直観像、ノイズ、フラクタル①
1 直観像と雪のノイズ
内臓の手術のために入院しなければいけないことがあった。
とはいえ、それほど痛みもなく、短期間で済むというので、準備をして色んな本を持っていった。それで、「フラクタル」高安秀樹、という本。それから、「人工知能の哲学」という本。その二冊を続けて読んでいたとき、その二冊の内容が、「ノイズ」という言葉によってつながった。
そのころ、僕は、もはや手術も終わったので、ぼーとリハビリをしながら、ひたすらいろんなノイズの観察を通して「整体・気功」の練習をしていた。
この入院のおかげで、さらに僕は「直観像」を見やすくする条件を確かめることができた。
というのは、おそらく20時間以上の覚醒(不眠)があると、ほぼ間違いなく、直観像を見ることができたからである。生活の連続性を壊さないように、時間を調整すればいいだろう。個人的には、「寝る前、見れればいい」ぐらいでいいと思う。
日中に見えるときにはかなり「精神的に高ぶっている」状態にあると考えて間違いない。
肉体的疲労、そして不眠という条件はけっして本質的ではない。というのは、そうじゃないときにも見えることを知っている。
しかし、「見やすい条件」として、おそらく14~20時間の連続的覚醒、肉体的疲労、などを挙げていいのだと思う。
(*注 他に黒野忍さんという「混沌魔術師」のかたは、魔術的意識の条件として、身体の動きの停止を挙げているが、僕もだいたい動かないで観察しているので、「あるのかもしれない」と連想した。とはいえ、「混沌魔術師」が見ようとする「視覚化」された視覚像と僕が見ようとしている直観像には根本的な違いがある。直観像はなによりもまず「見たいものが見れない、何を見るのかコントロールできない」のである。夢を操れる程度にはコントロールできるかもしれないが、夢は普通コントロールできないだろう。たとえば、『一日30分であなたも現代の魔術師になれる!』黒野忍、の34Pで、「不動法」として紹介されている方法は、とても厳密で厳しい身体の動きの停止の方法である。比べると、僕のはかなり緩いし、ベッドで寝ながらでも行える。そのまま眠りにつくことすらある。)
「明るさ」も同様である。「明るい部屋」の中で見えるということを僕は「生命の危険がある条件」で確かめることができた。だから、「明るさ」は十全な十分条件でも必要条件でもないことを知っているのだが、「薄暗がり以上の暗闇」のほうが見やすい。「光を遮断した部屋」の中ではいろんな物が見えすぎて、今度はかえって何も観察できないほどになるくらいである。
否定的な条件として、自分がテリトリーと思っていて、そこに浸ることができる場所、自宅はそういう場所であることはよくあるが、そういう場所では「見にくくなる」というのも意外なことである。…直観像はおそらく幻覚や夢と同根の現象なので、「旅行先では夢を見やすい」という感じで、その果てにはイエス・キリストやムハマッドが砂漠に瞑想をしに行くという行為があるかもだ。ヨーガ行者もやたら大変な場所で瞑想をする。自宅で練習すると、知らず知らずの間に、難易度を上げている可能性がある。
肉体的疲労は、肉体的混乱とも置き換えられる。…漫画やアニメで物にぶつかったときに「星が飛び散る」という描写があるだろう。これは、現実に存在する。ショックなことがあり、パニックにある状態、そのときに、急に「ノイズ」が表面化することがあるのだ。光る砂粒のようなものが、パチパチと点滅し、明滅する。これを利用して、「ホタルのような光」のノイズを作り出して利用する方法について後で書こう。
このような一般的な条件からして、「眠る前」に練習するのが一番やりやすい。
さらに僕はより寝付きや睡眠の内容を良くするための方法をも書くだろう。
さて、まず、暗闇で横になって、「ノイズ」を見つめる。
僕は、ノイズは「フラクタル」であって、「スケール感」すなわち距離の感覚が乏しいと考えているが、だいたいは山の向こう側に観察しようとはしない。だいたい、一メートルから二メートルの間の距離の向こうに観察する。これには僕自身の肉体の周辺にある「領域」との関係があるのだろうか。
僕が「スクリーン」と呼ぶ、文字通りテレビの画面のような長方形のスクリーンを空中に投射して、視覚像を観察する手法をやっていたとき、なぜかこれは2・3メートルの少し遠い距離で観察していた。今思うと、これはやはり「テレビを見ている距離」と関係があるのだろうか。僕にはわからない。
その人または対象によって適切な距離感があるのかもしれない。
さて、ウィンドウズのパソコンを放っておいたら、「スクリーンセーバー」が出てきて、ぐにゃぐにゃと空間中を蠢きながら、運動しているのを見る。僕が最初に目指すのは、「ノイズの立体化」でそういう「運動するノイズ」を作り出すことだ。僕は最初の頃、「ノイズ球体」として、球体化するようにしていたが、球体よりも「襞(ひだ)」を持つこの形のほうがいいだろうと今のところは思っている。
なぜ「運動しているものを見る」ことを強調するかといえば、経験則である。「運動しているもの」なら、かなり簡単に、目的のトランスへと到達できる。
「ノイズ」はブラウン運動のように各部分が蠢きながらだいたい「平面」のように見えている。
ブラウン運動のフラクタル次元は2。つまり、僕の理解では、このことはこういうことだ。霧が視界を覆い尽くす。霧が「視界の表面」をすべて覆い尽くして向こう側が見えないのだ。しかし、霧は、けっして「空間すべてを覆い尽くす」ことはない。僕は向こう側の見えない霧の中を歩くことができるのだ。つまり、空間の次元は3にはならない。ブラウン運動は、このような、霧の「密度」であるということである。同じように僕は、ノイズの密度は「霧の密度」である、と考えている。こうすれば、僕が「ノイズ平面」と表現している、「観察的経験」をうまく説明する。
つまり、ノイズはまるで「空間の中で平面性を持って埋め込まれているかのように見える」という観察経験である。
微粒子が運動するとき、あるいは量子力学的運動が起こるとき、やはり同じようにフラクタル次元は2で、「平面性」を帯びるらしい。量子力学とノイズはどこかで通底していると思う。
とはいえ、「ノイズ」を立体的に観察できないということを意味しない。
ノイズは立体的に観察できる。これは霧も同じだろう。
まず、「ノイズ」にはたいてい左右に流れがある。その流れを見るようにする。
流れを観察し続けていると、そのうちに、振動が始まる。
その振動の状態を利用して、「シャボン玉」がある。シャボン玉のような形へと変形する。シャボン玉のようにぐるぐると不定の方向へと回転している。
これを襞(ひだ)の形へと解体させる。…先程述べたように、ウィンドウズのスクリーンセーバーに結構似ている。
僕は今、段階的に書いているが、じっさいには、いきなりスクリーンセーバーの状態を見ることも可能である。段階は、あくまでマニュアル的なものに過ぎない。
で、眼の前に襞のようなものが勝手に様々な運動をしながら、展開している。
このときに繰り返しになるが「運動」しているということが重要である。というのは、僕は、「平面」の運動性の少ない状態で観察していたときよりも遥かに早く直観像を見ることができるようになったのだ。「運動性」が重要であることになかなか気づかなかった。
この原因には、直観像が「運動性の乏しい」ものであるということがある。まるで、モノクロで、セピア色で、感情の色彩が薄い、静止した写真のようなものであることが多いのだ。しかし、白黒であることも、運動性の少ないことも、そのうちに、直観像の性質とは関係のないことに気づいた。というのは、色付きで、運動の伴う直観像を見るようになったからである。また、直観像には音も匂いもあるのだが、僕は、それを重視していないので時々しか感じられないようである。
また、僕は数度、そのような視覚像の中に、自分自身が入ったり出たりすることができることもあった。おそらく、この性質を使って、夢は見られているのだろう。夢との関係性を、生成AIとフラクタルのふたつと関係づけて後で論じるだろう。
…さて、「スクリーンセーバー」のような動きをしている、ノイズの襞(ひだ)を観察しているうちに、その向こう側に、視覚像が現れるのである。
それは、僕の場合には景色であることが多い。が、最近は、人間の姿もちょくちょく現れることも増えた。それは、俯瞰できる視覚像であって、しかもかなり安定し、持続性を持っているがゆえに、「樹木があったらじっくりと葉っぱの数を数えることができる」ほど精緻なものである。そして、感情的な色彩が弱いことから、僕は、かつて、「自分にとって重要な事件の細部を観察する」という、いわば「トラウマ処理法」として練習していた。
いまはほとんどその用途に利用しないが、そういうときにはまず「事件」がある。その場面の中に誰がどこにいて、どのようなことをしていて、その前の日、その次の日、時間ごとの細かい経過、だれかに掴みかかったとしたら僕はどちらの手でどのようにしたか、など、細かい情報を、そしてできるかぎり「事件の中心では周縁部の方」を観察するようにする。「周縁部を観察する」ということの意味はやってみるとわかるだろう。こちらのほうが、様々な感情を整理するのに圧倒的に役に立つ。
通常僕らが持っている「イメージ」というのは貧相である。…たとえ大好きな人の顔をイメージしたとしても、その顔をデッサンできるほど細かくは思い描けないだろう。局所的な特徴をつなぎ合わせていくぐらいが関の山である。ところが、直観像の場合には、デッサン可能である。そういう「サヴァンの画家」が存在することから分かるのである。この直観像に「感情的色彩」がすくないことを、僕は「無垢」の特性と表現していて、「他の記憶との関連性が薄く意味づけされていない」というのを「無関連」の特性と呼んでいる。が、これらのことを総合すると、「固有性が剥奪されている」、非固有的である、とまとめあげることができる。
母親は、「母親」ではなく、一人の女性の人間であるように見えるし、友人はまるで知らない人のように見える。しかし、同時に、母であり、友であることも「認識」はされている。「知らない他人」が眺めたかのよう。まるで「自分が宇宙人になって」眺めたかのよう。
この直観像をもうすこし「中を歩くようにして観察する」と、何時何分何秒、いつの年齢か、そのときだれと共にいたか、どのような状況だったのか、というのが捨象されていることにも気づく。たとえば、僕が過ごした「当時の」幼稚園を眺めて観察しても、そこに誰もいない。いることはあっても、本質的ではない。つまり、「こそあど」ではない。「あの」ときでもなければ、「その」場所でもない。固有性、固有名が剥奪されている。つまり、ただの「地図」のようになっている。が当時の情緒的関係だけは残っている。こうして、抽出されたこの四次元の、「運動する」視覚像を、僕は「一般化された記憶」と呼んでいる。
記憶というものを精査していくと、僕の場合には、断片的な「一般化された記憶」があって、あとは、ごくわずかに、「当時を代表するような」事件が、出来事が、固有性を主張しているだけである。つまり、僕はほぼ原理的に、「年表のような記憶の整理は不可能であろう」と思うようになった。ほとんどが「時間を超越し、固有名を持たない」一般化された記憶であって、ごくわずかだけ事件や出来事が残っているだけであるからだ。
記憶がもしも後で僕が考えるように、ホログラフィーとして保存されているのだとすれば、それは直線的なものではなく、「互いに無関係で、関連性もない断片的なもの」がホログラフィーの中でただ機械的に構造化されているという形式を取るだろうとなんとなく思っている。記憶の途方もない「ばらばら性」は、「一時間前、二時間前、三時間前…」と順番に記憶を遡ってみるだけで理解できると僕は個人的に思う。
後で、「一般化された記憶」を使って、心を落ち着かせる方法について書くだろう。また、そのような記憶を「差異化する」つまりさらによくみて、そこに「固有性」を見出そうとする努力についても書いてみるが、基本的に今観察としては、このような「一般化された記憶」、重要なこととして「それらは運動性を持っている(動いている)」を、その移り変わりとして眺めていくだけである。
ところで、「ブラウン運動」のような格子を眺めてから始めるのだったが、僕は、ノイズが様々な「不可思議な模様」を作り上げるのをしばしば観察してきた。僕は、「フラクタル」について調べ始めてから、「それらの模様はフラクタルである」とほぼ確信犯的に考えるようにしている。そういう模様を中心にして観察しても、同じように物事を進めることができると思う。つまり、まとめると、「フラクタル(ノイズ)を眺めていると視覚像が生成される」という流れである。
この流れが生成AIの学習によって同じように現れていることを読んだとき、僕は、すっかり感動してしまった。おそらく、人類の脳の動きと人工知能の「脳」の動きはかなり近づきつつあるのだ。しかも多彩な主題と関係しているので、それをもう少し詳しく説明するだろう。
この節では、そういう「直観像観察状態」において、できる「ホタルのノイズ」について書く。
ひとつの、自分の知っている症状を例にしよう。
まず、僕は入院中に急に息苦しくなって、パニックになり、発作的に、「どうにかなるかもしれない」というような焦燥感が現れたことがあった。これは、入院前からもあったのだが、外ではいろんな出来事とごちゃまぜになるので、原因がわからない。が、入院の環境では、「発作状の心理状況」であると理解できた。
たしか現象学的精神医学者であるビンスワンガーというひとは『夢と実存』において、精神的発作の特徴を上昇と下降の動きで表現していた。僕が感じる発作(衝動)もだいたいこの上昇と加工という運動がある。上昇という場合には、じっとしていられない感じがあって、周囲の情報を処理しきれない。そして、自分という存在がまるで、宇宙全体へと拡散していくような感覚、引きちぎれそうな感覚になるのだ。下降の方はわかりやすいが、今回分析してみると、実際には運動の方向が違うだけで、上昇の発作と同じである。下降の場合には内側、内側、に閉じていって、引きこもっていって、「狭い場所に閉じ込められて抜け出すことができない」という閉塞感が現れる。
おそらく、どちらも、「自分の感覚が鋭敏になって、なりすぎて、処理できない」「フィードバックがもはや意味をなさない」という状態と関係している。意識の変性もあって、脳が勝手に読む必要もない文字を読むし、必要もない会話も聞こえている。だからといって、僕個人の能力は上がるわけでもないので、限界まで来ると、ただ存在しているだけでも自分を持て余す。この状態のときに、あきらかに、リボトリールという「気分安定薬」が効く。といっても、波のようなものがすっと軽減するので、別に完全に消えるわけでない。
「リボトリールは知覚に入ってくる情報の密度の圧力を和らげるのではないだろうか」とふと思ったが、しかしそう考えると、睡眠薬やその他の同じような効果がありそうな薬がこの薬のような明白な効果を持たないことを説明できない。だいたいそんな感じで考えをやめた。
さて、このときに、まず、「流れ」の中に「運動イメージ」を置く。つまり、「直観像を見る前の段階」を持ってくる。「運動するイメージ」というのが重要である。
この流れさの中で「ノイズのつぶつぶ」は青白い僅かな発光をしている。
そこで、「青い」と思ったら左手、「黄色い」と思ったら右手を持っていって、光を相殺、融合するように持っていってみる。すると、青い粒が次第に拡大していって、白く大きなつぶつぶになって、ホタルが明滅するように見えるようになってくる。
その大きな白い光はふとした瞬間に流れ星のようになる。「流星」の状態である。
それを続けていくと、終いには、そのホタルは雪のようになって、自分の方へと降り積もってくるようになる。僕は以前書いた文章で、「自分の周囲にあるバリア」の中に霧のようなものを広げることで「ノイズの粒が雨のように降ってくる」という「雨のノイズ(霧雨の気功)」について書いたが、これに似ている。が、粒の大きさや速度が異なっている。本当に大きな粒の光が雪のように降ってくるのが特徴である。これを見ていると、先程書いたような閉塞感はすっと落ち着いてくるのである。
僕は発作の状態をずっと自分なりに分析していて、同時に身体における「整体的問題」、肩こりや腰痛、あるいはなんとも言えない取り除き難い身体の中の不快感と関係していることを理解した。で、リボトリールやこうした「雪のノイズ」はそれを軽減する作用があるのだと推定できる。実行さえできれば、同じように「身体」を緩めていく努力よりは楽だが、薬も視覚的集中力もない、という場合には整体的方向性で処理しようと努力するだろう。
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