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希死念慮と閉鎖病棟

2023年9月末、私は激しい希死念慮に襲われていた。
その頃は食事もままならず、エンシュアリキッドとパンやふりかけご飯しか食べられていなかった。
私は統合失調症と双極性障害を患っており、一人暮らしをしていたがお金のやりくり、一人暮らしの孤独な環境などからこれ以上一人暮らしの生活が困難な状態であった。

私の通院頻度は週に一度というペースで、希死念慮がMaxにある時に正直に「もう人生を終わらせようと思っています」と主治医に伝えると、「部屋なら空いていますが」という素っ気ない返答だった。
主治医は入院に対して慎重だった。

私は非常に繊細なところがあって入院に不向きなのをよく知っていた。
私は念を押した。
ここで入院しなければ私は死ぬ予定だったからSOSを出したのだ。
主治医が入院を承諾し、その日の内という異例の速さ(いつもなら3〜4日後)で入院となった。

入院してからも精神の状態は決してよくはなかった。
時計の針を凝視しながら死ぬ方法を永遠と考えたり、少しメンタルの調子が良い時はTwitter(X)の病み垢を見て気を紛らわせまりもした。
何故か自分と同じような境遇の人を見ると安心出来た。
その他にも自殺に関連する5ちゃんねるのスレッドや飛び降り自殺の過去の記事などをまるで狂ったかのように読んでいた。
一日中死ぬことだけを考え続けていた。

私は特に過去に飛び降りがあった場所の記事を読み、その場所をGoogleストリートビューで見てシュミレーションした。
死ぬ恐怖などなんとかなると思っていた。
ただただ、現状の生きづらさだけが先行していた。
ちょうどこの頃は慢性的な便秘に悩まされ浣腸をして出して貰っていたり、薬の副作用から来る性機能障害に悩まされていた。

それから程なくして、私は自宅へ一時外泊する機会を与えられた。
私はその時を狙った。
自宅では生活出来そうにない。
かと言って、病院にいれば死ねない。

一時外泊当日、私はバスに乗ると“例の場所”へ向かった。
あらかじめ目星を付けておいた某ビルの立体駐車場。
私は「今日こそ終わりに出来る」と覚悟を決めるとエレベーターのボタンを押した。
「これが成功すると大変な騒ぎになる」そんな気持ちもあったが、今更引き返す訳にはいかなかった。
生きて帰ればまた残酷な闘病生活が待っている。

私はその場所へ着いた。
そして驚愕した。
手すりをよじ登れない細工がなされている
そして自分がその場所に立っていることに恐怖心が走った。
今思えば、その恐怖は死の恐怖そのものだった。
私は監視カメラから逃げるようにその場を去った。

死に場所は何も一つだけではなかった。
その場所から徒歩約30分。
私は次の場所へと向かった。
とてつもない敗北感と一緒に。
その場所へ着いた私はまたしても驚愕することになる。
そこも立体駐車場だった。
過去に飛び降りがあった場所だ。
そして柵の上にはテグスが張られていた。
もちろんそれを切ることは出来ただろう。
カッターなどの装備があればだが。

結局、死に場所を求め彷徨ったが2つとも駄目で意気消沈した。
私はバスに乗るとアパートへ向かった。
11月にしては暖かい日だったが、その晩はどれだけ厚着しても寒かった。
やり切れない気持ちでいっぱいだった。

病院に戻ると私は担当の看護師に正直に自分が飛び降りを試みたが出来なかったことを話した。
すると担当看護師が驚きながら「そういうことをされると仕事として割り切れなくなるから辞めて欲しい」
そう言われた。
担当看護師ががっかりする様子を目の前で見てしまった。

私はよく作業療法士と会話した。
作業療法士のほとんどとは何でも話せる関係にあった。
私はまたしても「死にたい」と相談したら、ある作業療法士が「患者さんで以前自殺した方がいる。患者さんは家族みたいなもの」と言っていた。
確かに、と思う。
病院で生活しているとこの空間だけが全てなのだ。

それから時を経て、何も変わらない自分がここ(病院)にいる。
入院はもうすぐ半年だ。
そして今月末、ようやく退院の目処が立った。
もしかするとまた生活出来ず病院に戻って来るかもしれない。
私自身、何も進歩していないからだ。

ただ、今は希死念慮はない。
自分があれだけ死のうとしても死ねなかったのだから。
あの立体駐車場で感じた恐怖心。
私は死にたくても死ねない。
だから生きるしかない。
私は自分が死なないために出来ることをやるのみだ。
そして、もうすぐ控えている退院。
決して見えなくても道は拓かれている。


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