合理主義者

1 急に寒くなったせいか、体調を崩している。毎日は無理でも、週に5~6日は記事を書きたいと思っているので、執筆が思うように捗らないのがもどかしい。
 だから私は、毎日記事を書き続けている方を見ると、その継続に対して素直に敬意を払う。毎日記事を書いている方だって、おそらく年に一度は風邪を引いたり、急な用事が入ったりする時もあると思うのだが、それでも書き続けようとする意思の強さが私には羨ましい。

 さて、今回は次の記事を読んで「合理主義」について思ったことを書いてみたい。


 彼が「時間の無駄」として、TVやゲームを挙げているのを聞くと耳が痛い。
 私の場合、ほぼ全くと言っていい程TVを見ないが、若い頃は人並みにゲームをやった。今になってその日々を振り返ると「時間の無駄」だったと言い切っていい。
 現実が逃避したいほど当人にとって過酷なのであれば、現実から一時的に退却して心身を休める事は必要だろう。だが、現実から逃避するためにゲームをプレイして、ゲーム内でのLVがいくら上がったとしても、当の本人は心身両面で何一つ成長していない。少なくとも私の場合、ゲームをプレイし終えて感慨に浸るよりも、それによって失った時間を後悔する事の方が圧倒的に多かった。
 
 「時間の無駄」というこの記事でダナハーが述べている話の対象はBJJに限らない。受験であれ、資格の取得であれ、今自分が成し遂げたい目標があるのなら、その実現にとっての最大の敵は「時間が有限である」事だと私は思う。裏を返して言えば、その目標を達成するために不可欠なのは「無駄な時間を極力減らし、時間を効率的に使う」というタイムマネジメント能力だと思う。
 「言うは易く、行うは難し」。BJJの稽古を例に取れば、今私が一日30分ゲームで遊んでいたと仮定する。これを3年続けるとどうなるか?
 (話を簡単にするために1年を360日とする)0.5h×360×3=540h。そして、一日の稽古時間を2時間とするならば、540÷2=270日の稽古日数に相当する時間をゲームに無駄にしている計算になる。
 270日と言えば、ほぼ私の1年半の稽古量に匹敵する。

「その無駄な時間を使ってスキルを習得できたら...3年以内に、あなたは人間としての自分を再創造出来たかもしれない」とダナハーは語っている。

 270日をドリルに費やせば、(私がそれを使いこなせるかどうかは別にして)べリンボロを覚えることも出来たかもしれないし、少なくとも現時点の私よりはずっと技術的には進歩していたはずである。
 残念ながら「失われた時」は返ってこない。その意味で、「過去は振り返っても仕方がない」。もし過去から何かを学ぶことがあるとすれば、それを活かすべきは今日から始まる未来においてであろう。
 
 先にも「時間の無駄」というこの話はBJJに限らず、何かを成し遂げようと考えている人に等しく共通の課題であると書いた。ある目標を掲げてその実現に中長期的に取り組んでいる人に向けて私から言えるアドバイスは、まずは「時間が有限である」事を認識する。次に、仕事(学校)や家族等どうしても削れない時間をリストアップして、最後に1日・1週間・一月の中からどうしても削れない時間を差し引いて、目標の実現に向けて努力する時間を最大まで確保する事である。
 そもそも努力する才能がない、という人を除けば(「努力する」のも立派な才能である)、上に述べたような適切なタイムマネジメントが出来れば、あとは目標の達成は時間が解決してくれると思う。
 
2 「合理主義者」というタイトルを付けたが、ここでいう「合理主義者」とは政治哲学的な文脈で使われるそれとは異なり、「目的に対して最も効率的な行動を選択する人」の意味で用いている。

 ジョン・ダナハーは、その意味でも極端な「合理主義者」と言っていいい。

 彼は道場の中だけではなく、道場の外でも一年中ラッシュガードで過ごしているそうである。
 
 その理由について、①(ラッシュガードは)着心地が良く、快適だ②簡単に洗濯が出来る上に、すぐ乾く③コンパクトに畳めるので荷造りが簡単で、合わせる服装を選ばない④日常着と違って、身体の動作を制約されない(スーツと比べれば一目瞭然である)、等々述べている。
 
 この記事を初めて読んだときに、ダナハーはどこまで本気でこれを言っているのか分からなかった。彼が1日12時間マットの上にいる生活をし、スポンサーのラッシュガードを着るのは、彼にとって仕事の一部だと思ったからである。

  ダナハーも結婚式を始め、ドレスコードのある場に赴く機会があれば、スーツを着る事もあるだろうと思っていたが、彼は私の予想の遥か上を行っていた。上の記事は、ヘンゾ・アカデミーの同門かつ友人のマット・セラの結婚式にも彼がラッシュガード姿で現れた話を書いている。
 どうもダナハーは「BJJの実践・コーチング」という彼の人生の目的に対して、徹頭徹尾効率的な行動を選択する人らしい。マット・セラの結婚式が終わったら、道場に帰って練習を再開してたのかもしれない。

 私も含めて普通の人であれば、冠婚葬祭等「ドレスコード」のある場にラッシュガードを着ていくことはない。「ドレスコード」を守らない人というのは、それだけで「マナーのなっていない」人と周囲から思われ、その振る舞いによって他者との協調性や常識の欠如を示していると見做される。
 だが、ダナハーにはそういう「周囲からどう見えるか?」という他者の視線ないし社会常識は、ニュージーランドに置いてきたのかもしれない。ダナハーは普通の人から見れば「変人」だが、それくらい突き抜けた人でないと、何事かを成し遂げる事は出来ないのかもしれない。

3 ダナハーの真似をしても、誰もがダナハーになれるわけではない。少なくとも私が道場の外でもラッシュガードを着て生活するようになれば、ただの「変人」としか思われないだろう。
 ラッシュガードの話は極端であるが、私も人生の折り返し地点を過ぎたので、残りの人生は「時間の無駄」を極力排して、もっと「合理主義的」に生きてみたいと考えている。

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