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『発達障害者としての僕』に対する洞察①

僕は、自分自身が発達障害の身にして、所謂「療育」という仕事をしている。

高校の時に心理学の本を読み耽っていた親友に「キミたぶんAD/HDだよ。」と言われたことをキッカケに心理学に強い興味を抱いた。

発達の疑いがある人が、実際に診断を貰った時の心境は様々だが、僕の場合はすぐに診断を貰わなかったものの、AD/HDについて独学で調べている中でとてもワクワクした気持ちになったことを今でもハッキリと覚えている。

今まで多くの人から奇人変人として不思議な目で見られ、常に独立し続けていた自分の世界が初めて外界と溶け合う感覚に陥った。

まるでこの世界そのものの壮大な謎が解き明かされたかのような、清々しく胸の踊る神秘的な体験であった。

田舎の育ちである僕は、幼い頃から年齢を問わない周りの人間から不思議の対象として認識されていた。

ある時は面白がられ、ある時は感心され、またある時は煙たがられ……目立たない日がないといっても過言ではないくらいに常に良くも悪くも注意を引いてしまっていた。

それは僕自身が狙って変な発言や行動をしているからではなく、全く自然のうちに滲み出る所作の一つ一つがいつも他人を驚かせてしまっていたに過ぎない。

そういう体感をしてきた人間には、ある一つの観念が胸のうちに生じる。

「普通になりたい」という、願望である。

僕があまり好きではない言葉や考え方はいくつかあるのだが、まず一つは「普通なんてないよ」という言葉だ。

「だからキミは普通じゃなくてもなにも気にすることはない」というメッセージを込めての善意の言葉には違いないと重々承知しているのだが、自らも幼い頃から常に面白おかしい目で見られ続け、統合失調症の母もクラスの人間から笑われ続けてきた僕は「普通というものは確実にある」ということを28年の生涯において肌で感じ続けてきた。

「子どもが障害なら親も障害だ。どうせお前の父親もなんか障害あるんだろ」という言葉をかけられたことも記憶に染み付いている。

話が逸れてしまったが、僕がこの言葉が嫌いな理由はもう一つある。

それは、この言葉を使う大抵の人が健全な環境で健全に育った普通人だからという点だ。

稀に本当に辛くて孤独な境涯を生きてきた人がこの言葉を発する場合がある。

その際に僕は深くシンパシーを感じ、心の底から手を取り合うのだ。

その言葉には嘘がなく、またその人の生傷の数々が刻み込まれた美しい裸体としての言葉であるから、同じ表現を行うにしても、誰が言ったかでリアリティが全く異なってしまうのである。

話を戻して、普通人の言う「普通なんてない」という言葉は、木石のように硬く無機質だ。

本当に飢えたことがなく、心の底から貧しい思いをしたことのない人間が放つ「幸せは金じゃ買えない」という言葉に非常によく似ている。

真に自分で体験し、考え抜いた上で出てきた魂の訴えではなく、借り物の思想、借り物の言葉である。

まさに自らの暴力に無自覚な「普通の人」から生まれてくる虚無に満ちた言葉だ。


そうやって世間……即ち「普通」から「普通などない」と言われ(だからお前の苦悩など知ったことではない)と突き放されてきた経験が重なるうちに、僕は「人に広く深く優しくするためには勉強が必要だ」というビリーフが生まれた。

なお、これまで散々「普通などない」という言葉に嫌悪感を露わにしてきたものの、僕自身も実のところ考えようによってはその言葉に強く賛成している側面もある。

感情論ではなく論理的に話しをしてみよう。

「普通などない」これは確かにその通りだ。

遺伝子上ほぼ同じと見られるような人間であっても、全く同じ人間というのは誰1人いないはずである。

従って、人と接するにあたって全人的に有効なコミュニケーション方法や言葉がけ、対応方法などは存在するはずがなく、バイアスを排除したうえで相手を個別化して捉えることが必要になってくる。

これは、対人援助の行動規範である「バイスティックの7原則」の1番初めにも書かれていることだ。

しかし、それを高いクオリティで実行するためには最低限「類型論」と「特性論」という大雑把な概念を知っておくことは大前提であるし、更にそこからパーソナリティについてや、脳について、神経、生理学、哲学、宗教、人文学など様々な「人間に対する知」を身につけなければ、高い精度で個別化して相手を捉えることは不可能に近いと思う。

しかし「知識」だけを有していて、相手を常にテンプレートに当てはめてしまうこともよろしくない。

しっかりと自分の体験や想像の力を駆使して、相手の境遇に想いを馳せることを抜きに、真に個別化して他者を見ることは不可能だ。

つまり、「個別化して相手を洞察する」ということはそれほどまでに困難で、一つの綺麗事だけでなんとかなるようなものではないということである。

その前提を持った上で、僕は「普通などない」という言葉に対して肯定的な意見を表明しよう。


少し論理的な話になってしまったので、僕の主観にスポットを当て直そうと思う。



冒頭で僕は「AD/HD」という概念を知った時にとてもワクワクしたと話した。

この言葉の真意を語る上で、さっきまでの吐き捨てるような愚痴は必要不可欠な要素だったのである。


なぜなら、僕の世界を神秘と知の世界に導いてくれた心理学という存在が突き破ったのは、いつも暗雲としてこの視界を遮り続けてきた普通人の一般論だからだ。

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