリーズの感じでした。
もういやだ。
次女が小学校にあがるタイミングで会社をやめることにしました。
さて、会社を辞める前にタロット占いをしてもらいました。
「タワーのカード」がでてきました。
破壊、崩壊、積み上げたものが崩れるカードです。
まさにそんなことが引っ越し先でおこります。
引っ越した先は滋賀県。前任地でのんびりしたところが気に入りました。
その滋賀県で半年無職でいることを決めます。
雇用保険をもらって過ごすという貧乏根性からです。
*前年の年収が高かったのですべてパーになりました。
あるとき当時の嫁が、せっかく会社やめたんだから四国のお参りしてきたらと言い出します。「いいな」と思ったんですがさすがに唐突すぎます。
あるときポストを見てみると請求書の山。どうやら借金をしているようです。問い詰めたところ、600万ほど借金をしているようです。
四国にお参りがきいてあきれます。
「なるほど、タロットあたった」
と言ってる場合ではありません。昨年北海道で買った4WDのセレナを売り固定費を減らしていきます。移動手段が歩きになりました。専業主婦を貫いていた嫁を働きに出します。
そんなある日、嫁あてに警察がきました。罪状は詐欺罪だそうです。
ねぇ、どうすりゃいいの?
***続きです***
嫁さんの借金が発覚しました。600万です。
*サラリーマンをやめてキャンプ場を作るまで(幼少期~中年)の続きです。
私はそこで働かない決断をしました。半年寝て暮らしました。
頭がおかしいです。じりじりとした時間が過ぎていきます。
そんななか娘と息子をプールにれていったかえりにチェーン店のうどん屋さんに寄りました。ものすごい雷と雨の日でした。
店内で空揚げを分けて食べている子供を見ると泣けてきました。
いまでもこのころの子供の写真をみると泣けます。
すまんなぁホントに。へんな親で。
そんなことで、職に就くことに決まました。
しかし日本のそこそこの企業は身元調査をします。借金の有無、過去の罪etc。私名義のカードで借金をしていたのでわたしがブラックです。
敗者には日本は厳しいです。
しかたなく前職がらみの代理店をしてみましたが、まったくだめでした。
本気ではないうえに、プライドもあってなんだかぐだぐだです。
しょせん会社の看板でくってた人間です。わかっていましたがつらい現実です。
とっくにない資金をはたいて、営業先のお風呂で天井を見上げながらものすごい不安に襲われました。
しばらくして、私は百貨店で警備員になりました。
コンビニのバイト雑誌で目についたからです。
派遣での勤務なので、おそらく身元調査はしていません。
ここでわたしは会社の看板に頼らない人になりたいと思いました。
自分ブランドです。
朝の会議がいやだとか、5時過ぎて仕事してるやつは仕事ができないと言っていた私が、夜に残って安全確認のルートをおぼえました。
百貨店の出勤者の入店チェック時には笑ったら損くらいの合理的な人間が
「この人に良きことがありますように」と一人ずつの顔を見ながら挨拶しました。
顔つきが変わりました。
体重が40キロ落ちました。
万歩計で4万歩あるいた日もありました。
収入は保険会社時代の1/4になりました。
減らない借金減った体重
食べ物は百貨店店舗の残り物とカップラーメンです。
このころいただいたお店の方の恩は一生わすれません。
仕事自体は朝出勤し、次の日の11時に帰って、夕方6時にまた来ていました。看護師さんみたいです。体はきつかったです。
精神的な苦痛はなくなりましたが、金銭的な余裕はなくなり月末に入った給料はその日に支払いでなくなりカードで生活をするという自転車操業をしていました。クビがまわらなくなって新幹線の回数券を買って金券ショップに売ったこともあります。
*速攻カード会社から電話で使用意図を確認されました。
さすがにやばいと感じそこそこの会社の面接を受けます。
が、最終面接に行って、じゃあきてね。と言われたあとにやっぱ無理という案内を2社ほどもらいました。
ここにきて大企業は無理だと再確認し、実家に戻ることをきめました。
根無し草生活を20年ほどしたあとのことになります。
家で同然の私が実家に戻るのは相当の気合がいることでした。
父親と母親は離婚しており、別世帯。両親ともにコミュニケーションは取れていません。そして、父方にはわたしの弟(独身)が一緒に住んでいます。
*小学校いらい口もきいていない
そこで、まず母親にアプローチすることにしのます。
生まれてこのかた頼み事をしたことはありませんでしたが、一蹴されてしまします。
「あんな女はよわかれなさい」
そのとおりすぎて、反論の余地なしです。
*「すんなり別れられるのならばとっくにしてます」という言葉は飲み込みました。
やばいです。友人にたのんで地元のIT会社のパートに内定をもらっていました。就職先がきまっていても、寝る場所がないです。
4/1日の出社日でしたので3/31日に滋賀県から愛知県にやってきてその日はまん喫にとまりました。
さすがに、まん喫から出社し続けるのは人としてどう? とおもったので、めっちゃいやでしたが父親の方に連絡を入れてみました。
2.3回連絡いれても出ません。
折り返しかかってきたのは夜中11時満喫に2泊目が決定したあとでした。
「おー、〇〇か。どうしたんだ」
「どうしたもこうしたも、ないは。こっちきとって会社も決まったんだけど、寝るとこがないは」
と正直に言います。
「あー、そうか俺入院しとってな。家におらんのだわ」
「は?入院?何の病気。」
「脳梗塞」
「まじか……」
どうやら2月に発症していまでも入院中おそらく7月まで帰れない状態だといいます。
「〇〇(弟)がかぎもっとるから連絡してみろ」といいますが
いやすぎ。
そもそも、けっこうな病気なのに長男の俺が知らんとか……
そんな家族状況でした。
ねぇ、タワーこわいんすけど。
***続きです***
実家に戻りました。6年前のことです。
家はごみ屋敷だったり、弟が住んでいたりと選択枝にはなかった父親と住むことになりました。
父親は脳梗塞で入院中。弟もなぜか家にいません。しかも、ごみ屋敷はめちゃくちゃきれいに片付けられていました。
ラッキーとおもいましたが、弟が彼女と一緒に住むためにきれいに掃除していたらしいです。
いったん勤め先の寮に住んでいたところに私が実家に入り込んだことになります。
その後、住む予定の家を失った弟は結婚予定の彼女とわかれました。
根無し草生活も20年を迎えようとしていた私は「先祖から呼ばれた」
という理屈で実家にのさばります。
実家に帰ったことでいいことが2つありました。
嫁と親父の中が悪く嫁が出ていった。
家賃がなくなった
結婚する相手を間違えるとどんだけ稼いでも出ていきます。
月々の家賃は固定費で出ていきます。
ようするにコストがかからなくなりました。
名古屋で勤めた後→近場にある卵屋に勤めました。
時間の短縮と正社員になることで給与があがりました。
300万くらいになっていた借金は80万までにへりました。
お金がないという理由で離婚しました。
離婚する大義名分ができて嫁が同意しました。
寡婦は制度上優遇されています。住む場所、補助金などを考えると
離婚はいい選択です。
ここで、20年に渡る毒嫁との縁がきれました。
そののち、私は同級生と再婚します。
家をきれいにし、新婚旅行にいきました。
その少し前に、元嫁がつれてでていった子供2人を引き取ることになります。
予想通りの展開です。子供をそだてられるような元嫁ではありません。
家庭裁判所で親権者の変更手続きをし元嫁に連れてかれた2人の子供は私の実家にもどることになりました。
子供とは2年ほど離れていましたが、2人の子供の1人は不登校になっていて、もう一人の息子は毒を吐くようになっていました。
さて、問題があります。
再婚した妻には突然2人のこどもができたわけです。
けっこうな負担です。2人の子供も複雑な心理状態です。
「ねぇ、あんであんな人と結婚したの?」
「よくやってるね。こぶつきの人と」
「私はむり、考えられない」
などいろんなことを友達から言われながら再婚した妻は一生懸命家事に育児に奮闘しました。
すごいです
ある日、娘が学校に行かなくなりました。
それでも、一生懸命なだめたりすかしたりしていましたが、ある日突然切れてしまいました。
実家にかえってしまったのです。
そりゃそうなります。
子供にも子供の心があり妻にも妻の心があります。
寄り添うことだけがただしいなんてことありません。
ちょっと離れた方がうまくいくんです。
離れて暮らし始めてごたごたしながらも生活がまわりはじめたある日
祖母が亡くなります。105歳?だったと思います。大往生でした。
私の父が長男なので喪主は父親。
ですが、父親は要介護でそもそも何もしない人です。
私が、離婚したことも、1年くらい知らなかった人です。
一緒に住んでてなんてことでしょう。
私が喪主みたいな葬式が始まりました。
でも、わたしだって何もしりませんし、できません。
叔母、叔父がいろいろ手配してくれて、別居中のつまが駆け付け大車輪の活躍をしてくれました。
ここではじめて妻に会う親戚がほとんどでしたがみな妻を褒めていました。
葬式中に結婚の祝儀をもらったりしました。
久しぶりに親戚が集まり、私の長女が務める海鮮のお店にみんなでいったりほのぼのとした時間が流れました。
でも。49日までしか続きませんでした。
そう、遺産相続です。
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