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映画『PERFECT DAYS』感想

「清掃の仕事をみていると、修行をする僧侶のように見える。他人のために生き、それをひたすら繰り返す。その姿はとても尊く美しい。 その先に悟りのようなものがあるのかわからない。 それを期待すらせずにただ黙々と日々を生きる。 何か自分たちには足りない大切なものがそこにあるような気がする」 高崎のその最初の話にヴェンダースは深く頷いた。

──平山は仕方なくこの生活をしているのではなく、自ら選びとったのだ。私たちがそのことに気づいた瞬間だった。

映画『PERFECT  DAYS』 公式パンフレットより





 ※本記事は以下に、映画『PERFECT  DAYS』(ヴィム・ヴェンダース,2023年)についてのネタバレがあります。感想は否定的意見を大いに含む個人の見解です。あらかじめご了承ください。




✱ ✱ ✱




 監督にヴィム・ヴェンダースを、主演に役所広司(以下敬称略)を迎えた日独合作の映画『PERFECT DAYS』は、カンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を獲得し、高い評価と注目を集めている。つい先日には、第96回アカデミー賞国際長編映画賞へのノミネートも発表された。

 そんな本作であるが、海外での評価とは裏腹に、実際に日本(舞台となる東京やそれに近いところ)で働き暮らす私たちからしてみると、過度に美化されていると感じる部分、なんとなく引っかかる部分も多い。そこで、公開から一月経ったこのタイミングで、さしあたっての私の感想をここにまとめておきたいと思う。



 作品のあらすじをごく簡単に。主人公の平山(役所広司)は、押上の古いアパートに一人で暮らす、中年(高年)の清掃員である。ルーティンのように、朝早くに起きては歯磨きをし、髭を整え、植物に水をあげる。外に出ると、明朝の空を見遣り、一日の始まりを祝福するように、小さく微笑む。いつもの缶コーヒーを自動販売機で買ったら、青の軽を走らせ、渋谷区の公衆トイレ(THE  TOKYO TOILET)をまわる。

 掃除用具は自作し、時には手持ち鏡も使って、さながら職人のように、丹念にトイレを掃除していく。私生活では文学とカセットとカメラを愛し、日本的な風情を解する寡黙な好人物である。一見すると変わり映えのない毎日だが、平山にとっては「いつもすべてが新しい」。そんなある日、家出をした姪のニコが、突然平山のアパートを訪れる・・・。


 このような人間が、一体東京のどこにいるんだろうか。海外の人がこれを観て、「クールジャパン」だ、「わびさび」だ、「もののあはれ」だ、と感動するのは分かる。例えば武士をモチーフに、“誠の心”や清貧思想を称揚するような日本の映画が、海外で高く評価される事例は少なくない。


 ニッポン人は仕事が丁寧だ、職人気質で素晴らしい、と外国人が讃えてくれる。そんなつくりのテレビ番組もたくさん見たことがあるだろう。そして私たちとしても、同じ日本人が褒められると、たとえそれがほとんどフィクショナルなものでも、なんだか嬉しい気持ちがするのだ。


 これは、そういう映画である。「こんなふうに生きていけたなら」がこの映画のキャッチコピーだが、私たちは彼の心性を羨むだけで、実際に平山のように暮らそうとするわけではない。


 この映画をプロデュースする側にも、明日から今と同じ給与で、平山と同じ生活、同じ仕事をしていいよと告げられ、その暮らしを選びとる人間がどれだけいるんだろうか。それに(「THE TOKYO TOILET」はその限りではないかもしれないが)、実際のトイレの清掃員が貰っている給与が、彼らと同じということはあり得ない。保障も少なく、社会的な立場も弱い。それでも「こんなふうに生きていけたなら」などと口にできるんだろうか。

  ボロのアパートには住まないし、公衆トイレの掃除もしないし、低い給与で暮らすこともしないけど、でもなんかこういう生き方、こういう姿勢はいいと思うんだよね〜というのは、特定の職業、個別の事例から生じる具体性や葛藤を無視した分かりやすい自己瞞着であり、傍観者だからそこ可能な意見である。人は、モノやコトと十分な距離が確保できる時だけ、つまり当事者ではない時だけ、綺麗事が言えるのだ。


 「好き」を仕事に。あなたの「やりたい」を仕事に。そんな文句が囁かれる昨今だが、当然、誰もが好きな仕事を選べるわけではない。映画で描かれるような、アーティスティックで清廉なトイレではなく、古くなった、汚い公衆トイレの掃除を、誰かはしなくてはならない。トイレの清掃の仕事に限らず、多かれ少なかれ、私たちはそういったコストを常に誰かに押し付けて生きている。


 だから、その罪悪感を少しでも感じさせないために、『PERFECT DAYS』では、平山は色々な選択肢がある中で、このトイレ清掃の仕事を自発的に選んだのだとして描かれる。仕事はコツコツとこなし、愚痴は一切こぼさない。清掃用具は自作する。たまのささやかな贅沢で足るを知る。それはもはや「こうありたい」という欲望の投射をも超えて、「こんなトイレの清掃員がいてくれたらいいなあ」という、ただの理想の押し付けでしかないだろう。更にはそこにノスタルジーをまぶしてエモーショナルに仕立てている点で、一層悪質である。


 また映画後半では、平山は実は裕福な生まれであることが仄めかされる。主人公はこの生き方をすすんで選んだ人であり、いざとなれば頼れる家族もいる。生き方としての選択的な逸脱である。だから安心して観ていられる。それを、作家の川上未映子は、プロデューサー柳井との対談の中で、「選択的没落貴族」と評している。

 対照的に、若い同僚のタカシはいつも「お金がない」と嘆き、ある時は平山に金の無心をする。聖なる平山に対して、彼は「俗なる周りの人たち」(パンフレット Interview[平山さんに会いに行く]より)として描かれる。しかし、彼の貧困は、本当に彼の心の貧しさだけに由来するものなんだろうか。

持てる人たちが 「平山さんの生活は、静かで満たされていて美しくて素晴らしい」というのは、そりゃ彼らは豊かな観察者だからそれはそう思うでしょうけれど、肉体労働をしていたり、相談できる人が誰もいないというような若い人たちがこの映画を観てどんな感想を持つのか、 非常に興味があります。

パンフレットより

(パンフレットに載っている川上未映子×柳井康治の特別対談は上の記事でも読めるため、詳しくはこちらを参照されたい)


 そして本作にはもう一つ、決定的にマズい点がある。それはダンサーで俳優の田中泯演じる「ホームレス」の扱われ方である。彼は渋谷の公園や街の中で「踊る」彼は、社会の中では透明化され、同時に、ほとんど平山にしか目えないような、神秘的な存在として映されている。

 「マジカル・ニグロ(魔法のような黒人)」批判のように、ステレオタイプとしてホームレスを神的な存在として描くのがまず良くないが(これは中年の独身男性という平山の持つアイコン性自体にも言えることだが)、何より、この「ホームレス」は渋谷区が再開発によって排除した存在であるということが問題である。

 バイアスがかかるのを避けるため、敢えてここまで詳しくは触れなかったが、そもそも本作品は、ファーストリテイリングの取締役である柳井康治(ユニクロ柳井正氏の子息)が手がけた渋谷区の公共プロジェクト、「THE  TOKYO TOILET」のキャンペーンに端を発するものである。その企画に共鳴した電通グループの高崎氏が脚本・プロデューサーに加わって、出来上がったのが『PERFECT DAYS』である。

──『PERFECT DAYS』は幸福なことに、目標がヒットすることではなく、『THE TOKYO TOILET』を世界に知ってもらうことでした。世界の人が平山に会いたいと東京に来たら面白いよね、というのがベース。それが叶えられれば、ヒットするか否かはそれほど重要ではない。そういう製作サイドの思いがあったからこそ、この素晴らしい映画が誕生したのだと思います」

https://www.gqjapan.jp/article/20231208-moty2023-koji-yakusho

 渋谷区が再開発にあたって、支援の拠点であった公園などを封鎖し、そこで暮らす「ホームレス」を排除したことは、ある程度社会問題に関心のある人ならば、その多くが知るところだろう。だから、特に渋谷区にとって、「ホームレス」というのはセンシティブな問題なのである。

「THE  TOKYO TOILET」のプロジェクトが直接的にホームレスを追い出したわけではないし、勿論いい部分もあるのだが、これが渋谷の再開発と地続きのものであることは否めない。そしてその渋谷区が「見えないもの」とした「ホームレス」を、まるで他人事のように、世間から浮遊した不可思議な存在として描くのは、製作側が意図するところではないとしても、そこにマッチポンプのようなイヤな気配を感じずにはいられない。


 そういった共感性の欠如が、この映画を貫いている違和感にピタッと重なる。それは同時に、片手には大量生産、大量消費、片方には貧困、飢餓、という歪んだ飽食の時代の空気にも似ている。資本主義社会の中で、ふだん私たちの購買や消費を激しく煽っているような企業が、"多くを欲しがらない"公衆トイレの清掃員のことを、勝手に「修行をする僧侶」のようで美しいなどと言ってのけるのは、一体どういう了見なんだろうか。


✱ ✱ ✱



 以上で述べたことををまとめると、コマーシャルやプロモーションビデオとしては一級品であり(それに音楽も素晴らしい)、この企画の本懐は遂げているのかもしれないが、一本の映画として観た時には、安易にこれを「良い映画」だとは言えない、というのが、私の感想の率直なところである。

 しかし、ある属性を待つ人や、特定の職業につく人の生活や人生を、甘美なノスタルジーに包んで「物語」として消費することの残酷さ、その危うさについて考えることを迫るという点で、実は「良い映画」であるということはひとつ言えるかもしれない。

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