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【中原中也詩集を読んで】


先日購入した、太田治子さんの著作

『中原中也詩集』について話していきたい。



汚れつちまつた悲しみに

今日も小雪の降りかかる

汚れつちまつた悲しみに

今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは

たとへば狐の革裘

汚れつちまつた悲しみは

小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは

なにのぞむなくねがふなく

汚れつちまつた悲しみは

懈怠のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに

いたいたしくも怖気づき

汚れつちまつた悲しみに

なすところもなく日は暮れる


詩や文学に特段興味がなくとも一度は冒頭の一説を耳にしたことがあるという人も多いはずのこの詩は、中原中也が生前刊行した唯一の詩集である『山羊の歌』に収録されている名作だ。

(元々は中也が友人達と創刊した同人誌『白痴群』に収録されていた詩の一つであり、後に『山羊の歌』にも載せることとなった)




この詩を読んだ時に僕は3つの色を感じた。

乱層雲からしんしんと積もる雪の色と、枯れた葉が寒風に舞う寂しい茶色と、徹底的に運命に打ちのめされた深い黒の色だ。

この詩は悲しく寂しいが、激情ではない。

雪の降り積もる静寂の空の下で静かに佇んだ中也が、独り言を呟くようにゆっくりと語りかけてくる詩だ。

中原中也という人間は絶望の中にいても最期まで明るく優しい人だったのだろう。

この本の著者である太田治子さんも同じようなことを言っているし、彼の人生とその作品に触れた今、僕の中の中也の人間像はそのように確立された。


この本の表紙には「絶望が言葉を生む」と書かれている。

芸術を必要とする創作者にとっては絶望が創作の父となることは肌身で感じられることだろうし、或いは「絶望から生き抜くためには創らなければならない」という感覚も理解してくれるはずだ、ら

僕たちの如き人間にとって創作は……敢えて汚らしい表現をしてしまうと、嗚咽や排便などに近い行為なのかもしれない。

心の中で暴走した痛みと苦しみを吐き出さなければ、機能不全で死んでしまう。

そして僕たちは創作という魂の自殺を何度も繰り返して、その度に蘇り現実世界に舞い戻ってくることができるのだ。

中也という人は、そういった人種の中でも特に創らなければ生きていけない人だった。

なぜなら彼もまた文学者として最も重要な素養となってくる『純粋性』を真っ白に有しており

優しく、無垢で、余りにも真っ直ぐな人だったからだ。


ところで僕は中也のことをよく知らなかった高校生の頃から、実は彼の影響を強く受けていた。

皆さんは一世風靡セピアというグループをご存知だろうか?

哀川翔や小木茂光ら7人で構成された音楽グループで『魁‼︎男塾』というアニメの主題歌において『汚れつちまつた悲しみに…』という曲を提供しているのだが、僕はこの曲に高校3年生の頃に大きく激励され、カラオケなどでしょっちゅう熱唱していた。

当時の僕は恋人と別れたばかりで大きな悲しみと喪失感に包まれていたのだが、その多感な時期の真っ只中この曲の力強い歌詞とヴォーカルに「しっかりしろぃ!!!!めそめそしとらんで前を向かんかい!!」と言わんばかりに背中を叩かれていた。


おそらく僕のようにこの曲に救われた人も少なくないのではないかと思うが、中原中也という人を知った今になり僕はこうも思う。

「この曲は、中也に対する激励の曲でもあるのじゃないだろうか」と。

そう考える理由を今から話していきたい。


まず歌詞の冒頭

「ああ、お前は今までなにをしてきたんだと風にふと問われた」

という部分だが、これは最初に紹介した『山羊の歌』に収録された「帰郷」という詩の最後の一節

「あゝ おまへはなにをして来たのだと……吹き来る風が私に云ふ」

のオマージュであることは明確だ。

「帰郷」は恋人である長谷川泰子が、中也の友人である小林秀雄と惹かれ合ってしまうという挫折などを体験するなかで、故郷を想いながら読んだ詩であり、僕はこの時の恋愛の敗者となってしまった中也に向けて一世風靡セピアが激励をしているのではないかと感じている。


以下は一世風靡セピアの曲の歌詞全文である。



汚れつちまった悲しみに
俺の青春もナンボのもんじゃい

あぁ、お前は今までなにをしてきたんだと
風にふと問われた
何処だ何処だと叫ぶ
俺の居場所を探す
どうせ1人もんよ
欲しいものは欲しいと云え
落とした宝物をひろいひろいまくれ

汚れつちまった悲しみに
時代がこうで悪かったのう
汚れつちまった悲しみに
いつか本気で笑おうや

確かにあった恋の
破れを繕うって今じゃ隙間だらけ
欲しいものを欲しいと云え
総てかなぐり捨てても惚れた彼女(やつ)を落とせ

汚れつちまった恋心
時世がこうで悪かったのう
汚れつちまった恋心
いつか本気で笑おうや

汚れつちまった悲しみに
時世がこうで悪かった
汚れつちまった悲しみに
俺の青春もナンボのもんじゃい


今この詩を書き写し改めて「中也がこの曲を聴いたら泣いてしまうのではないだろうか」と思った。

中也は先に述べた長谷川泰子と小林秀雄の恋に関して、自ら口を出さずに、2人が惹かれ合っていることに気づいていたにも関わらず大きなアクションを起こすことはなかったのだ。


そんな中也に対して

「欲しいものを欲しいと云え
総てかなぐり捨てても惚れた彼女(やつ)を落とせ」

と激しく背中を叩くような言葉掛けをして、その後には

「汚れつちまった恋心
時世がこうで悪かったのう
汚れつちまった恋心
いつか本気で笑おうや」


と優しく肩を組んでいる光景が僕の目には浮かんでくる。

中也のような「優しすぎる人」には、こう言った声掛けをしてくれる人もまた必要だったのかもしれない。


そして中也は彼自身が雄々しく他人に肩を組みかけるような人ではないから、だからこそ彼の詩には凛とした静けさと、悲しみによる寄り添いを感じることができるのだ。


中也の詩は慟哭的ではなく、秋の夕暮れのような寂しさの中に温もりを感じさせてくれる詩が多い。

そしてその詩を読んだ個々人が、彼の深い悲しみに共感し、涙し、彼と握手をすることにより明日を生きることができるのだろう。


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