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[短編小説]百合②



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 少年は暗闇の只中、詩を書き続けていた。
サラサラと、次から次へと頁は捲られていった。

 格調高く紅色に染め上げられたカアテン越しに観える鈴蘭・・施錠された木箱と酷く静かに佇む無音…彼はサワードウのように、遠い記憶鉱を取戻すべく奮闘していたのだ。
但し、少年の詩には季節感が哭かった。厭らしく独りよがりで、何より面白みに欠けた。

 彼は英才教育に育った。
小動物のような無邪気さは過去となり、屈折した教養だけが彼の拠り所に変わった。
例の教師の授業は決まって、或る教訓から始まった。

 「………いいですか。例えば、貴方は渡鳥のようなものなのです。渡鳥は一人では飛べません。 ......裕福な家庭に生まれ、それ故に直ぐさま空の飛び方を学んだ貴方は、ラッキーボーイでしょう。しかし、勘違いしてはなり
ません。貴方は唯飛べるだけなのです。つまり、貴方はまだ巣がないんですよ!帰路先がない人間は不完全な存在です。だからこそ、貴方は多くの教養を身につけ、方向性を確立しなくてはいけない。私の授業はそういうものなんです」

 少年が文句を垂れるたび、教師は曇った眼鏡を傾けながら己の教育理論を捲したてた。
教師の男は彼の部屋に来る度に舌打ちをしながら、サファヴィー朝の衰退について語った。

 少年はときに、母親の変容について考えた。

 『確かに、奔放さに従属し、未だ玩具への執着を捨て切れない人間は、彼女にとって異質なものに映ったかもしれない』

 しかし彼は一向にこの推測に納得できないのだった。

 『……………だとしたら、僕への教育は何処も屈折しているのだろうか。』

 昨年、少年の父と母は貴族社会へデビューした。それは彼らの念願の実現であり、商家の出であるマナーの足りないインテリを正当化するためでもあった。

 彼はこのことについても、やはり微動だにもしなかった。少年は社会通念に無知であり、貴族社会が一種の社交的、仮面的な世界であり、やがて平等に頭上へ革命のエチュードが零れ墜ちる未来を待望していること、そ
して陳腐な御茶会こそ老成した無響な伯爵が、朧げな快楽を得ようと馳け廻る惨状に過ぎないことを知らない。

 今後も友人の耳打ちで生きていくつもりだったのだ。

 揺れる木々から葉種が脱けおち、宮廷を徘徊し、若葉の死を連想させる頃、少年はひっそりと戸棚に置いてあった晩餐会の招待状を見附けた。

 一つの予期が全身を巡り、彼は小間使いに両者の不在の原因について問うた。
 「旦那様はついさっき伯爵家へとお急ぎになられました」

 ・・・・・・忌わしい受胎告知は神の子の仕業であろうか。

 足早に出かけ、伯爵家の扉を叩いた。一瞬、少年は幸福な幼年期を暮らした人間のみが感じとれるような鋭敏な虚言の刺激―不快を想起した。

 ....後退りし、冷感に襲われた躰を案じ、少年は帰路に足を向けた。
しかし既に凡ては始まっていた。

 ——あら、そこで何をしているんです。
寒いでしょう、早く入りなさい
……来なかったら如何しようと想っていました。さぁ.........眼を開けなさな。

次の舞台は、此処なのですよ。

 差し出された掌に触れ、目前を視ると、一人の少女が立っていた。

 ——宜しくお願いします。私と踊ってくれると言われたのは貴方ですね。
........まだまだ未熟ですが、 どうぞご丁寧に

 初めて、赤面した同世代の顔であった。
(伯爵家であると後に分かった)彼女は情熱的な眼で、目の前に聳える清楚な男を見つめ、やがて彼の手を周囲に隠れるようにそっと握った。心は一向に昂ぶる気配がなかったが、彼は自然に微笑し、

 ——判りました。
・・・・・・では彼方へ行きましょう。

と言った。皮肉にも、彼は一切を悟った。これが大人として生きることだと、寝室の孤独な書きかけの詩を忘れ、彼女を愛憎の表情でじっと見つめた。

 『そうだ......結局同じじゃないか。彼女は僕の玩具だし、僕は彼女の玩具だ』

 場内音楽がテンポを増し、彼の想念を背後から襲う。

 『もしかしたら、僕は彼らの母親であったのかもしれない』

 いつの間にか、音楽は掻き消え、人は姿を消していた。

 晩餐会後、彼は重い足取りで、部屋に着き、『流星群』という詩を書きあげた。


  再現に満ちた建築に住む住人
  あけどない足跡に
  焼き打つような筆質
  所縁のない寒所にだけ
  あり得るような詩
  ......ただ私は死んでいるだけ
  両生類の横で私は思った


 少年は歓喜とも苦渋とも言えない気分を宿し、己が詩人でないことを知った。

 彼は自分の詩を傑作として認めるわけにはいかなかった。彼の詩は、あまりにも切実で、あまりにも否定のしようがなかった。いわば、批評に耐えうる強度を備えていなかった。

 不甲斐なタキシードに躰を包み、海亀のように堅い甲羅を見せびらかしながら、己の物欲を充そうと玄関に立ち、スキャンダルの速達を待つ日々・・・・・・夢想癖とは比較にならないほど、楽観的であると同時に悲劇的で
もあるような妄想と虚言の世界・・・・・・

 それは彼にとっては当然のことだった。

 『なぜなら僕にはもう、あの草原の美しさなどわからないのだから』

 小鳥の囀りに起こされた朝、少年はふと小間使いに尋ねた。

 「ねぇ、僕の年齢ぐらいの子は一体何をしているんだい。 戯けた問いだけれど、僕は最近このことが頭を過ることが多くて......」

 御付きの女は事務を果たすように、返答した。

 「......存じ上げません。然しながら、悩んでいるのでありましたら、 度庭園にでも出てみるのは如何でしょうか。 人形を持って、ルピナスを愛でてみられては」

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