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わざとらしさは嫌われる


2023年5月17日(水)朝の6:00になりました。

スキを押していただけると、泣いて喜びます!

どうも、高倉大希です。




スキを押していただけると、泣いて喜びます!

ひねくれているせいか、このように書かれていると、逆に押したくなくなります。

「わざとらしさ」に、嫌気がさしてしまうのです。


この言いまわしには、「誇張法」と呼ばれるレトリックが用いられています。

「泣く」という大袈裟な表現をすることで、「喜び」の度合いを伝えようとしているわけです。


ものごとを実際以上におおげさに言いあらわす表現を、古典レトリックでは《誇張法》あるいはイペルボール(ハイパーボリ)と名づけ、ことばのあやの一種として数えていた。

佐藤信夫(1992)「レトリック感覚」講談社


「誇張法」が用いられていれば、自動的に嫌厭されるのかというと、必ずしもそうとは限りません。


「秒でやります」や「死んでも嫌だ」という言いまわしは、日常会話の中で当たり前のようにつかわれています。

「全米が泣いた」とか「ほっぺたが落ちる」という言いまわしは、もはや慣用表現と化しています。


「誇張法」とわたしたちのコミュニケーションは、密接に関わっているわけです。


私は、犬については自信がある。いつの日か、かならず喰いつかれるであろうという自信である。私は、きっと噛まれるにちがいない。自信があるのである。よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過してきたものだと不思議な気さえしているのである。

太宰治(1972)「畜犬談」集英社


一方で、「わざとらしさ」が嫌われることもまた事実です。

いわゆる「ぶりっ子」が嫌われる理由もここにあります。


整理すると、この世には「受け入れられるわざとらしさ」と「嫌われるわざとらしさ」が存在するということになります。


「全米が泣くこと」は受け入れられるのに、「スキを押してもらって泣いて喜ぶこと」は嫌われてしまうのです。


もしも、誰かが私という男を、私が毛虫を嫌う程度に嫌がっているとしたら、——もしも私に対してそんな気持ちを有つ人間が一人でもこの世にいると知ったら、私はもう生きている気持を失うだろう。

尾崎一雄(1981)『毛虫について』中央公論新社


ふたつの差は、お互いが嘘であることを承認しているかどうかです。


ぶりっ子に「ぶりっ子だよね」と言うと、「そんなことないですよぉ」と返ってきます。

一方、あざとい子に「あざといよね」と言うと、「あざとくて何が悪いの?」と返ってきます。


「受け入れられるわざとらしさ」には、「相手を騙してやろう」という気概が一切ありません。

これが「受け入れられるわざとらしさ」と「嫌われるわざとらしさ」の違いです。


知りあいが、知りあいの外科医の人を誘って連れてきたことがあったんです。その人なんか面白くて「あんたはおいくつですか」って。で、さ、七十九ですよというと「もうそれだけ生きればいいじゃないですか」と即座に言いましたから。こちらはもう自信のあるお医者さんだなと思って、そう聞くとラクになるし、げらげら笑う以外にはないわけで。そのぐらいで、もういいんじゃないかと思うんです。

吉本隆明、糸井重里(2004)「悪人正機」新潮社


本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

スキを押していただけると、爆発して喜びます!

今後とも何卒よろしくお願い致します。






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