人の気持ちなどわからない!
僕は「人の気持ちがわかる」という慣用語は好きじゃないし、そんなことは不可能なことだと思っている。
ハッキリ言って僕は人の気持ちなんて全くわからない。
そもそも人は自分自身の気持ちすらはっきりとわからないことだって少なくないのに、それでいて人の気持ちなんてわかるわけないし、もしも本当に人の気持ちがわかる人がいたらその方は多分エスパーだ。
僕は大学生の時に心理学を学んでいたので「やっぱり人の気持ちとか心がわかるんでしょ?」と尋ねられることがよくあるのだが、実際はその逆である。
心理学を学ぶほど人の心の複雑さや難解さを痛感することになるし、そしてなにより「今この人はこう考えている(感じている)に違いない」といった断定的な見方はできなくなっていく。
「生育歴や直近の出来事やこの人のパーソナリティから考えて,おそらくこの人は今こう感じているのだろう……断言はできないけれども」
といった感じの、根拠を基にした『推察』のパターンんがいくつか用意できるようになる程度であり、それが的を射ているかもしれないし、そうでないかもしれないというような非常にしょっぱい解答になるのが現実だ。
人の気持ちなどハッキリいってわかりようがない。
しかし僕は主張したい。
わからないからこそ『少しでもわかろうと努めること』が尊く誠実なのであって
『自分はこの人の気持ちがわかるなぁ』と信じてしまった瞬間
そこに傲慢さが生まれてしまい、相手を正確に理解することから離れてしまうかもしれない。
ということを。
自らの主観に身を委ねて他者を評価するのではなく、あらゆる可能性を考えて『推察する』ということは言葉を選ばずに表現すると非常に面倒くさいことだし時には苦痛を伴うこともある。
推察という行為にはある種精神修行のようなストイックさを求められるのだ。
しかしこれほどまでに「他人の気持ちがわかる」という言葉が気軽に多用されているということは、世の中には推察の技術を体得することなんかよりも遥かに耐え難い修行に打ち勝った人がごろごろと溢れていることになってしまう。
それは嘘だ。
他人の気持ちなんぞわかるわけがない。
もしも『他人の気持ちがわかる』という人がいるのならばその人は嘘つきかエスパーのどちらかである。
繰り返しになるが、僕は他の人の気持ちなんて一切わからない。
他の人が嬉しくても自分はその人ほど嬉しくはならないし、他の人が悲しくてもその人ほど悲しくはならない。
しかし「あ、今この人は嬉し(悲し)そうだなぁ」とその様子から推察して共感することはできる。
僕にとって尊いのはその営みだ。
さて、ここからは少し心理学の専門的な話になってくるが実は一口に『共感』と言っても共感には2つの種類があるので、今からそれらを紹介したいとおもう。
一つは「シンパシー」これは多くの人が直感的に理解しやすいと思うが、ここでは「情緒的共感」とでも表現しよう。
シンパシーとは他者の気持ちを「情緒的」に理解して共感する能力であり「他人が笑っていたら理屈よりも先に自分も笑顔になれる」「他人が泣いていたら理屈よりも先に自分も悲しくなる」といったような非常に感情的な共感の仕方である。
日常の中での他者への共感はもちろん、ドラマや映画などを見て溢れる感情もこちらの能力が働くことにより発生している場合が多い。
もう一つには「エンパシー」というものがあり、こちらは「思考的共感」と呼んでみることにする。
これは即ち「相手のことを直感的に理解できなくとも、自分のこれまでの経験や知識と相手に対しての観察を材料にして、思考を用いることにより自分を相手に重ねて共感していく」という方法だ。
僕個人の感覚で言えば「憑依する」「相手になりきる」というようなイメージを持つと理解しやすいと思う。
例えば僕はできることならなるべく人と目を合わせたくない。
一瞬程度であれば困らないのだが、3秒も4秒も目を合わせているとどうしようもない圧迫感に侵されてしまい、話に集中しづらくなってしまう。
できることならたまに一瞬目を合わせる程度に留めておいて、あとは互いに別の場所を向いていたり作業をしながら話している時が1番リラックスして会話ができる。
しかしこの感覚はスタンダードではないと知っているし、なおかつ自分のこの感覚を人に押し付けていたら「目を合わせることにより安心する人」の安心を阻害することになってしまう。
しかし僕にはどうしても「目を合わせた方が気持ち良くコミュニケーションが取れる」という感覚がわからないため
『なぜ多くの人は目を合わせたがるのか』ということについて様々な角度から学ばなければならなかった。
そうしてたくさんそのことについて学んだり、体験をする中で「目を合わせてコミュニケーション取ることのメリットとデメリット」やその根拠を自分の内で体系化して、そこから「目を合わせてもらえなかった時の不快感」をエンパシーを用いて共感できるようになった。
こんな風に『自分にとっては直感的に理解できない相手』を理解したいと願う時にエンパシーは非常に役に立つ。
そしてなおかつ人というのは人種や民族の数はおろか、更にミクロな単位である個人の数だけ自分とは異なる世界があるため『自分とは異なる相手』しか存在していないこの世において「他者の気持ちがわかるようになりたい」と願うのであれば、実際にわかるようになるかは別としても最低限の推察のスキルを身につける上ではエンパシーは必須の姿勢になってくる。
自分はどちらかというとシンパシーが弱くてエンパシーが強い方なので、いつも冷静に分析するタイプであった。
小さい頃から明らかに周りの人よりも変に達観していた部分があったし、みんなが喜んだり泣いたりするようなことでも全然感情が動かなくて自分は変なのかなと悩んだこともたくさんあったし、それを指摘されて「お前は本当に人の気持ちがわからないな」と言われることも少なくなかった。
しかし却ってそれにより今の自分が創られたとも考えられるので、僕はそのことに感謝すらしている。
さて、べらべらと持論を展開してきたが結局僕が主張したいのは次のとおりだ。
『人の気持ちなどわからない!』
わかるわけがないのである!
『人の気持ちがわかるようになれ』というのはよく使われる言葉であり
そういった言葉に違和感を覚えず自然と使っている人には驚くべき事実かもしれないが、意外にもこの言葉に傷ついている人は少なくないということを書き記しておきたい。
「お前は本当に人の気持ちがわからねぇなー」
こんなことを言われるたびに僕はいつも
(ということはこの人は相手の気持ちがわかるのか?)
(わかるというのならばなぜ今の僕の気持ちはわからないんだ?)
(人の気持ちというか『あなたの気持ち』でしょう)
というような疑問を常に抱いてきた。
僕は「人の気持ちに共感する」能力であるシンパシーとエンパシーを有している人には会ったことはあるものの「人の気持ちがわかる」テレパシーの能力を備えた人に出会ったことは未だかつてない。
思うに『人の気持ちを分かれ』の言葉を解剖すると
『広く一般的な感受性の人の感覚を絶対的なものとして普遍化して、それに自らを合わせなさい』
『そして私の感覚はその絶対的で普遍的なものなのだから、それに従いなさい』
という傲慢な意志が隠されているのではないかと僕は感じる。
今ハッキリ言えるのは、やはり他人の気持ちはどう頑張ってもわからない。
しかしわかろうと謙虚に努力することはできるということだ。
ただしそうやって努力したとて100%相手と同化することなど日常生活の営みの中ではまずあり得ないし、それゆえに僕は芸術を求めている。
(このことについては別の記事で詳しく話そうと思う)
僕が昔からお世話になっているヴァイオリン職人さんが先日「コミュニケーションというものは理論的に不可能だと思います」と仰っていたのだが、まさにそのとおりだなと感じた。
相手の気持ちをわかるわからないの以前に人は真に自分が伝えたいことの意味合いを表面的に相手に伝えることすらままならない存在なのだ。
そのことをまずはしっかりと理解し、自分と他人は全て異なると受け止めることが他者を理解する姿勢の第一歩なのではないだろうか。
だから今、同じように「自分は普通じゃない」「自分は人の気持ちがわからない」と悩んでいる読者の方がいるとしたら、何も気にすることなどないと伝えたい。
あなたのその感覚は決しておかしくないし、そう思えているあなたが本気で願うとすれば『人の気持ちがわからない』が故に誰よりも『人の気持ちに寄り添える』人になれる可能性を秘めているからである。
2024/06/27
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