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菜食主義と肉食主義

主義主張はほどほどに。

菜食主義の方の主張としてよくあるのが、動物を保護すべきだというものである。現代行われている家畜や飼育方法が、動物の福祉を考慮していないから、動物のそうした処遇をすこしでも減らすために動物性食品を食べない。

おおよそこういった主張である。なるほど、理論的ではある。かわいそうだから、食べない。どうぞ、ご勝手にという感じなのだが、1つ疑問に思ところがある。

植物はいいんだ。

動物には感情があり、痛みを感じるから、それをかんじさせるのは虐待だ。牛を搬送するときに嫌がる様子を見れば一目瞭然ではないかと。

なら、小麦やキャベツは、痛みを感じていないと言い切れるのか。植物の痛みは分かりにくいから、ビーガンの人は無視しているだけなのではないかと思う。

観葉植物を育てていると、成長に伴いより大きな鉢に植え替えることがある。植え替え後は、ストレスで元気がなくなることがある。ストレスを感じているのだ。植物にも感情や痛覚はあるのではないだろうか。本当にあるかどうかが問題ではなく、動物を食べないというのであれば、植物も取らない、一切何も摂取しないのが道理ではないかと言いたいのだ。

動物にだけかわいそうという感情を寄せて、動物を保護している自分に酔っているだけではないのではないだろうか。動物は嫌がっていると自分に都合のいいように、勝手に解釈して動物をとらないという姿勢は、動物の保護になっていない、自分のアイデンティティのためにそういう感情を利用しているに過ぎない。

気を付けたいのが、自分と自分ではないことには超えられない壁があるということだ。わかりやすく言えば、僕は、僕の友人には絶対になれない。同じ経験をして、その人の気持ちをどれだけ慮っても、自己と非自己には必ず壁がある。

広げて考えると、人間と動物にも超えられない壁があり、人間がどれほど叡智を駆使しても、動物を理解するには限界がある。ある程度の理科ができても、それは、人間の理解に過ぎない。真の理解とはいえない。

動物がかわいそうと思うのは、穿った見方をすれば、人間の決めつけに過ぎない。本当に動物が負の感情を持っているかどうかは分からない。嫌がっているかもしれないが、推測の域を出ることはない。勝手にかわいそうと決めつけて無理に助けようとするのは、自分のエゴに過ぎない。

テレビ番組がアフリカで井戸を掘ったり、某チャリティ番組が障害を持つ方の企画をするのと似た感覚である。自分が気持ちよくなっているだけの偽善に過ぎないかもしれない。

動物を保護するのは重要だし、それを否定する気持ちはない。ただ、保護するという気持ちに無意識に潜む決めつけと助けている自分への陶酔に気を配る必要もあるのではないかと思う。

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