枝付きの柿、焼きたての餅、頭付きの鯛。南伊勢の「感動」をあたためるー寶鯛の食堂日々 大下清美さん
三重県度会郡南伊勢町の迫間浦に、民家の一部を改装した小さな食堂があります。
「寶鯛(たからたい)の食堂 日々(にちにち)」です。鯛の養殖業を営む大下水産が家族で手がける「日々」は、土日のみ・予約制で、南伊勢の魅力がたっぷり詰まった食事をゆっくり楽しめる、心和む食堂。今回は「日々」を切り盛りする大下清美さんに、食堂オープンまでの道のりや、南伊勢のまちに対する思いを伺いました。
養殖と商売「二本柱」への思い
――清美さんは、南伊勢町のご出身なんですか。
清美 :実家は伊勢市です。両親が伊勢市の磯町というところの生まれで、父と母が結婚後大阪へ出て、私は大阪で生まれました。小学校4年生の時に、父方の祖母が病気になったので、父はそのまま大阪で仕事をして、母と私だけが帰ってきました。短大で奈良へ出て、卒業後は伊勢へ戻って就職し、23歳の時に主人との結婚で南伊勢町に来ました。
――漁にも出ていたそうですね。
清美 :そうです。しばらくアルバイトをして暮らしていたんですが、義父から「お前も行くか」と言われて海の仕事へ出るようになりました。当時このあたりの女の人たちはみんな船に乗っていました。お義母さんの時代はもちろんそうだったし、私たちの時代もみんな免許を持っていましたね。
でも私はあまりうまく海の仕事をこなせなかったんです。体も強い方でなくすぐダウンしてしまうので、なかなかみんなのようにテキパキ動けませんでした。
だったら私は、養殖と何か商売と「二本の柱」でやったらどうかなと思っていました。でも昔の時代ですから、「(夫の)弘和の後をついていって一緒に仕事をする」というのが絶対だったんです。
20~30代頃の間はそうして主人について海の仕事をしていて、それからさらに10年くらい後、仲間と3人で加工の仕事をし始めることになりました。
加工商品製造・販売への挑戦
ある時漁協でパソコンを使った餌の管理システム教室が開かれました。そこへ教えに来てくれた人たちが私たちに「これからの時代は、自分らですること考えないかんよ」と言ったんです。「お母さんたちでタイの料理作ったり、何かしてみたら」と。前の世代と違い魚価も下がってきた頃で、みんな頭の中では「何か考えないかんな」と思っていたはずです。
すると、その頃一緒に海の仕事をしていた仲間2人が「タイの燻製を作る」「昆布締めを作る」と言い始めました。いろいろ悩んだ末、私はタイの西京漬けを作ってみることにしました。3人それぞれが自分のうちに作業場をつくって、同じ時期に加工商品の販売をスタートしました。
加工の売上は養殖に比べたら微々たるものだけど、もう一つ柱があるということだけで、気持ちが全く違ってきました。
商売は「感動」だ! 幼少期におば・祖母と行商で引いたリヤカーが原点
――清美さんは結婚当初から「養殖と別の商売と二つの柱で」と考えていたそうですが、商売に対し特別な思いがあったのでしょうか。
清美:子どもの頃、母方のおばや祖母が、畑でつくったものや、それを漬物にしたものを売る商売をしていたんです。父母と私が暮らす大阪にもよく行商に来ていました。春休み、夏休みと言うと、その手伝いをしながら、そのまま伊勢に入り浸って遊んでいました。
おばがリヤカーを引いてきて、道端にビールケースを並べ、その上にベニヤ板を置いて商品を売るのですが、自分たちで作った作物や漬物のほかに、伊勢の餅屋さんから仕入れてたつきたてのお餅など、いろんなものを積んできました。
――ミニマルシェのようなものが始まるんですね。
清美:そうです。それが本当に楽しくて。
たとえば、土から掘ったままのサトイモを売っていたんですが、それだとあまり売れない。するとおばから「皮をこそげて」と竹を渡されました。言われた通りにこそげて、きれいに洗って売ると、今度は飛ぶように売れるんです。
柿を売る時は祖母から「葉っぱ付けとけ」と言われて、「なんでかなあ」と思って大阪に売りに行くと、柿の実だけで売るのに比べて、葉っぱが付いていると本当によく売れるんです。そういうことがすごくおもしろくて。何かひと工夫すると売れる。「商売ってめっちゃおもしろい!」と思いました。
品物だけ置いていたら売れないと、七輪を出してきてその場でおばとお餅を焼いて食べたりね。するとお客さんが「ええ匂いしてるな」と来て、「今、焼いたところ、食べて」って言ってすすめると「うまい!」となって。
同じ柿でも葉っぱと枝がついているだけで「いや~、採りたてやん!」となる。おばが「やっぱりつきたては柔らかいからね」と言って柔らかいお餅を差し出すと、お客さんもみんな「絶対おいしさ違うよね」と言って感動する。
「商売はすべて感動や!」と思いました。
頭付きの西京漬けを各地の催事場に出店 与えられたのは人の来ない「角地」
――加工商品の製造・販売を始めたときも、そうした「商売の知恵」は活きましたか。
清美 :そうですね。西京焼きは、はじめ切り身で作ってみたのですが、それだとちょっと物足りませんでした。普段から「タイの頭って美味しいのに」と思っていたこともあって、「頭を付けたら立派になるし、頭付きにしてみたらどうだろう」と考えました。当時頭付きの西京焼きというのはなかなかなくて、主人にも手伝ってもらいながら、頭付きの西京焼きが完成しました。
タイは高級だし、頭付きにしたので「売り出すのは都会だ」と、デパートの催事場へ出店していきました。三重県内では津、それから名古屋……と近くから攻めてって、東京へも行くようになりました。
でも、はじめ催事場に出店する時は、「3割くらいの人しか回って来ない角地ならいいですよ」と言われて。うちはもともと予約注文だけでと考えていたので、「いいですよ」と受けたんですが、それが案外よかったんです。椅子を並べて試食してもらいながら、養殖の話や南伊勢の話ができて、ぱっと買って帰るんじゃなく、長くつながってくれるお客さんができました。それからはもう、自分からその角地を選んでいきましたね。
いろんなところのイベントに出店しましたが、最終的には「やっぱりここへ来てもらえるようにせないかんな」と感じました。西京漬けを買うためだけにここまでは来ないだろうけど、ここへ食事を食べに来たいと思う人はいるかもとしれないと思って、ずっと食堂を開いてみたいなと思うようになりました。
――加工は弘和さんも手伝っているんですね。
清美:最初主人は何もしないつもりだったんですが、頭付きにしたので、頭を割るのを失敗すると、また自分が海にタイを獲りに行くことになってしまいます(笑)それは大変なので、「俺がやる」と言ったのがきっかけで、それから捌きなどはほとんど主人が担当しています。
東日本大震災で養殖筏が壊滅 再起と長男の帰郷
清美 :2011年3月11日の東日本大震災の津波で、南伊勢町の水産業も津波で大きな被害を受けました。津波で養殖筏が全部流されてしまい、タイはみんな生け簀で死んでしまったんです。当時は長女が大学合格、次女が高校合格、長男は中学校入学という時で、長女にはもう進学を諦めてもらおうと思ったほど、先が真っ暗でした。
家族みんなを食べさせていくため、主人はもう一度借金をして養殖の仕事をしようと決意しました。でも、タイを稚魚から出荷できる状態まで育てるには2年かかります。それまでの間の生計のため、私は昼間うちの仕事をしながら、朝と夜は外へ働きに出ました。
タイが育って売れるようになった2013~2014年ごろ、主人から「外で働くか、うちで商売するか、もう選ばないかん」と言われました。勤めに出ていた時は本当に忙しくて、私はだいぶ体を壊していたんです。それを見ていた主人が「それだけ体壊してするんやったら、うちで商売する方がいいんやないか」と。
悩みましたが、「やっぱりうちの仕事に戻ろう」と思って、また2人でぼちぼち進んできました。
その後2022年に長男の航平が「跡を継ぐ」と言って帰ってきました。いろいろなことを見てきたので、「大丈夫かな」とは思いましたが、「航平がするって言うんやったら一緒に」と3人で仕事をするようになりました。
寶鯛(たからたい)の食堂「 日々(にちにち)」
清美:食堂はずっとやりたかったのですが、主人と私だけで養殖と加工をしていた時は、ご飯を作ったことがないくらい忙しかったんです。パンを買ってきてそれをかじりながら作業する毎日で「よくあんなことしとったな」と思いますよ。そんな状況で店を開くなんて絶対無理だと思っていたところに航平が帰ってきたので、「それならなんとかできそう」と。
――この食堂は何年前にできたんですか。
清美 :今年の1月で1年経ちました。
それ以前に商工会で「何かやってみたい」と相談したところ、「うみべのいえキッチン」というシェアキッチン&カフェにつないでくれて、そこで6回ほど出店させてもらいました。その時に出した炙り寿司を「どこかでみんなに食べてもらいたいよね」と思ったのがはじまりです。
「やっぱり自分のしたいことはこういうことなんや」と思っていたところに、航平も帰ってきたので、ここを小さな食堂に改装しました。
「うみべのいえキッチン」に出店する3年前ぐらいごろから妹と「何か飲食店みたいなことできたらいいよね」と話してはいました。妹は保育園の給食の調理師なので、普段から大量調理をしているんです。 「姉ちゃんがやるなら協力する」と、今は月曜から金曜日まで保育園で働きながら、土日はここを手伝ってくれています。本当によくやってくれていると感謝しています。
食堂を始めるとき家族からは「手伝うけど基本はお母さん1人でできるように」と言われていたのですが、魚を捌いてくれる人、裏方の仕事、お客さんへの応対と、最低3人は要るので、結局家内中で動かないとどうにもならなくなってしまいました。みんなに「誤算やった」と言われています(笑)
食堂のメニューを決める真剣勝負の「家族会議」
――食堂のメニューはどうやって決めているんですか。
清美:家族で話し合って決めています。賄いでお昼を食べるときに、妹が考えたものや、私が考えたものをみんなで食べて、「これはええな、あかんな」とか「こう変えたら」「これとこれは合わんよ」などと言いながら決めています。
――家族会議なんですね。
清美 :そうなんです。メンバーは、主人、航平、次女、私に妹、主人の弟です。
たとえば、この食堂では梅ジュースを出しているんですが、うちでは主人がいつも梅ジュースを作るので、「お金を出して梅ジュースを飲む」という感覚が、私には全然なかったんです。でも妹が「梅ジュース、姉ちゃんはいつも自分のうちにあるからそうも思わへんけど、私はお金出しても飲みたい」と言って。それで出してみたら大人気で、みなさん「梅ジュース」「梅ジュース」です(笑)
土鍋のご飯を出すようになったのは、主人の弟の意見がきっかけです。うちの主人も義弟もよく食べるんですけど、ある時義弟が「『ちょっと足らん』となった時、俺らメシ(白米)あったらええよな」と言ったんです。「じゃあ土鍋でご飯を炊いて取り分けられるようにしたらいい」ということで、土鍋ご飯を出すようになりました。
そんなふうにして、毎日とても楽しいですよ。
――「日々(にちにち)」というお店の名前の由来を教えてください。
清美:この食堂では、うちで人気メニューだったものを中心に出しています。ブラックペッパーを使ったタイの塩焼きもお刺身もそうですが、自分のうちで食べていたのをそのままみんなに食べてもらいたかったんです。なので「日々の延長のような場所」ということで「日々」という名前にしました。
――家族みんなで料理を作ってみんなで食べることが受け継がれてきたんですね。
清美:田舎であまり外食する習慣がないので、うちでご飯を作って食べるのは当たり前でした。でも私もお金をもらうとなったらやっぱり、今までと同じではいけない。「お母さんはドロドロになった金時豆が好きなんさ」って言っても、それではお金はもらえないでしょう(笑) プロの料理人がいるわけではないのですが航平が1年ぐらい割烹で働いていたので、ずいぶんいろいろなことを教えてもらいました。
「日々」を南伊勢のまちを見てもらう「きっかけの場」に
――料理の素材も町の方が手がけたものを使っていらっしゃいますね。
清美 :せっかく南伊勢町に来てくれたから、ここで食べるものは全部、南伊勢町のものを使いたいなと思っています。でも基本的に、使っている食材を店で直販はしないようにしているんです。土日しかやってないこの食堂で買うよりも、それを売っているところへぜひ買いに行ってほしくて。
使っている食材のことをお客さんに「この漢方茶はあそこの」「このミカンはどこどこで売っているもの」と紹介して、ここへ来たことをきっかけに、また別のところへ行ってもらいたいんです。 そういう思いで、できる限りこの町内でできたもの、この町内で買えるものを使っています。
――ここを起点に「どうせ来るなら南伊勢をもっと見ていってね」というのは粋ですね。タイはここでは売らないんですか。
清美:タイは生だと、絶対その日に売らなくちゃいけないので仲買さんなど買えるところを紹介しています。私たちでできないことは地元の店へ、という感じでやっています。
――料理に使っているタイは昆布などで締めたり寝かせたりしているんですか。
清美:朝獲りなんです。うちで「絶対にこれだけは」とこだわっていることなのですが、来店でもテイクアウトでも、必ずお客さんにいらっしゃる時間を聞いています。同じ朝揚げたタイでも、切ってしまってから時間が経てば経つほど、おいしくなくなってしまいます。
食べる直前に切ったものはやっぱり味が全然違います。だから、テイクアウトでも「何時に取りに来てくれますか」と聞いて、航平か主人がその時間ギリギリになってから切るようにしているんです。
主人も他の仕事があるので早く済ませてしまえれば楽なんですけど、やっぱり来てくれた人に「今日は夕飯で食べたいので4時頃お願いします」と言われたら。その直前に切ってほしい。そうしないと「感動」がなくなるじゃないですか。
スーパーと同じだったら、わざわざここへ来て買わなくてもいい。「大下さんのところは違うよね」「やっぱりここまで買いに来てよかった」となってもらわないと。「うちのおいしいタイは、こうしているからおいしいんだ」ということを伝えて、みなさんに納得してもらいたいですね。
もっと南伊勢のことを知ってほしい 「日々」とまちのこれから
――この先の展望をお聞かせください。
清美:たくさんの人に南伊勢に来て「感動」を体験してもらいたいです。
今日はこの食堂に子ども連れのリピーターのお客さんが来てくれました。お子さんがうちのタイに感動して、「やっぱりここのお刺身が『本物』や」と言ってくれるんです。その子は冷や麦が好きで、前来てくれた時に「おばちゃん、来年もしてね」と話していたのですが、今年も冷や麦の季節になってまた訪ねて来てくれました。
時々主人がお店に出てきて、私にはわからない海の話をすると、お客さんたちは「そうなんや」といって、またそこに新たな感動が生まれます。このまちの景色に感動をおぼえる人もたくさんいます。
ここに感動する何かがあって、ここで感動するものを食べて、その感動がまた他の誰かに伝わる――。そんな連鎖を起こしていきたいです。
田舎ですから、ここで何かをすることと、外へ向かって何かを起こすということを、両方合わせてやっていきたいなと思っています。SNSもとても便利になりましたが、やっぱり「南伊勢町に行ったらね」と人の口で伝わっていくようなことをして、そういう輪がどんどん広がって、若い世代に明るい未来が拓けていってほしいなと思っています。
これまで南伊勢は本当に知られていなくて、三重県内の人からさえ「南伊勢ってどこ?」と言われることもありました。
でも最近はだんだんここのことを知ってもらえるようになってきて、伊勢市や他の地域の人たちに「南伊勢、熱いよね!」とよく言われます。
今はチャンスの時だと思うので、外へも出て行って、こちらに来てもらって、といい流れをつくっていきたいですね。若い世代の人たちにもこの町のことをもっと知ってもらいたいです。南伊勢の若い子たちは、みんな本当に頑張っていますから。
航平と年の近い子たちもたくさん戻ってきているので、水産業界だけでなく、みんながつながっていってくれたらと思っています。
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