上を見ればキリがなく、下を見れば底なし沼である

1 現在文句なしに世界最強のグラップラーであるゴードン・ライアンがPED(ステロイドに代表される身体強化薬)の副作用に苦しんでいる。


 この記事では闘病の原因について「胃不全麻痺」としか書いてないが、次の記事を読むと「連鎖球菌性咽頭炎 」が元々の病因で、この症状は聞くところによると典型的なPED使用の副作用らしい。


 ゴードン本人はこれまでも自身のステロイド使用について否定はしていないし、私には今回の闘病がステロイドの副作用によるものだと断定する事は出来ないが、おそらくはそういう事だろうと思っている。
 本稿では、ゴードン・ライアンを素材に、彼が「闘病でやつれた姿」を紹介するだけでなく、もう少し時系列を遡って、PEDの威力と技術というもののあり方について考えてみたい。

2 まずは、PEDの威力について視覚的に理解していただくために、彼が二十歳頃、闘病前、そして、現在の写真を見比べて欲しい(いずれもBJJEEより転載)。

 20歳頃、闘病前の全盛期、そして闘病中の今の写真の3枚を比べれば、彼の身体の変化の凄まじさに驚く人は多いだろう。余談になるが、ゴードンはまだ27歳である。

 ゴードンがBJJを始めた時の最初の師匠はゲーリー・トノンで、ゲーリーの影響でゴードンも元々はレッグロック(足関節)の得意なグラップラーだった。


 たまたまゴードンが20歳前後の試合動画が残っていたので、上に掲載しているが、相手はプログラップリングで一昔前から活躍しているJASON RAWである(注1)。

注1)

戦績を見ても分かるように、彼は典型的なレッグロッカーである。

 これと比較して、全盛期のゴードンの試合の中で、もっとも「彼らしさ」が出ている試合を私が選ぶとすれば、ジェイコブ・カウチとの次の(去年の)試合になるだろう。


 ゴードンは、師事する相手をジョン・ダナハーに代えて以降(と言っても、ゴードンの師匠であったゲーリーもトム・デブラスが「自分の下にいるよりダナハーの下に行くべきだ」と言って、師弟共々ダナハーの弟子になるのだが)グラップラーとして飛躍的に伸びるのだが、このジェイコブ・カウチとの試合では、「スクランブルを可能な限り起こさせず、まずは相手を押さえて(コントロールして)、時間を掛けて詰めてタップを取る」というダナハーの柔術観を見事に体現している(注2)。

注2)参考までに、ゴードンはここ最近試合でレッグロックを使っていないが、勝ちに徹する時はいつでも使えるという事を示してくれた試合も紹介しておく。去年のADCCのニック・ロドリゲスとの試合である。

 
 ジョン・ダナハーがかつて次のように語っていた。
「身長、体重、テクニックが全く同じならば、筋量の多い方が絶対に勝つ。だから、私はゴードンに一日2時間のウェイトトレーニングをさせた」
 ジョン・ダナハーについてはこれまでに何度か触れたが、「柔術は力の弱い・身体の小さい者が、自分より力が強く、身体の大きいものに負けないための技術である」と繰り返し述べている。裏を返して言えば、ダナハーは一度も「弱いものが強いものに勝つための技術が柔術だ」とは言っていない。
そして、上に紹介した言にも表れているように、スポーツ柔術において「筋量」すなわちフィジカルが勝ち負けに直結する重要な要素であることを認めているのである。
 その意味では、ダナハーは護身術としての柔術を説くグレイシー系の人々とも、テクニック一辺倒のBJJ村の人々とも明確に一線を画している。
 ゴードンがPEDを使用するにあたって、ダナハーが関与していたのかは分からない。ダナハーがPEDについてどう考えているのか?について語った記事を残念ながら私は見かけた事がないので、この点については憶測でしか語れない。
 あえて想像を逞しくして、ダナハーのPEDについての立場を考えてみると、彼が頻繁に柔術メディアから取材を受けてコメントを出していながら、PEDについて全く触れていない所を見ると、PEDについては積極的に容認する気はないが、BJJやプログラップリングのトップレベルの選手たちが当たり前のようにPEDを使っている以上、これについては「好ましいことではないが、仕方がない」と消極的に容認しているのかもしれない。

 トップレベルの選手の多くがPEDを使用し、増強された筋量を用いた身体の爆発力で勝負しているのに対して、ゴードン以下ダナハー門下の選手達(最近では、ニコラス・メレガリが好例)が、「スクランブルを起こさせず、相手を抑え込んで、詰めてタップを取る」という試合を続け、ダナハーの指導の正しさを証明している。
 とは言え、ダナハーの「詰めて、サブミットする」という柔術観を試合で表現するためには、まず筋量を始めとするフィジカルを上げなければならなかったというのは、柔術を取り巻く現状を考えれば致し方ないにしても、実に悲しい話である。

3 ただ、武術に限らず人間の身体は一度ある動作をマッスルメモリーに覚えさせることが出来れば、脳が損傷しない限り、その動作を一生忘れることはないそうである。
 PEDを用いてフィジカルだけに頼った戦い方をする手合いと違って、ゴードンは筋量が落ちても技術は失われていないので、身体さえ戻ればまた第一線で活躍し続けるだろうと思う。

 プロは試合で超人のパフォーマンスを見せることで、観客を魅了し金を取る。素人は金を取る必要がないのだから、PEDを用いてまで超人を目指す必要はない。
 上を見ればキリがなく、下を見れば底なし沼である。比較の対象を昨日の自分に、目標を目指すべき明日の自分に設定すれば、上を見て嫉妬する事も、下を見てつまらない優越感に浸る事もない。試合に勝てずに迷っている人がいたら、誰のために何のために武術をやるのか?という、自分が武術に取り組む「目的」について今一度考えて欲しい。

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