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一般企業就職博士の話の悲哀

先日、昔の友人に会いました。そこでちょっと、悲しい話を聞いたので書きます。

その人は大学時代の友人で、大学院に進学した私とは異なり、社会人生活もすでに2年目に入っています。政治学・法学系の学術書専門の出版社で勤務しているそうです。
仕事内容は、主に原稿の校閲。誤字脱字チェックはもちろん、参考文献に怪しいものはないか、引用は間違っていないか、注釈に嘘はないかなど、内容を読み込んだ上での最終確認を行っています。

学部卒の友人がこの仕事をする上で大変なのは、膨大な勉強量が要求されることです。何せ仕事相手は大学教員や博士・ポスドクですので、執筆の際に彼らが用いたものと同程度の前提知識が求められます。休みの日も勉強しなければならないことが多い上に、通常業務でもかなりタスクが詰め込まれているため、相当大変なようです。
そもそもその会社は、通例では新卒採用において学部卒を採らない方針であるものの、ある年気まぐれに出した学部生向けの公募に唯一通ったのがその人だったようなのです。友人の優秀さに舌を巻きはしましたが、同時に、随分大変な環境に身を投じたのであろうということが容易に想像できました。

しかし友人曰く、自分以上に激務をこなしているのは博士課程出身の先輩たちだとのこと。校閲を中心にかなりの仕事量を任されているそうです。
にもかかわらず、彼らの離職率は低いのだと言います。アカデミアで築いた専門知識や能力を活用できるからです。「活用できる」と言えば聞こえはいいですが、どちらかというと「これしか道がない」と思っているのを、実際に口にしているのを聞いたと言っていました。

それを聞いて、修士課程とはいえ大学院に進んだ身としては、しんどくなってしまいました。安部公房の『砂の女』を思い出したりもしました。

私は前回までの投稿で、就活大学院生として活動する中で、自身の能力に対する考え方を色々と改めた過程について書きました(その第一回)。
友人の話を聞いて、そうか、やはり専門性を極めるということは、少なくとも今の社会構造においては、どうしても自己に対する理解やその展望について視野狭窄に陥ってしまうことと表裏一体なのだと思わざるを得ませんでした。

リカレント教育とかが今よりも一般化していて、生産社会と大学の出入りがもっと自由であったら、もしかしたらそんなことはなかったのかもしれません。でもなんというか、学問の世界で何か真実のようなものを追い求めて、時間と労力と情熱を注ぐ間に、気づけば社会の壁が四方から迫ってきていて、どんどん小さな空間へと追い込まれて行くのは、本当に皮肉なことだと思います。私も高校生ぐらいまでは、学問に取り組むことは己の視野と世界を広げる行為だと信じて止みませんでしたから。

もちろんその話を聞いただけで、博士出身の先輩たちの人生が不幸だとか失敗だとか言いたいのでは断じてありません。逆に、仕事に対してやりがいや魅力を少しも見出していなかったとしたら、彼らだって何年も勤め続けることはないでしょうから。それに、職場での様子だけで彼らの人生の如何を判断するのは、筋違いだと思います。

それでもやはり、アカデミア人材の人生の幸福について考えざるを得ませんでした。学術界でポストを得ようとしても、今は本当に厳しい時です。なんとか界隈に残ろうにも、大学が研究を続けるだけの体力ですら危ぶまれている時代ですので、就職以前にあまりに多くの問題に直面することはもう目に見えています。まして、友人が勤めている出版社で専門性を発揮しているということは、彼らは文系ですので、状況はなおさら深刻でしょう。

だからどうだ、というオチがあるわけではありません。ただ話を聞いて、悲しいな、と心がひんやりした。それだけのことです。

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