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空に見とれるだけの人生だってあっていいじゃないか


 この記事を読んで思い出した。
 友達(多分高校の)と道を歩いていたとき、その日の青空があまりにも綺麗だったのでその話をしていたら、

「空の話をするやつなんて、
 私の知り合いであんたくらいだよ」

 と言われた。

 今なら、空や花の写真をSNSに出している人がいくらでもいるので、同じ感性の人がわりと多いことがわかるのだが、当時は、

「私、そんなに変?」

 と困惑したのを覚えている。
 その戸惑いについては、小説にも書いたことがある。久方創というキャラの口を借りて。

 今思うと、その友達も空が美しいことはわかっていて(それがわからない人がこの世にいるとは、私には思えない)、
 たぶん私が、
 「それをあえて口に出したこと」
 に、「クサさ」を感じたのだと思う。
 わざわざ言うことじゃねえよ、みたいな。


 私は、散歩して空を見るのが好きだ。
 コンクリートから突き出して咲いている雑草の花が好きで、つい写真撮影してしまい、通行人に怪しまれる。
 道にしか咲いていないムラサキツユクサやタンポポ。なんでこんなところに?と不思議になるような所に生えているコスモスやドクダミ、百合みたいな花。
 花を持たないただの草も、生え方がおもしろかったりする。

 しかし、
 こういうのは、
 なかなか人に理解してもらえない。

 たぶん、私が金持ちとか、
 何かを成し遂げた偉い人だったら、
 みんな感心してくれたのだろう。

 しかし、何もしていない、
 単なる貧乏な障害者の私では、
 何を言っても説得力がない。

 でも、自然の中には、金も地位も年齢も、下手すると「自分の存在すら」関係ないと思えるようなさりげない美しさが確かに存在する。
 たとえば冬の雪が降る姿。
 しんしんと、という言葉がふさわしい静かな降り方をしているときは、どんな景色にも風情が出る。ゆっくり眺めている余裕さえあれば。
(実際は雪になると歩くのも大変だし交通機関は止まるしでせわしなくなるが)

 私が言っても誰も納得してくれないので、
 偉い人が、きちんとした言葉で、
 同じことを言ってくれると、嬉しい。


 どんな人間にでも享受できる幸せ。
 それが自然の姿、色、感触なのだと思う。
 季節ごとの空、夕焼けの色、
 春の花々、夏の日差し、
 秋の紅葉、冬の雪、
 森の木々、街路樹の皮の色、
 雑草から花壇の花々まで。

 こういうものに感動する私はおかしいのか。
 いや、そうじゃない。
 これこそが幸せだから。


 私の人生には成功の要素はなく、
 希望も少ない。

 だけど、生きていたいと思えるのは、
 移り変わる景色の美しさが、
 生きている限り私を迎えてくれるからだ。

 私がバカみたいに、
 ささいなことにもがきながら生きていても、
 向こうは無条件で、
 常に美しさを提供してくれている。

 こんな豊かなことがあるだろうか。



 こんなささやかな希望しか、
 自分にはないけれど。

 それでいいと今は思う。





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