直観像、ノイズ、フラクタル③

3 幸せのフラッシュバック くぐり戸

「三軸修正法」という整体法で有名な池上六朗先生は、もともと船乗りで、治療するときには、自分が大海原のまんなかにいるイメージで施術をするらしい。
 
僕が生死の危機で入院して、たくさんの管と心電図に繋がれていたとき、ふとかわいがって育てていた「鶏たち」の住んでいる小屋とその周辺の地図の視覚運動イメージを僕の周囲に思い浮かべた。
 
そのとき、痛みが和らいで、苦しみどころか安らぎの気持ちが湧いてきたのだった。

「池上六朗先生が言っていたのはこういうことか…」と思った。
 
ところで、その死にかけていたときに、僕のいわば「イメージ力」は限界を振り切れていて、景色中が文字や記号や絵や映像などに満ち溢れているぐらいに、そして同じぐらいの量の「幻覚」に取り囲まれていたのだった。ロールシャッハ過剰、連想力異常状態、などと呼んでいた。だから、「その時の力」で「安らぎの景色」を思い浮かべたから、それぐらいの効能があったんだろうと思う。
 
僕は、その「連想能力の高まり」自体が生命の危険に対応した自然治癒力だと理解して、「柳の樹に幽霊を見る訓練」と称して、同じような状態へと近づいていく練習をするようになった。この文章に書かれているいろいろな物事もその中に入っている。直観像を見るための条件に書いたことは多分シャーマンの人たちが利用する条件に類似しているだろう。シャーマンの人たちが特殊な知覚を得るために自分の身体を傷つけ、血を流すことをやるだろう。「自分の血を流す」ということは自然治癒力を高めるのである。極度の連続的覚醒状態(不眠)もそうだろう。もちろん、薬物もある。回転を多用したダンスもそうだろうし、極度な性的逸脱行為もそうだろう。そういう条件を組み合わせていけば、次第に、シャーマンの仕事をしやすい状態へと近づいていくというわけだ。
 
というわけで、「直観像を見るための条件」または「観察」そのものは、もうすこし異なった方法へと開かれている。意識へとつながっている。
 
具体的に言うと、非常に夢を覚えているようになるし、夢の印象が溌剌したものになる。また、過去の想起をしようとしたときに、はっきりとした、精緻な記憶がでてくるようになる。
 
感覚知覚はおそらく感情的に鋭敏になる。鋭敏な状態では「心を動かされる」芸術は耐えきれなくなる。うまくいえないが、最近はユーチューブで音楽を聞くことが多いが、ユーチューブでは、映像と音楽の組み合わせになっている。そして、その2つの組み合わせが青春の狂おしいものに関わっているとき、音楽や画像の質とは関係せずに、聴き続けることができないほど感情がかき乱されるのである。昔聞いていた音楽、例えば昔夢中でのめり込んでいたゲームの音楽とかもだめだった。

耳に入りきれない。そんな思いがする。

いっぽう、「自分が意図しなくても勝手に普段は入ってこない情報が脳に注射される」状態は、強制読書というべき、「普段なかなか読めない本を読む」ということに使えるのがわかった。いぜんの病気の手術のときに何故か難解な本が理解とは別にスラスラと読めたのを思い出して、哲学書や専門書を持ってきたが、やはり俯瞰的に読める。読むというか、勝手に入ってくるという感じである。被侵入感といえば、病的ですらある。

対人関係においても、多くの人間の表情や動作、表出の微細な変化などが細やかに入ってくるようになるし、イヤホンでもつけているかのように自分の耳元、目の真ん中で起こるようになる。
 
このような状態で現在の状況について思考すると、ほとんど疑心暗鬼、考えなくてもいいようなどうでもいいことによって頭を占められることに気づいて、僕は昔の記憶、特にまだ自分がそれほど絶望するようになっていない頃の記憶を思い出す練習をするようになった。
 
不幸のフラッシュバックがあるなら、幸せのフラッシュバックというものがあると思う。
 
フラッシュバックというものを特徴づけるなら、「わたし」という意識が、あるいは自我の焦点、それが失われて、「没頭」の状態になる、ということがある。
 
記憶を想起するときに、この「没頭」状態、つまり「わたし」という感覚が消えていくことに注意するようにする。
 
安らぎの記憶。小さい頃まだ改築もされていない実家の立体映像とか、自分が好きでよく遊びに行っていて今はなき養鶏場の近辺の立体映像とか。僕はそこを少しずつ移動したり、じっと立ち止まって眺めていたりするようになった。もちろん、記憶の中でだ。僕の過去の全般的な記憶は、とてもさみしいもので、しかも行き当たりばったりで、無軌道の極致、何の目標も意味も感じられるものではなかった。が、それでも、そういう記憶にまとわりつく感情からは開放されていた。
 
人間にまつわる記憶よりも遥かに昆虫や動物や生き物に関する記憶が多かった。
 
そのうちに、僕は、自分が安らぐ記憶の中に滞在できるようになってきた頃、人に声をかけられたり、話しかけられたりすることが多くなることに気づいた。最初は偶然だと思ったのだが、どうも違うようだ。つまり、整体家の池上六朗先生が大海原の中にいるように、自分の存在を大きな海原において、治療をするとその治療がうまく行きやすくなるように、おそらく僕の存在も、自分が安らぐ記憶の中に滞在していると、多少は馴染みやすい、親しみを感じるものに変わっている、と推定できる。しかし、僕はこのような、「対人関係のおばあちゃんの知恵」としてこんなことをしているのではない。僕自身の心の平安のためだ。僕の心の不安定は年齢を経るごとに戻ることのできない速度で悪化しているように思えた。僕は「原初への遡行」についてばかり考えるようになった。
 
この記憶の「タイムマシン」に乗ることを、僕は、SF作家のH・G・ウェルズの短編小説「くぐり戸」から取って、そのまま「くぐり戸」と呼ぶようになった。この小説は一度読むと忘れられないような、何か、とても大切なことが書かれてあるように感じる。この文章では「くぐり戸の方法」と呼んでおこう。
 
トラウマとしての過去ではなく、「くぐり戸」としての過去。
 
この「くぐり戸の方法」は、ひとと接する方法としては、「非共感的手法」である。
 
共感的手法では、僕らは、相手の話の中に分け入って、相手の気持になって、相手が語るイメージや過去の出来事、事件などのなかに浸りこむのだ。相手の話すことは大抵愚痴で、否定的な内容を含み、あるいは成功体験や自慢話の中には悪感情が必ず含まれている。
 
その中に入り込むことが不快であっても相手の作り上げる世界の中に入り込む。それが共感である。
 
しかし、「くぐり戸の方法」では、ただ「自分の幸せ、くぐり戸の向こう側」からしかもう世界を見ない。「癒やしの雰囲気」を持つ人の多くは、べつに、相手と対話するでもなく、相手を理解するでもない。その人の存在だけで癒しになるのである。「共感」という観点から言うと、「取り付く島もない」と感じる人のほうが多い。
 
このようにして、自分を「幸せな過去の中に浸る」ことをしてから、眠りにつくと、眠りにつきやすいだけでなく、悪夢を見る可能性というか、良い夢を見る可能性が高まる。良い夢というのは、自分が成功する夢とか、エッチな夢とか、そういうのではない。なんとなく落ち着く夢である。
 
もともと僕は記憶の想起の練習の目的を「感情を取り戻す」というところに置いていた。
 
僕の若い頃には激しく感じていた、あるいは頻繁に抱いていた感情や思い、あるいは欲望が、明らかに枯れたようになっていた。枯れているのか抑圧されているのか、あるいは存在しているが気づいていないのかわからない。元からあんまりなかったのかもしれない。そんなこともわからないほどすっかり感じないのだ。
 
理由があって、「無感覚」になっているのだから、あまり刺激をしないように、関連する記憶の周辺を散策していたのだが、「感覚」が戻る気配はなかった。
いつのまにか、僕は単に、記憶を散策するだけになっていた。
以前と異なるのは、「密度」である。
 
僕は、執拗に、「直観像」を見る訓練をしたせいなのか、ノイズの観察の練習のおかげか、あるいはそれによる特殊な意識状態のためなのか、よくわからないが、非常に鮮明で持続的な想起能力を持つようになった。「記憶能力」ではない。「想起能力」である。僕は、たぶん、単純な意味での記憶能力はどんどん落ちていっている。記憶の中の固有名詞もほとんど思い出せない。さらに、記憶自体「固有性のないもの」つまり「一般化された記憶」が多いので、独立した、つながりのない、ただそれだけにすぎない記憶の集積に接しているだけなのだから、知識も増えないし、洞察も特にない。
 
しかし、それでいいのだろう、僕は近ごろはそう思うようになった。
 
とはいえ、最初は、より記憶を鮮明にし、洞察を得るために行っていたので、その方法について書いてみよう。
 
記憶の想起の本質は「差異化」である。
 
差異化というのは、「何も違いがないところに違いを見出す」ことだ。
 
絵を描く人がうまくなるときには、「他の人には見えない違いや技術」が見えている。細やかな「差異」が認識できるようになっている。認識していない場所に「技術」は生まれない。
 
「差異化」というのは本質的には神秘である。というのは、「気づいていないときには何も違いがあるようには見えない」。しかし、「気づいたときには違いがあるようにしか見えない」。だから、気づいていないときに気づくことは不可能だし、気付いた後に気づいていない状態に戻ることはできない。
 
一度人を好きになったら、「好きになった」ということから逃れることは、たとえその人を大嫌いになったとしても不可能である。

様々な記憶を思い出そうとすると、この「差異化」は、この文章の初めに書いたように、「事件」「出来事」の想起という形で現れる。つまり、「固有性のある記憶」のとっかかりがまず現れる。すると、関連する記憶が続いて現れてくるようになる。それは、じっと眺めていて、突然発見されるのである。「あ、そうだった」という形である。記憶は記憶で、ただそこに運動としてあるだけだから、そこから手がかりや推測の道筋、試行錯誤のための取っ掛かりがあるわけではない。これは、さまざまな「思い出の品」や「カレンダー」、「日記」などを用いても同じである。それらは意味を与えられるまでは「他人」に過ぎない。意味を発見するのは「差異化」であって、そこに「事件」や「出来事」を見出す発見する眼である。10年前の自分が書いた日記は、ほとんど「他人が書いた日記」にしか見えない。写真を撮る習慣はないが、たぶん、写真でも同じだろう。
 
僕が人工知能やデジタル技術に期待するのは、僕らが学習・成長するときに、殆どの場合、「文字情報」を媒体にしている。そうせざるを得ない。最近は、動画で学習できるようになったが、動画も基本的には「文字情報」が主体で出来上がっている。そういう「文字学習偏重」の僕らの学習・成長過程が、もっと非言語的な、言うに言われない、なんとも言い難い体験として変化しないだろうか、という点である。そうでもなければ、たくさん本を読んで、たくさん論文を読んで、さらにたくさん書いた人が一番学習し、成長したという価値観から逃れることができない。そんなことはない、と誰もがどこかで知っているが、そういう事になっているという事実性から逃れることだけはできない。
 
横断的な歴史がある。
 
たとえば、職歴は職業の変遷という観点で存在する歴史だ。家族関係の歴史もある。友人関係の歴史もあれば、女性遍歴もある。本を読む人なら読書遍歴もある。引っ越した場所の移り変わりの歴史もある。自分とは無関係に時代の歴史もある。こうした局所的な歴史があれば、それらをつなげるのではなく、全部バラバラにするのがいい。なぜなら、それらの局所的な歴史をつなげているのは、意味や解釈、すなわち物語だからである。個々の出来事は本来関係のないものなのだ。
 
意味を付け加えるのは難しくても、意味をかっこ入れすることはできる。
 
そういうことを続けていけば、次第に、「差異化」するための細部の緻密さへの注目へと近づいていけるだろう。これが、いまのところの僕の考えである。
 
「無関係にする」「差異化」「かっこ入れ」などと色々書いたが、これらは、けっきょく、様々な記憶の中で、「言語」や「象徴」を伴わない、「純粋感覚的なもの」をじっくりと観察するだけの話である。とくに、僕の場合には、「視覚像」が中心である。
 
「視覚像」をじっくりと眺めて持続させる。そのときに、「あ、そうだった」という「差異化」の働きが「事件」「出来事」の記憶として現れるが、これらをただ無視する。
 
無視しなかったら、続きがあるかもしれない。自分の知らない自分を知ることができるかもしれない。
 
僕はしかし「失われた記憶」を昔ほどは取り戻したいと考えることが少なくなった。
 
とくに、思い出すたびに自分の傷口をえぐる「対人関係」の記憶をたくさん思い出すより、「くぐり戸」の記憶。ひとつでいいからなんの感情も引き起こさない、凛とした、運動する視覚像、多くは景色、光景のようなもの、それをひとつでいいから、集中して思い出す練習をするのが最終的には自分を楽にすると最近思うようになった。
 
ある程度年を取れば、かつて「自分を震撼させた」事件が、けっきょくいまの自分にどれほどの影響を与えているのか、変化を与えたのかを評価できるはずである。僕が見出すのはカオス、混乱、無秩序、因果律も自由意志もほとんど意味をなさない、しっちゃかめっちゃかだけだ。自分の幸せや成功を自慢できる人はよほど幸福な人だろう。おそらく自分が生きてきたその都度の現在だけしか観察することなく生きてこれた人だろうから。

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