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【レビュー】『えんとつ町のプペル』は本当に酷い絵本なのか




さっき『えんとつ町のプペル』読みおえました。先月ある友人に頂きまして…それからまた別の友人が子どもに買ってあげようかな…と迷ってて。読んだ感想を口で全て説明するのも大変なのでせっかくやし深夜のテンション(1:50なう)でnoteを使ってみました。

「プペルってみんなが言うほど酷いの?買おうかどうしよう」と迷ってる友人向け(くれた友人向けでは…ない)に文系の大学生が書いてみた解説なので、ネタバレも含みます。絵本読むこと楽しみにされている方はゴーバックしてください。プペル好きな方も見ないでください

追記

noteのフォロワーさん数名に教えて頂いたのですが、コピペではないものの明らかに私の文章を元に自分のサイトでレビューを書いてる方がいるらしく……確認してみたらまあ確かにグレーな剽窃でした笑
あの、ここで書いた文章に私自身価値があるなどとは思っていないのですが、もしも(他の記事を含め)転載あるいは参考にしていただく際は、文章書く基本ルール・マナーとして、引用元はせめて明らかにしましょうねとお伝えしたく……誰へとは言いませんが。いい大人がみみっちいことするの恥ずかしいので……ほんまに……
簡単に誰でも言説をまき散らせるようになったことの弊害ですね。意見交換したり記事を引用した上で更に考察深めてくださる分にはとても楽しいのですが。
こういうことがよくあったからここ最近note更新しなくなったんですよね~( ◜◡◝ )

以下ネタバレあるのでご注意ください。









一言でこの物語の展開をまとめると、少年ルビッチとゴミ人間プペルが星の存在を信じて宇宙の際のようなところまで行ってみた。そしたらそこに星があった。というお話です。

子供に読ませるなら気になるのは物語の要素かなと思うのでテーマを挙げておくと、

信念

・いじめ

・友情

・死

これらのテーマが主要なものとして出てきます。


もともと絵本読むのがすごくすきなので、今回も結構わくわく期待して読みました。絵本は何にも知らなかった子どもの頃の気持ちに戻してくれる(戻ったつもりになれる)し、なによりストーリーがシンプルで良い。子どもに伝えたいテーマを、いかにシンプルに表現するかということに重点が置かれてるから、極限まで削ぎおとされたような物語って小説より書くの難しいんじゃないかとときどき思います。

この絵本は物語それ自体というより、ほかの色んな他の要素が気になって本筋に集中させてくれないという印象でした。
物語はフィクションだからこそ、とことん世界に没頭させてほしい。でもこの絵本はたびたび気が散ってしまう。あくまで個人的な感想ですが、なぜ気が散るのかという点をいくつかまとめました。


対象年齢は?


まず気になったのは、この絵本の対象年齢。


絵本の紹介ページには

対象年齢4歳 / 5歳 / 6歳 / 7歳以上 / 大人

とありましたし、作者さんも子供に読んでほしいと考えてらっしゃるようです。基本的に平仮名、カタカナ、ちょこっと漢字で書かれているのですが、なんだか3~5才の未就学児が読むには難しい言葉もちらほら。

ルビッチのお父さんは、
きょねんの冬に波にのまれ、死んでしまいました。
[...]
海に出ることが禁止されていたので
町のひとたちは「自業自得だ」といいました。

…とつぜんのよじじゅくご。
友人は幼稚園の子どもに読ませようか迷っていると言っていたので、ちょっと言葉の意味を説明してあげる必要があるかもなあと気になりました。

まず、この絵本は子供向けというより大人のための絵本なのかな、と思います。現代社会の風刺、ということがコンセプトだそうですし。

ハロウィン


冒頭ページを開いてすぐに戸惑ったのが、「ハロウィン」。
あぁ、「ハロウィン」という北欧からやってきた催事のある世界観、つまりこれは「地球のどこか」ということになるのかなとまず気が散りました。町の子どもたちの仮装として登場する、科学者が作ったフランケンはメアリー・シェリーのゴシック小説『フランケンシュタイン』(1818)から来てるから英国由来ですし。絵本は西野さんの発案で、実際絵などを描いたのはクリエイターさんだそうなので、細かいところを詰めなかったのは校正さんのミスなのかなあと考えていました。


たとえば、わたしはディズニー映画すきなんですけど、ラプンツェルで「モーツァルト」って単語がでてきたりアナ雪で「サンドイッチ」って歌われるとやっぱり、「あぁ、アナ雪はサンドウィッチ伯爵の後の時代の話なんだな…」とやっぱり気が散るわけです(オタクゆえ?)。だから「ハロウィン」じゃなくて「収穫祭」とか「秋の祭り」とかそういう表現にしてくれたら良いのにな、と考えたところで、そうなると絵本のラストシーンへの伏線にならないのかと考え直しました。でもハロウィン…やっぱり「ハロウィン」って気になるな…

だって、物語はこの一言で始まります。

「4000メートルの崖にかこまれ、そとの世界を知らない町がありました

作者さんによれば、

えんとつ町に住む人は、青い空を知りやしない輝く空を知りやしない『空』という概念がないものですから、見上げることもしません。

らしいのです。ほんならハロウィン文化どうやって入ってきたんだろう。

なぜ煙突掃除なのか


実はniteはプペルが話題になったときちらっとあらすじを聞いて、「ああ、劣悪な労働環境で働く孤児が煙突から星を見上げて救われる話なのかなあ」と勝手に想像していました。

しかしながらルビッチは父親を亡くしながらも料理(結構豪勢で美味しそうな缶詰め料理)を作って待っていてくれるお母さんがいたのです。
ん?、ほななんでルビッチ煙突掃除なんて仕事してるの…?

煙突掃除屋の子どもがでてくる物語といえば言うまでもなくディケンズやチャールズ・キングスレーのヴィクトリア小説。とくに『オリヴァー・ツイスト』では19世紀ロンドンで悪党のガムフィールドによって煙突掃除の仕事で酷使される子供たちの状況が描写されています。

なぜ煙突掃除人が子どもなのか。答えは簡単で、煙突は狭く大人が中に入るのは大変だからです。その掃除には体の小さな人間、つまり子供「climbing boys(登る少年)」が重宝されました。工業化した18世紀後半からイギリスでは平均年齢10歳の児童労働者、つまり孤児や貧しい家の子供達がそういった仕事(他には炭鉱現場や工場など)に携わり、その報酬として親方に衣食住を保証してもらっていました。しかし太ると煙突に入れないという理由からろくに食事を与えられなかったり、煤で肺を患う、火傷する、煙突から落ちる、窒息するという事故で亡くなる子どもも多く、これは非常に深刻な社会問題の一つとなりました。

だから、煙突掃除は決してメルヘンなモチーフなどではないわけです。『フランケンシュタイン』の話もありましたし、やっぱりプペルの世界は19世紀以降のお話なのでしょう。しかしそんなことを考えているとやっぱりファンタジーの世界に浸りきれない。これはあくまで世界史なんかをやった高校生以上の人が気になることだと思いますし、子どもにとってそんな歴史的背景なんか本筋とは関係ないからいいじゃーんという意見もあるかもしれません。どんな仕事にも歴史的背景はありますし。ですが、何もしらない子どもにだからこそ、不用意に知識を与えてはいけないのではないでしょうか。

たとえばディズニー映画「メアリー・ポピンズ」における煙突掃除人バートの、歌って踊る陽気なイメージ。

あの映画はバートの陽気さだけでなく、いくらジェーンやマイケルと手を繋いで歩こうとも彼が下層労働者であるという覆しようのない事実を観客に伝えています。標準英語を話す中流家庭のバンクス家と、コックニー英語(訛り。ロンドンの下町英語)を話すバートという対比によって当時の社会を表現しているのです。ほぼ同時期に出た映画『マイ・フェア・レディ』も同様ですが、どんな物語も現実社会や歴史的背景からのがれることは出来ない。だからこそ、いかに本の中だけで成立する世界、読者が没入できる世界を作り上げるかというのもファンタジーの作り手の腕が試されるところだと思います。


もしそういった(歴史の)背景を汲んだうえで現代の風刺のためにこの絵本が書かれたとするなら、一人の子どもの命が今よりずっと軽く扱われていた昔の時代を「信念」が軽んじられる今の時代に重ねるためにこの煙突掃除というモチーフを使った、というふうに考察することも出来なくはないですね。でなければ、わざわざルビッチを煙突掃除人にする意味が思いつきませんでした。

絵本を読むかぎり、煙突掃除や煙はただ「空を見えにくくする」ための舞台装置であり、なぜその街が煙突だらけなのか(たとえば地球上すべての工場の煙がここに集まっている比喩的な世界なのだ、とかの設定)、なぜルビッチは煙突掃除という労働をする羽目になったのか、という疑問は残されたままでした。


ゴミ人間

町のひとはだれも信じなくて、父ちゃんはうそつき呼ばわりされたまま死んじゃったんだ。でも、父ちゃんは『煙のうえにはホシがある』っていってね、…

ルビッチは父親が大好きな男の子で、父親の話を信じ続けるその姿は天空の城ラピュタのパズーを連想させます(同じく労働者だし)。


しかし個人的にショックだったのが、ゴミ人間に優しくすることで学校でいじめられたルビッチがあっさりゴミ人間に「きみのせいだ」と言って裏切る場面。その後ものすごくそれを後悔して、自分から謝りにいくのかな、謝りにいくよねと読み進めていたら、ルビッチ動かない。雨にうたれ皆に蔑まれ虐められボロボロになったゴミ人間の方から会いにきてくれるんですね。決死の覚悟でやってきたゴミ人間に家から出てきたルビッチは一言。

「どうしたんだい、プぺル? ぼくたちはもう……」

……もう会わないって言ったじゃないか、帰れよ、かなあ……。ゴミ人間が可哀想になってここで泣きそうになりました。だっていじめられっ子に近付いてきたのはルビッチなのに、いざ一緒にいじめられると君のせいだと去って行く。これ、クラスメートにやられたら立ち直れないかも。
仲直りした後ゴミ人間は 今度はルビッチが一緒に殴られるかもしれないと心配します。ゴミ人間やっぱり健気な良いひと(人?)です。するとルビッチはこう返します。

「かまわないよ。痛みはふたりでわければいい。せっかくふたりいるんだよ」

…うーん、それでいいのかなあ。

個人の見解なので賛否両論あると思いますが、「いじめ」の痛みを二人で分かち合う必要ってあるのでしょうか。「いじめ」に二人で立ち向かっていき、それをやめさせること。二人の夢や信念を信じない彼らの認識を変えさせること。どうせならこっちの方が大事だと個人的に思うのですが、どうなんでしょうね。
どうしようもない痛み、たとえば避けられない大切な人の心の傷は分かち合えば癒されることもあるけれど、暴力は二人で耐えても痛みが二倍になるだけ。なにも解決しないのではないでしょうか。



あと、そもそもすぎるのですがゴミ人間っていう名称がちょっといかがなものかと気になりました。いじめ、という概念は「いじめはいけないことだ」と子どもに教える上で必要だと思いますが、いじめるときに使うような言葉を子どもにわざわざ教えたくはない。


「ゴミ」  「バイキン」


ゴミ人間はこんなふうに呼ばれていじめられるわけですが、これ、実際わたしの小学校でもいじめにあってる生徒がこう呼ばれていたなあ…と嫌なことを思い出しました。「バイキン」ってバイキンマンみたいな悪役と紐付けられる言葉ですけど、やっぱり「ああ、人をいじめるときにバイキンって呼ぶのか」という知識をあえてつけさせる意味ってあるのかなあと。


死とはなにか


(配達屋さんが心臓を落としたっていうプロローグ、いろいろ気が散って完全に忘れてたんですけど、あれそもそもなんで心臓が配達されてたんでしょう。誰が誰に向けて送ったのかな…誰か分かった方いたら教えてほしいです。あそこが最後までよくわからなかった)

それはおいといて

ゴミ人間が父親だと分かり、感動の再会でめでたしめでたしと物語は終わります。記憶はほとんどないけれど、ゴミ人間プペルは父親なんだ、と。

一瞬幽霊となって現れるとか、父親との思い出が甦るとかなら分かるのですが、これからずっとプペル(父親)とルビッチは仲良く暮らしていくんですよね。これ、子供は納得してくれるのでしょうか。「大事な人の、思い出の品があれば、死んだ人は戻ってくるかもしれない。ハロウィーンには特に確率は上がるだろう」と夢を抱かせることになるのではないでしょうか。

少し前にも親の「死」をテーマにした絵本が話題になりました。

ときに、あまりにも辛すぎる死は子供の目から隠されます。
ペットが死んだなら「わんわん、お散歩から戻ってこなくなっちゃったんだよ」。
親類が死んだなら「おばあちゃん、ちょっと遠くにいくんだって」。
だいじな人が死んだなら「パパはお星さまになったんだよ。おまえのことをお空から見守ってくれているんだよ」と。

しかし「もしかしたらまた会えるのかもしれない」というこのファンタジーはときに残酷にも思えました。気にならない方ならそれはそれで良いと思うんですけど、やっぱり「世の中には取り返しのつかないこともある。どんなに会いたくてももう二度と会えない人もいる」という真実は、誤魔化すべきではないと思います。「たとえ姿が見えなくても死者は生者のそばにいる」という救いとしえではなく、「目に見え話ができる実態」として戻ってくるのとでは全く訳が違います。この絵本が現実世界を比喩しているものであるというならば、なおさら。

「わたしを離さないで」と願っても、一生愛する人の手を繋いだままでいることはできない。


二度と会えないからこそ、ルビッチにとって父親の言葉は千の宝物として心に刻まれ、この物語が始まる理由になったのですから。

信じること


他の誰も見ていなくてもいい。
黒い煙のその先に、お前が光を見たのなら、行動しろ。思いしれ。
そして、常識に屈するな。お前がその目で見たものが真実だ。
あの日、あの時、あの光を見た自分を信じろ。信じぬくんだ。
たとえ一人になっても


このキャッチーな言葉が誰のことを指しての内容なのか、解釈に少し迷いました。映画わみればわかるのか…な?映画で補完される絵本ってなんや…?これはルビッチに向けられた言葉なようで、つまりルビッチの父親について語ってるのでややこしい。というのも、そもそも「あのとき見た光を」信じていたのはルビッチの父親の方だったんですね。ルビッチは星をいちども見ていないから、信じているのは「見たもの」ではなく父親から「聞いた」話。

そして「行動しろ」というのもプペルの方。船を作るのはゴミ人間だから。ルビッチは膨らました風船で浮かんだ船にのせてもらい星を見に連れてってもらうのです。

つまりまとめると、

一つは「星をみた」というルビッチの父親、ゴミ人間プペルの信念

もう一つは「星をみたといっていた父親を信じよう」というルビッチの信念

ということになるはずです。上記の引用はおそらくこの二つを同時に指しているので、プペル批判をしている感想などにある「ルビッチは主人公っぼいけど違うみたい」といった混乱が生まれたのかなと考えていました。

そして、うーん、やっぱりわからなくなるのが、先程も挙げた作者さんのこの紹介。

えんとつ町に住む人は、青い空を知りやしない輝く空を知りやしない『空』という概念がないものですから、見上げることもしません

「空」という概念を知らない人がなぜ初めて星をみてそれを星と認識できたのか。本で読んだり伝説として聞いていたりしたのかなあとか、本筋と関係ないところが気になってしまいました。これがもし、

「父さんは上の遠いはるかところに沢山のを見たと言ったんだ」

なら分かるのです。これを聞いた子供たちは目を輝かせて「ねえ、ルビッチが言ってる“ 光”って、お星さまのことだよね?」と喜んで気付くでしょうから。

でもルビッチの父親が「ホシ」という概念を知っていた理由は謎のままです。あるいはこう解釈すれば筋が通りますね。この物語は日本語に訳された「どこかべつの世界」の物語だと。…いや、やっぱり概念が先にある説明にはならないし「ハロウィン」も出てくるから矛盾しています。

これは「みんながそこに感動がある」と言ったから実際見たこともないものを買ってみるという、現代社会の縮図なのでしょうか。




絵本の話からは逸れて、「信念」というものについて考えていたのですが、「誰になんといわれようと信じる」というのは諸刃の剣だなあということ。誰になんと言われようと地球は自転している!動いている!と言った偉大な科学者がいたり、危険な思想に傾倒して人を殺す人がいたり。信じる内容って大事ですね。


(3/30追記 そういえばわたしの敬愛するカズオ・イシグロが十年前から主張し続けてきた、昨今におけるファクトチェックを怠った感情優先風潮が最近やっと日本で話題になりました)

えんとつ町は、夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれる、現代社会の風刺。そして、「夢を見る」「夢を語る」「行動する」といった、大人になる過程で皆が折り合いをつけて捨てたモノをまだ持ち続けているという意味で、主人公を《ゴミ人間》にしてみました。


夢をもつことは素敵です。
人は信念がなければ生きていくのは難しい
「私たちの愛は本物だ」
「明日も自分は、大事な人は生きて朝を迎えるだろう」
「私たちの住む世界は夢なんかじゃなく、ちゃんと実在している」
こういったこともすべて、なんの確固たる証明もないまま人が抱く信念です。しかしながら、

誰にも信じてもらえなくていい


これは、美しいようで悲しい言葉だとも感じました。絵本を見ればわかるとおり、プペルとルビッチの二人だけで見る星空の世界は本当に美しい。

けれど、二人が星を見て帰ってきたところで、誰も彼らを信じることはないでしょう(お母さんは信じてくれるかな)。ルビッチを嘘つき呼ばわりしたいじめっ子アントニオたちの認識を変えたわけではないので、明日も二人はいじめられる。でも痛みは分け合えるから、二人でみた世界を信じ続けていじめを耐えようね。

フィクションの「きみとぼく」だけの世界ってわたしも凄く好きなのですが、この絵本における空も星も知らないままに、異質な者を排除しようとするアントニオたちもどこか可哀想に思えました。だって人間はある程度の「常識」という信念や「愛」や「世界」といった根本的な実存に対する信念を共有して生きているはずですから、「ホシ」を信じてもらえる救いまで描いてくれても良かったんじゃないか、と。


「いいもん、私はこう思うんだから。あんたらに分かってもらえなくたっていい」
SNSってみんながこう言える場の最たるものだと思います。
そう言っちゃお終いよ、それは「逃げ」だよ、と言うのは酷かもしれません(というかわたしも外野なんて知るかと言いたいことはある)が、だからこそ、やっぱりプペルは大人のための絵本なのだという結論になるわけです。何を言っても周りに信じてもらえず一人っきりで苦しむ、なんて経験を身近に感じる四、五才の子っているのかな…どうなんやろう、もしいたら救いになるかもですね。大事な人だけに分かってもらえればいい、という諦め、逃げ道を教えてあげるという意味でならこの絵本は有効だと思います。



さて、わたしはこんな風にプペルを読み終えました。

プペルに感動した人はそれはそれでいいことだと思うし、感動すべきじゃない!これは酷い絵本だ!なんて言いたいわけじゃありません。私は子供に薦めないかなあと思っただけで、星の絵は綺麗ですしプレゼントしてくれた友人を嫌いになるわけでもないです。やっぱり好みの問題なのだと思います。

というわけで、これはあくまで一つの解釈、一つの感想です。深夜の読書にプペルを読んだ勢いのままバーっと書いたので誤字あったらすみません。プペル好きな人は見ないでねと注意書きしたので、ここまで読んでくださった方はこれからプペルを読もうか迷ってらっしゃる方か、読んだ方かだと思いますが、少しでも参考にしていただけたら幸いです。




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