大学院生やってみた感想

先日、修士論文を出し終わりました。
現在は卒業までアルバイトに勤しむ日々です。口頭試問は残っていますが、それを終えて、かつ単位の計算を間違っていなければ、晴れて修了となります。

寂しい気持ちはもちろんありますが、総合してみればどちらかというと晴れやかな心持ちでいます。後ろ髪を引く思いの正体も、大学施設(特に図書館)を使えなくなることとか、休日にしたい日をいつでも休日にできる気楽さを手放すことになるのに対してであって、既に研究や教授陣との縁が切れることへの思いは吹っ切れました。

修士課程で自らが過した日々に対して、ほとんど愛着を持っていません。研究に没頭できるのはとてもよかったけれど、それ以外に関していえば、正直自分に院生生活が向いているとは思えませんでした。

理由を挙げます。まず、コロナ禍での研究生活は孤独を極めました。
研究職とは、もともと孤独なものです。国や世界単位で見ても、本当に理解できる人が数えるほどしかいないテーマに取り組み、その道を極める厳しい道中で自らを助けるのは、基本的に己のみです。

そこにコロナ禍です。学生生活がリモートになることの問題点の内で、最も重大なのは、人脈が築けないことです。
授業やゼミに出るだけでは、同じ参加者の人となりが見えません。そういうのは、授業終わりの何気ない会話とか、なんとなく一緒にご飯を食べにいったタイミングとかで掴んでいくものです。個人で扱う研究内容の把握はできているとはいえ、それ以外の情報が何もない相手と毎週会っていても、関係性に進展が生じないのです。

大学院に入学したての頃、ある教授から院生時代の思い出話を聞かされました。研究室での指導は厳しくも密度が高くて、その熱量に応えようとしていた日々が今の糧になっている。研究室に寝泊まりして、文献を読み込んだものだ。その中で、異なる研究関心を持つ学生たちとの交流が、自らの視野や知識・発想力を拡張してくれていた。だから皆さんも、大学院という恵まれた環境まで来たからには、心ゆくまで学んでほしい。
そんな思い出話されても、こちらはただ悲しくなるだけだというのに。個人的なことを初対面の相手に披露するならば、せめて為になることを言ってくれれば良いのに。そのうちどれも掴み得ない我々は、一体どうすれば良いのか。

そんなに孤独なら、大学院以外の友達を飲みにでも誘えば良いじゃないかと思うでしょう。でも大学や高校の同級生らは、もう多くが社会人になっています。彼らの言う「社会」の実情を知らない私などにとっては、極めて誘いにくいのです。忙しいんじゃないかと思って。
今となっては、彼らだって学生時代の友人である私に誘われたら、もちろん喜んでくれるだろうと分かります。でも当時の私は、労働を通して自ら金銭を得ている人たちに対して、心のどこかで引け目を感じてもいて、一人で勝手に孤独を拗らせていました。

だからもちろん、孤独は自己責任でもあります。しかしそうは言っても、やはり週の大半は家や図書館に籠って論文を書いていて、1、2日しか他人に会わない生活を送るのは、はなから無理でした。
そもそも学部時代はサークル活動に勤しみ、バイトやら人付き合いやらで年中走り回っていた人間です。その合間に本を読み漁った結果が進学につながっていて、今も研究は好きだけれども、そればかりやっていられる訳がなかったのです。だから修士の2年間にも、結局また卒業したサークルの活動に少し関わったり、教習所に通ってみたり、就活やらバイトやら、結局研究以外のタスクを結構入れました。そうして生きている実感を得ようとしました。

ところで生きる実感以上に重要なのは、生きることそのものです。資本主義社会で生きるにはお金がいります。
親への経済的依存が叶わない学生は、窮乏します。親に依存できても、負い目を感じて生きることになります。でも贅沢できないことは、正直どうでも良いのです。それよりも、お金が入ってこないことは自己肯定感に関わる問題でした。

私は高校生でバイトを始めて、大学入学までに相当の額を貯蓄した経験があります。部活というものを、やり甲斐というまやかしの報酬を糧に精神や体力を消耗させる制度という程度にしか捉えていなかった私は、貯蓄が可能で経済的自由を得るのに役立つ金銭が労働の対価として支払われる、バイトの魅力に取り憑かれました。

というのも、高校生は親に扶養されていますし、派手に散財するやり方も知りませんから、働けば働くほどどんどんお金が貯まるのです。
SNSの「いいね」の数で自尊心を稼ぐ人がいますが、貯蓄は私にとって似たようなものでした。自分が仕事という一定の評価軸において役に立つ人間であることとか、金銭的自由の余地がまだ結構残されていることを数字でわかりやすく示してくれる指標だったのです。

その当時に比べて、二十歳をとっくに超えた私はどう考えてももう大人です。何をもって成人とするかは、時代性や地域性を反映して様々な定義がなされるテーマではありますが、20代前半で大卒の私は何を参照しても基本的に大人。それなのに、自分の生活を自分で支えることが十分に行えない。親に頭を下げなければ、服も買えない。かつての余裕はどこに行ったのか。あの時の自由は。

お金があればあるほど偉いなどとは考えていません。働いている人が、そうでない人よりも上だなんてこともありません。ただ、私という個人の心の安定性の問題なのです。

お金が入ってこないことで、何度不安定になったか知れません。わかりやすい指標で安堵感や自尊心を得たいと思っていたし、今もそう思っています。自分がそういう人間であることを自覚した上で、自立するだけの収入が得られない生活に突入することの重大さを、進学を検討した時点でもう少し考慮するべきでした。まあそんなこと言ったら、誰も院進しなくなっちゃいますけどね。

それでも、何度でも言いますが研究自体は好きでした。上記の問題を工夫でもって解決しながら、博士に進みたいと真剣に考えていました。「自分には研究や院生生活なんて向いていない」と言いながらも、大学院で研究を続けている人など、大勢いますからね。それでも断念した理由については、こちらに書きました。

まぁまとめちゃうと、大学院での研究はやってみて本当に良かったけれども、大学院生という身分であることは全然向いていなかった。これが実際に、2年間大学院生をやってみた所感です。それでもいつか、またこの環境に戻ってみたい気もします。人と出会う機会が戻ってきて、お金も貯まったら。



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