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「虹だ!」
「え?どこ?」
久しぶりに感じた。
ススキの色が虹色だったのは幸運の兆しなのか、不運の兆しなのか。
私は本当に極少数のひとにしか共有していないことがある。
それは、物体から色を感じる ということ。
見ようと思って見えるのではなく、感覚的に飛び込んでくるものであって、生活の一部という表現がいちばん近いと思う。
なので、「いまのわたし、何色!?」と聞かれても、専ら
「ごめんなさい、今はわかりません。」なのだ。
正直なところ、私自身もこの感覚については微塵も理解できていない。
ふと感じたのは、高校生の時。
クラスの誰か忘れたけれど、赤と青のグラデーションが背景?に、もやもやもや~っと突如現れたのだ。
(これは誰にも言ってはいけないものだ。)
とその太陽フレアが私にむかって忍び込んでくるたびに、余白の少ない心で精一杯覆いこみ、臓器の隙間に密かにしまい込んでいた。
学生の頃は、自身で隠し持っているスタンド的な感覚で、ごまかしながら付き合った。それから高校、大学。と年を重ねるたびに太陽フレアを見かけても、知らぬふりをしていた。
そんな生活をいそいそと組み合わせていた、ある日。
二十歳の誕生日だった。
その日は就職試験で町田の法人本部に来ていた。
試験では、各保育室を回って心を動かされたものをスケッチしなさい。という保育園の入職試験にしては面白い課題があった。
様々な部屋を回った。
子どもたちの作品ももちろんエネルギーに満ち溢れた、魅力あふれるものばかりだった。
でも私が必然かのように吸い込まれ、立ち止まったのは音楽室の前だった。
その部屋はどこよりも暗く、深くどんよりしていて、美味しくない空気。
無駄に澄んでいる感じが、自分の苦手なオバケを彷彿とさせる。
もしヤツが表れても、「おばけなんてなーいさ」で吹き飛ばせないくらい、空間の粋を感じた。
何かに怯えながらよたよたと歩いた。
そこにただならぬオーラを放っている雰囲気を感じふりかえった。
ずっと人からしか感じないと思っていた、太陽フレア的存在が
その音楽室にあるピアノからにゅるりと顔を出した。
二十歳になりたての私は (これだ!!) と直感に寄り添い、
心の中でスケッチを始めていた。
ちなみにこのスケッチは試験の最後に発表を行った。
園長や理事長の前で発表したことにより、オーラが見える子 というあだ名がついた。笑っちゃうよね。
(詳しくはまた後日保育のことを含めて記したいと思う)
久しぶりに感じたススキに対して、これらの年月の波が瞬間的に押し寄せてきた。
ここ最近では生の循環を感じることが多々ある。
そういう周期でもあるのかもしれない。
この色の感覚はおそらく共感覚といわれるもので、そのものに対して無意識に感じ取ってしまう距離の指標を色でにじませているような気もしている。
相手から語り掛けてきているものなのか、自身から向かっているものなのか、まだ私の中では解明されていないと思っている。
この見えない何か。は本を読んだり、断定的な媒体で理解したいとは思わない。あくまで自分自身を紐解いていく中で、見つけていきたいと思う。
見えたことのない色は何番だろう。と ふと思ったりする。
虹色が見えるときは、決まって何かが起こる。
この感覚は生きている中で培ってきた所謂、野生のカンだと思う。
何かが起きたとき、それが良くも悪くも生活の営みというヤツなのかもしれない。と情緒不安定な天気と共闘しながらも、試験を控えている友達にアイスクリームを渡した。小雨でとても寒かった。ごめん。応援してる。
今日は閏年だ。
高校時代の同級生はやっと6歳になった。
2024/02/29
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