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芭蕉についての駄文

「芭蕉はいかなる社会体制とも自己を同一視せず、 『現世』一般の中での自己疎外を芸術家の運命と考えていた」
(加藤周一『日本文学史序説』)

 松尾芭蕉は実に稀有な俳人である。
 彼は江戸時代の新人気鋭の「点者(俳諧の批評家)」 として、多くの大名・愛好者と活発に意見を交え、多くの芸術的路線を開拓した。
 しかしそれはある意味で「俳諧の限界」 を展望できる立場としても存在した。彼は農民の生まれであった。 確かに帯刀を許されてはいたが、そこに映るのは「俳壇」への違和感を隠すことのできない自身の 「空洞性」に他ならなかった。
 1680年、 突如芭蕉は「深川」へと居を移す。 彼は俳壇の凡庸さ、そして何よりのその楽観さに愛想をつかした。
 彼はそれを転機に、一生涯 「老荘思想」を愛すようになる。
 自然体でいるということ それは単なる「同化」ではなく、淡く漂いながら「言葉」を紡ぐことに他ならない。それを究極のものとして目指し、 彼は 「奥の細道」へと至った。彼はその時、実に45歳。 江戸時代においては人の 「最晩年」である。

 「諸行無常」という言葉は、 日本人の美意識を巧みに浮き彫りにしている。 しかしそれは単なる 「残り香」への執着を意味しない。
 たとえば、「源義経」の境遇や死に想像を巡らせ、自然の不変さと人間の儚さを愛でることや、芭蕉の「旅の離散」 の悲しみといった類は、「無常」 には当てはまらない。
 私達はそれらを「感受性」として享受してきた。 しかし元来、 「無常」とはそうした感覚を要請するものではない。つまり、その奥にあるものこそ、私達が 「無常」と形容する 「傷」が存在するのだ。
 谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』にて日本美における 「陰影」において「古典回帰」を説いた。 しかし私達はそこに耽美派のノスタルジーを見出してはならない。 谷崎が見出したのは決して 「陰影」に隠れた無常の精神ではなく、 対比のみが伝統を正当づけるというその事実そのものである。
 人間が自然の元で喜劇を演じる動物だとするのならば、 私達はそこに 「無常」 を意識しなくてはいけない。 彼らは自身を取り囲む連環を知っているだろうから。 そしてその警告符は奴隷である私達にもまた、憐憫を要求する。
 私達が欲するのは自由ではない。 自己の宿命だ」 (福田恆存) しかし私達はそれらを関係性として受容することができる。 藤原氏と源家はその意味においてのみ、同一な地平にいる。

「諸行無常」は度々 「奇天烈な概念」 であると言われる。 だが彼らがそう発言する時、彼らは 「無常」 を理解しているのだ。
 芭蕉は人生こそが旅であることを知っていた。同時に彼は「無常」 は 「円環」に過ぎないということを、細道から鋭く読み取った。
 「一つ家に遊女も寝たり萩と月」。 彼の興味は「似て非なる自然」、 つまり 「言葉」 の普遍性のみにあった。 俳諧とは技巧色の 「自然」 であり、決してその範疇を超えることはない。
 しかし松尾芭蕉の無謀な試みは、 旅人であることから自覚から始まるものだった。 だからこそ彼は孤独であり、かつ 「芸術家の運命」 そのものなのである。

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