見出し画像

映画『怪物』は本当に“傑作”なのか?





 ※この記事は映画『怪物』の核心部分に触れています。また、パンフレット、シナリオブック、インタビューの内容、否定的な感想を含みます。未鑑賞の方はご注意ください。




「少年2人を受け入れない世界にいる大人のひとりとして、自分自身が少年の目に見返される、そういう存在でしかこの作品に関わる誠実なスタンスというものを見つけられませんでした。なので脚本の1ページ目に『世界は、生まれ変われるか』という一行を書きました。常に自分にそのことを問いながら、この作品に関わりました」

https://moviewalker.jp/news/article/1139514/


 二週間前に映画『怪物』を観て、それからずっとモヤモヤしていた。何かすごく「美しい」ものを見せられたような気がするのと同時に、この物語を「美しい」の一言で片付けてしまっていいのかという相反する思いがあったからです。だから、一週間後にもう一度『怪物』を観て、それで自分のこの映画に対するスタンスを決めようと考えました。


 一度目は(カンヌで「クィア・パルム」を受賞したことは知っていたから、なんとなく内容の想像はついたもの)一切事前情報を入れずに鑑賞したため、反対に二回目は、パンフレット(プロダクション・ノート)、シナリオブック(坂本裕二氏の書いた脚本の決定稿)、あらゆるインタビューを細部まで読みこんで、十全に準備をしてから映画に臨むことにしました。そこで感じた違和感を、ここに書き留めておこうと思います。



✱     ✱     ✱



 まずひとつは、「“怪物”さがし」の推理的な要素が前面に押し出された結果、少年2人の抱える苦悩や葛藤を描く部分が後景化してしまったことです。パンフレットやインタビューの中で、坂元氏は以下のようなことを語っています。

「もうひとつはアイデンティティに葛藤する、葛藤させられる少年たちを、映画の物語として利用してはいけないということです」

『怪物』パンフレット,p23

 しかし、実際に作品として出てきたものがあのような形をとるのであれば、マジョリティの“気づき”のために、彼らのセンチメンタリズムのために、子どもたちが利用されているという批判は免れないでしょう。また、過度にミスリードを誘うような予告や、クィアの物語であることを伏せた宣伝方法は、決定的によくなかったと思います。ビジネス上手なプロデューサーだけあって、観客の興味を惹きつける、という商業的な企みは成功しているのかもしれませんが。


 もうひとつは、学校の隠蔽体質やいじめ、虐待などの問題が、最終的には丸投げになっていることです。溢れんばかりの光の中を二人が駆け抜けるラストシーンには妙なカタルシスもあって、一瞬なんだかすごくいいものを観たような気にもなるのですが、その実、映画の中で描かれた問題は、一つとして解決をみせていません。「現実がそうなんだから仕方ないじゃないか」と言われればそれまでですが、やっぱり作品として、問題提起に留まるだけではなく、何かしらのアンサーが欲しかったなというのが正直なところです。

 外側から、つまり大人から、ひいてはマジョリティの側からのアプローチが届かずに、少年2人に悟りにも似た「ふたりの幸せ」の境位を強いるというのは、あまりに酷薄すぎる結末のような気がします。それは結局、世界は「生まれ変われなかった」こと、「生まれ変われない」ことを意味するからです。

「少年たちが大人たちの手をすり抜けてふたりの幸せを手にしたということのほうが、むしろ大事なのかなと思うんです。(中略)─坂元さんと僕は、ふたりが大人の手をすり抜けて笑い合っているっていうことだけは、見失わないようにしようと思っていました。だから、何だろうな、難しいんだけど、生まれ変わらない世界が彼らに置き去りにされる結末にしようということですね。」

https://www.cinra.net/article/202306-kaibutsu2


 ちなみに、最後の解釈については、監督が明言している(これでさらに死んでいるとなったら本当に救いがないため)ので、下の記事を参照してください。

「最後に関しては、編集で「こういう形でどうだろうか」という提案を僕からさせていただきました。ちょっとしたことで、観た後の感じがずいぶん変わってしまうんですよ。言い方が難しいですけども「2人は死んじゃったのかな」という形に見える編集のパターンもある。(中略)僕も坂元さんも「2人が死んじゃったようには見せたくない」というのが共通の認識だったから、どういう形で着地させるか、0号から初号の間で、最後の15分の編集をずいぶん変えました。」

https://news.mynavi.jp/article/20230610-kaibutsu2/


 そして最後に、カンヌ国際映画祭の公式記者会見に際して、監督が「この作品はLGBTQに特化した作品ではありません。成長過程で誰にも起こりうる、言葉にしにくい葛藤や感情を抱えた子どもの話と思って作りました」 と答えたこと。これは憶断ではなく、湊が自身のジェンダー・アイデンティティに疑問を抱き、性自認に揺れているという点で、(包括的な概念として広義の)クィアの少年であることはほとんど間違いありません。監督自身も、上に引用したCIRNAのインタビューで「もちろん本作は性的マイノリティの子どもたちを扱った映画だと思っています」と言及しています。

湊「好きな子がいるの」
伏見「そう」
湊「人に言えないから嘘ついてる。お母さんにも嘘ついてる」
伏見「そうなの?」
湊「僕が幸せになれないってバレるから」
伏見「・・・・・・」
湊「なれない種類なんだよ」

坂元裕二『怪物』,KADOKAWA,p142

早織「うん?耳、痛い?」
湊「ごめん・・・・・・僕ね、男かどうかわからない」

【映画、ノベライズでは「僕、お父さんみたいにはなれない」(佐野晶『怪物』, 宝島社 , p282)と婉曲的な表現に変更されています。】

同、p133

 

   色々なテーマを扱っている以上、「特化」した作品ではないと言いたくなるの分かるのですが、中心軸に性的マイノリティの子どもたちの葛藤があり、そこから物語が展開していく以上、というより、それがなければこの物語が成立しない以上、そこははっきりとさせて欲しかったです。ある特性から生じる悩みを「誰にでも起こり得る」として普遍化し、当事者性を奪い去ってしまうことの危険性、ある種の“被害者偽装”にも似た、同化(一体化)の欲求の暴力性は、監督も私たちもよく知っているはずです。



  そして、「性的マイノリティの子どもたちを扱った映画」だと認識していながら、それが興行のためなのか“批判”を避けるためなのか、国際映画祭のような公の場で、キッパリとそうだと言い切れないことが、奇しくも今のLGBTQ後進国としての日本の現状にも重なるようで、なんとも遣る瀬無い気持ちになります。


 当事者の立場から、こういった問題点についてすごく分かりやすく解説してくれている方がいたので、ぜひこちらの動画も確認してみてください。




✱     ✱     ✱



 俳優陣の演技もいいし、音楽も抜群にいい。優れたところはたくさんあるし、間違いなく力の入った作品だとは思うけれど、批判を受けて然るべきような点も多くあって、だから、手放しで絶賛はできない、少なくとも「傑作」とは言えないというのが自分の結論です。


ここから先は

0字

総合的な探求の時間

¥100 / 月
このメンバーシップの詳細

この記事が参加している募集

映画感想文

最後までありがとうございます。