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ある春の日の日記-心の龍-

なんか、苦しい。

そう自覚したのは、今日のことだ。

実際はずっと前からこの苦しさは心のどこかに存在していたのだけれど、それを「苦しみ」という一つの実態のある言葉として認識したのは、ついさっきのことだった。

ああ、そういうことか、とストンと来たのと、まるで小学生のようなことで心を悩ましていた自分、その小学生のような悩みの根本をつかむのに意外なほど時間を費やしてしまったという事実に、笑いだしたいような泣きたいような妙な気持ちになる。

苦しいというか、戸惑い。

自分で自分が何を求めているのかわからなくなって、心だけが獲物を見失った獣のように永遠にぐるぐる歩き続ける。けれど、心を癒してくれるように見えるものは全てその場限りの紛い物で、自分の心に何かを入れれば入れるほど、寂寥感と疲労感だけがどんどん積もっていくのだ。そんな状態が、1週間くらい続いた。

私は今フィンランドにいる。フィンランドのとある大学に留学中、まんまとコロナの渦に絡めとられ、留学中であるにも関わらずオンライン授業を中心とした引きこもりがちな生活を送っている。

いや、引きこもりというのは間違いかもしれない。自然が美しいこの場所では、引きこもることの方が難しく、毎日何も用事がなくてもふらっと外に出てしまう。もはやほぼ沈まない白夜の太陽と、それと不釣り合いな冬の気候(まだ5℃~10℃あたりを行ったり来たりしている)。その中で刻一刻と春を呼び寄せ、芽吹いていく自然を目の当たりにすることは、どんなごちそうを前に出されてもそれを軽々飛び越してスキップで駆けて行きたくなってしまうくらい、魅惑的な体験なのだ。

だから、私の心の中にいつのまにか取りついていた苦しさは、引きこもりによるものではない。

それは、異文化で生活する中で味わい積もった、コミュニケーションの微妙なずれによるものだ。そして何より、人間の心が、自分でのちゃんと把握できないくらい、複雑にできているせいなのだ、と思う。どうして人間の心って、主である自分にもなかなか本当の姿をさらしてくれないのだろうか。

私は今、フィンランド人家庭のお家にホームステイしている。60歳のホストファザーとホストマザー。4人の子どもはもうとっくに成人して家を出ていて、上の2人には子ども、つまりホストファザーとマザーの孫がいる。家を出たといっても、4人のうち3人は近所に住んでいて、かわいい孫たちを連れてよく遊びに、そしてさりげなく手伝いに来る。とても仲の良い大家族なのだ。

フィンランド人は、とても正直にものを言う。好きであれば好き、嫌いであれば嫌い。欲しければ欲しい、いらなければいらない。素直で、表裏がない。だから自分も、ありのままの自分でいられる気軽さがあって、それがフィンランドの好きなところの一つでもある。

しかし、日本から来た当初は、かなり困惑した。

何かをしている相手に、「手伝おうか?」と聞くと、「ありがとう」でも「助かる」でもなく「If you want(あなたがやりたければ)」と返ってくる。別に感謝の言葉を期待して手伝いを申し出るわけではないのだけれど、「if you want」って言われると、「いや、こっちがif you want me to help youか聞いてるんだけど」って思ってしまう。まあ、今ではすっかりなれて「Yes, I want to help you!」って堂々と言って流せるようになったんだけれど。

フィンランド人、というかヨーロッパの人ってこんな感じで意思決定がほとんど「if you want or not(自分がしたいかしたくないか)」に左右される。つまり、自分の意思決定に他者の思惑が入ることはほとんどない。自由と言えば自由だけれど、日本生まれ日本育ちの私にはかなり難しく、フィンランドに来て9か月経った今でもむずむずしてしまう。

来た当初は良かった。日本では逆に、同調圧力が強い。沈黙していれば賛成と捉えられるし、こちらが何も意思表示していなくてもその場の空気でなんとなく物事が決まる。私はそれに苦しんでいた。私という個人がここにいるのにそれを空気のように扱う集団。日本では、自分という個を保つのに必死だった。流されれば、あっという間に個なんて見えなくなってしまう。個を保つ唯一の手段は、自分で自分を自覚していることだった。

だから、フィンランドに来た当初は、ヨーロッパの個人主義が解放的で心地良くさえ感じられたのだ。私以外の全員が賛成していても、私だけが反対ということで空気が悪くなったりしない。みんな違うんだから、意見だって違くて当たり前でしょという前提のもと、コミュニケーションが進む。逆に特に考えず「いいと思う」なんて言うと、「ほんとに?ほんとにいいの?何か意見はないの?」って真顔で聞いてくるから、ほんとに心で思ったことを素直に伝えるようになった。個として確実にそこに存在することで、初めて全体の一部になれたような気がした。

でも。彼らとコミュニケーションをとる中で、私は同時に困惑していた。私がどんな反応をしても、それは私個人の独り言で、他の何ものにも影響しないように思えてくることがあった。風のようにすり抜けて、どこかへと行ってしまう。もどかしかった。

コミュニケーションをとるとは、他者と繋がることだ。他者と繋がりたいからコミュニケーションをとろうとしているのに、「あなたはあなた、私は私」で線を引かれてしまう虚しさ。悲しさ。

なんなの、もっと心を通わせたコミュニケーションはできないの?何度そう思ったことだろう。今日もそうだった。

私は、「落ち葉掃きをしたい」から「手伝うよ」と言ったのではなくて、「あなたと一緒に落ち葉掃きをしたい」から、庭に出たんだよ。なのにどうして、あなたは家に入っていってしまうの?私は、一緒に何かをしながら、その時間を共に楽しみたかっただけなのに。

それは、常に誰かと嫌でも行動を共にさせられる日本では感じたことのない、初めての虚無感だった。その虚無感と同時に、私は自分が他者と繋がることを心から求めていることに気付いたのだ。それに気が付いたとき、笑ってしまった。今の私って、みんなから仲間外れにされて寂しくて空しくて悲しくてでもどうやって仲間に入れてもらえるのかわからなくて途方に暮れてる小学生と一緒じゃん。小学生ならまだいい。そうやって、人との関わり方を学んでいくのだから。けれど私はもう21、立派な大人だ。自分でも周りからも、自立した行動が求められる。だけど、私の今の心は紛れもなく仲間外れにされた小学生なみの悲しさを湛えていた。

ああ、身体も成長したし知識も常識も身に着けたけれど、心はこうやって永遠に幼いところから出発するんだな、と思った。「いい大人がなにやってるの」「20歳越えた大人が悩むことか」と、どんなに言われようが、それだけは真実だ。心は、成長したと思ったらまた振り出しに戻り、一直線に成長していくものではない。きっと迷路のように曲がりくねったらせん階段を、上がったり下がったりしながら進んでいくんだろう。

ーそうやって、ぼんやり考えながら庭の落ち葉掃きをしていた。

もう完全に真っ暗になることのない空が、太陽の光を携えてはるか彼方に広がる。もう夜20時だというのに、太陽は相変わらず頭上にあり、珍しい鳥や珍しくない鳥がしきりに鳴きかわしていた。家の中で、半年前に生まれたばかりの赤ん坊が、きゃっきゃと嬉しそうな声を上げ、それに対してなにかしゃべりかけているホストマザーと娘さんの声が聞こえてくる。聞いているほうも幸せになるような、穏やかな日常の声だった。

今日、久しぶりに家に遊びに来た日本人の友達から問われた言葉を反芻してみる。

「何をやっているときが、最高だと感じるの?」

何だろう。すぐに言葉が出てこず、そのまま黙り込む。少なくとも、こうやって家にこもってパソコンと向き合うことではない。その場で思いうかんだ答えをとりあえず言ってみたけれど、それでは何か欠けている気がして、その後もずっと考えていた。

最高だと感じた時のことを。

ー私が最高だと感じた日々は、心が、まるで身体から独立した一匹の龍のように、息をしていた。心の龍が次々と面白いものを見つけては興奮するから、ついていくのが大変で、けれどもすごく愉快だった。いつまでも尽きることのない泉のように、笑いが腹の底から湧き上がってくる気がした。頭よりも心よりもまず、心が動く。心の龍が指揮を執り、私の頭と身体は龍に必死についていく。喜んでついていく。こんなにも「心」って、確かにあると自覚できるものなのかと、驚いた記憶があるー

人だ、と思った。そんな風に心の龍が体温を持った呼吸をしている時は、必ず隣に人がいた。隣で一緒になって何かに夢中になっている人の心の龍と、私の心の龍が共鳴し合う。2匹、3匹、連なった龍は、さらに激しく美しく踊り、それに呼応するように、私の心はその時を最高だと感じた。

共感。そんな生易しい言葉じゃ表せない。他者の瞳の中に、自分を見る。自分の瞳の中に、他者を捉える。それが、とてつもなく快感で、楽しくて、何よりも自分が「生きている」と感じた。そうだ、私は他者と全力でぶつかりたい。自分の持つエネルギー全てを他者にぶつけ、返してほしい。同調圧力による馴れ合いでもなく、他者に向かってただ自己主張するだけなのでもなく、本気で今という時間を他者とともに生きたい。本気で生きている他者の中に、本気で生きている自分を見たい。自分のために生きるのでもなく、他者のために生きるのでもなく、もっと見えない高いもののために生きたい。ともに本気で生きることでしか見れない世界を、経験できない胸の高鳴りを、聞こえない音たちを、意味を持てない世界を、全て自分のものにしたい。

それが、紛れもない私の本音だ。

だから、私は寂しかったのか。

私の心の龍は、今は眠ってしまっているのか、長いこと姿を見せていない。共鳴してくれる魂がないと、起きられないのだと思う。そのためには、私がもっと本気で他者と向かい合う必要なあるな。妥協せずに、傷つくことを恐れずに、ぶつかっていこう。単純な結論やな。

もうすぐ23時に近づく空は、まだ昼間の明るさを湛えて、部屋の中を照らしている。
うじうじ悩むことなど許さないと言うように、眩しい光をぶつけてくる。

5月21日 留学282日目の日記

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