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追悼 徳洲会グループ創業者 徳田虎雄氏:カリスマと生きざま

2024年7月10日、日本の医療界に一つの時代が終わりを告げました。
医療法人徳洲会の創設者であり、日本最大規模の病院・医療事業グループを一代で築き上げた徳田虎雄氏が86歳で逝去されました。

私は以前、徳洲会グループと少し仕事をしたことがあり、彼のカリスマ性と波乱万丈な生きざまに感銘を受けました。

今回は、その追悼として彼の功績と人間性に迫りたいと思います。

徳田虎雄氏のカリスマ性

徳田虎雄氏のカリスマ性は、彼の行動力と強烈な信念に由来します。

1938年、兵庫県高砂市に生まれ、幼少期を過ごした鹿児島県徳之島での貧しい生活が彼の根底にありました。
医師を志すきっかけとなったのは、弟が急病で亡くなったことでした。この悲劇が、彼に医療への情熱を植え付けたのです。

「失敗したら自殺して、その保険金で返す」

特に私が衝撃を受けたのは、下記のエピソードです。

2浪して合格した大阪大学医学部医学科を卒業後の1973年(昭和48年)、「失敗したら自殺して、その保険金で返す」と説得して銀行から融資を受け「徳田病院」を大阪府松原市に設置し、さらに1975年(昭和50年)、医療法人徳洲会を設立した。

徳田虎雄-Wikipedia

家を担保としたり、車を担保にしたり、、
といった方法で融資を受けることは良く耳にするが、
自身の命を引き換えに融資を受ける、といった映画のようなことがあったことに衝撃を受けました。

人間、死ぬ気でやられば困難を突破できるんだな
を文字通り体現した方ですね。

1973年、大阪府松原市に徳田病院を設立した際、
彼は
「24時間、救急患者を受け入れる」
「患者からの贈り物は一切受け取らない」
「差額ベッドの廃止」という斬新な方針を打ち出しました。

これまでの医療の常識を覆す彼の理念は、多くの医療従事者や患者に衝撃を与えました。

同時に、「生命(いのち)だけは平等だ!」というスローガンを掲げ、全国各地に病院や診療所を開設し続けました。

そのカリスマ性は、従業員や患者だけでなく、広く社会にまで影響を及ぼしました。

徳田虎雄氏の生きざま

徳田氏の生きざまは、そのカリスマ性と同じくらいに波乱に満ちたものでした。
1990年には政治の舞台にも進出し、衆議院議員として医療制度改革に尽力しました。

彼の政治活動は、徳洲会の全国展開をさらに加速させましたが、同時に彼の手法は多くの対立を生み出しました。

2002年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、政界を引退した後も、病床から徳洲会の指揮を執り続けました。

ALSは、脳や脊髄の神経(運動ニューロン)に障害が起こり、筋肉がやせて力が弱くなり、身体を動かすことが難しくなる病気です。

ALSといえば、中国の政治家だった毛沢東や、
メジャーリーグのニューヨークヤンキースでベーブ・ルースと並ぶ主砲だったルー・ゲーリック、
車椅子の物理学者スティーヴン・ホーキングが闘病していたことで有名な疾患です。

体が動かなくなっても、文字盤を使ったコミュニケーションで、彼は一度もその情熱を失うことなく、医療の最前線に立ち続けました。
彼の生きざまは、病に倒れてもなお、使命感と責任感に支えられたものでした。


最後に

正直言うと、徳洲会グループに良いイメージを持っていない人も一定数存在することは認識しています。
彼の強引な手法や対立を生む行動は、賛否両論を巻き起こしました。
しかし、それでも彼の生きざまやカリスマ性、そして根性は見習うべき点が多々あると思っています。
安らかにお眠りください。
日本の医療に尽力いただき、ありがとうございました。

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