学力学習状況調査の限界
以前、「全国学力学習状況調査の弊害」という話題をつぶやいた。最近、
岩波新書から「新自由主義と教育改革」(2024.8 髙田一宏)という本が出されたので、この本の内容から学んだことをもとにして考えたことを少し書いてみようと思う。
現在の国の教育政策は、学力偏重である。教育の価値を経済的な観点からとらえ、ペーパーテストで測定可能な学力を「学力」と規定し、容易には測定できない価値や子どもの個性をみようとしない傾向にある。例えば、学習時間に「子どもがコツコツとまじめに頑張っている」「芸術的なセンスがある」「子ども同士の対話によって学びを深めた」などの点は、ペーパーテストでは測定できない。測定可能な学力偏重の考え方の下では、これらの側面の評価は無視されたり、ゆがめられたりしているのが現実だ。
これは、「経済界や国家にとって役に立つ人材を育てているかどうかという視点から教育の出来映えを問う風潮が強くなっている」からだと著者の高田氏は述べている。
ところで、わがマチの議会は、子どもの学力はどうなっているのか、と教育委員会に説明を求めてきたし、今も求めている。説明には根拠がいる。その根拠としているのが学力調査の結果である。全国平均と比べてわがマチの子どもたちの結果は高いから学力がついている、低いから学力が身についていない、こう判断され、調査結果の数値が低い学校は“やり玉”に挙げられる。「この学校は何で学力が低いのか。何とかして学力を上げろ」。議会はこういうプレッシャーを教育委員会を通して学校に押し付けてくるのだ。
しかし、学力調査の結果は子どもの学力の一側面に過ぎない。学力テストの点数として表れない学力の状況も多数存在するにもかかわらず、学力調査の結果のみをもって「学力が高い」とか「学力が身についていない」と子ども一人一人の学力状況を判断するのは間違っている。
かつてのように「子どもの成長は長い目で見る必要がある」「教育の成果がわかるには時間がかかる」という考え方には立てないものだろうか。(数値至上主義の方々からすれば、「そういう甘いことを言うから、学校は子どもの学力をいつまでも向上させることができないのだ」と批判するに決まっていることはわかっている。)
「税金をかけたのだから、その成果をしっかりと示せ、説明責任を果たせ」「結果を出せ」という経済優先の教育の風潮が満載の昨今である。
そうした風潮に反論し、子どもの状況をじっくりとみすえ、子ども一人一人の状況に応じてよりよい教育活動を生み出そうとする本来の学校教育の営みが行われにくくなっていると感じている。
少なくとも私は、今の教育行政の方向性に全く同意はできない。自分一人でも世の中の風潮に抗っていきたいと思っている。
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