コアメッセージ

1 武術に関する記事(と言っても、ほとんど柔術に関する内容ばかりだが)を書き上げると、それが読者の方にとっても「面白い」か否かはさておき、それなりの達成感を得ることが出来る。
 これに対して、武術以外の記事を書いても、今ひとつスッキリとしない。後日それらの記事を読み返してみると、私自身が「つまらない」と思うモノばかりである。

 私の書いた記事がなぜこんなに「つまらない」のか?自分でもその原因がよく分からなかったので、数少ない友人に助言を求めてみた。
 友人からは、「君の(柔術以外の)記事には核となるメッセージがない。核となるメッセージがないのに、事物の良し悪しを論じても、その場限りの主張にしか聞こえない」というアドバイスを貰った。

 確かに、私の記事には「核となるメッセージ」が欠けている。「その場限りの主張にしか聞こえない」という点では、私の記事もヤフコメも変わらないという結論になる。
 ヤフコメが悪いというわけではない。私は一々コメントをチェックしたりしないが、ああいう自由にモノを言える場がある、という事実それ自体がこの国には表現の自由がある事の証だからである。
 ただ、せっかく自分の頭に浮かんだ事を記事としてまとめる以上は、自分なりに達成感を得られるモノを書きたい。

 核となるメッセージをどうするか?もし、それがある種の政治的主張や哲学的思想を意味するのだとすれば、例えば次のような内容であろう。

 ユートピアの実現を目指して、人民は団結し、近い将来この国でも共産革命を起こさなけばならない。あるいは、世界はディープ・ステート(闇の政府)に支配されており、ディープ・ステートから我々を救ってくれるのが正義のトランプである。・・・こうした党派的主張や陰謀論を書けば、極めて少数だが、コアな支持者にはウケるかもしれない。

 だが、私の政治的立場は凡庸な「保守主義」だし、哲学的には「相対主義」者なので、そこから何か強力なメッセージを生み出すことは難しい。

2 私個人の立場がどうあれ、(私が見た範囲では)世の中の圧倒的多数の人は共産主義や陰謀論にコミットしていない。彼らは「世界や社会がどうあるべきか?」を論ずる深遠な理想主義を語る前に、まずもって、自分の日常生活を第一に考える個人主義、現実主義者である。
 
 そう考えると、各種オピニオン誌で「社会はこうあるべきで、かくかくしかじか、今の世の中は間違ってる」と述べている知識人達(左右を問わない)も、本当は「個人主義」「現実主義」的な意見を持っているにも関わらず、雑誌の読者層に合わせてかなり無理をしているのではないかという気がしてくる。

 核となるメッセージがあるという代表例の一人が小林よしのりだろう。
 個人的には、彼の「先に主張を決めて、それを後付けるために事実を並べる」論じ方は好きになれない・・・「ゴーマンかましてよかですか?」というキメ台詞は、小林曰く「専門的知識人に対する敬意を表している」ものらしいが、私には、彼の主張が非科学的であるという批判に対する免罪符として使っているように見えてしまう。
 だが、地域や職場(さらには家庭)といった共同体が崩壊し、個人がアトム化する中で、国民を天皇の下に再統合し、個人の実存を回復しようという彼の核となるメッセージは常に変わらない。
 そういう発想が、「天皇の赤子」という形で国民を統合しようとした戦前の焼き直しだとか、古臭いとか批判する事は出来るかもしれないが、そのシンプルで力強い主張に惹かれるファンが少なくないのもよく分かる。

3 「モノを書く」という行為は、頭の中で雑多に存在する思索や思いつきの中から、「自分は何者か?」を切り出して、言語化する作業なのかもしれない。
 そうであるならば、私は自分探しを始めたばかりで、(キャリアの差を考えると)小林のような核となるメッセージが無くても当然だろうという気がする。
 今の私には、たとえ自分が読み返して「つまらない」記事であっても、それを書き続けて、自分を再認識し直す作業が必要だと感じている(もしかすると一生掛かるかもしれないが)。
 
 まあ、柔術に関する私の記事がそうであるように、自分を偽らずに書き続けていれば、だいたい記事は似たような内容にならざるを得ないので、「つまらない」記事の集積から自分を再発見する事も不可能ではないと思う。

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