僕と若子の真実
(14898文字)
「おいタケル、明日暇か?」
鹿本義昭が赤ら顔で聞いてきた。酔っているせいか機嫌は良いようだ。
「まだこっちには居る」と、タケルはとりあえず適当に答える。
「じゃあ、12時に俺ん家これるか?」
「あしたお前の家に行けって?」
「そう言ってるだろう」
我ながら頭の悪い会話である。自分もかなりアルコールが入っていることを自覚する。
しかしいくらアルコールが入っているとはいえ、いい歳をした大人が、この時間に明日の昼の約束をするというのもいかがなものか、と思う。ただ、このようなやりとりに嫌悪感を抱かないのも、同窓会特有の雰囲気のなせる技かもしれない。もちろん、鹿本義昭特有のパーソナリティによるものも大きい。
「そんな昼のどまん中から何するの?」
「何もしないけど、昼飯は準備しておくよ。若子も会いたがってた」
「そう、今日来てないよね」
「あんまり来たくないんだってさ。こういった場は苦手だそうだ」
「へえ、そうなのか。昔はそんな感じでもなかったけどね」
「お、出たね、幼馴染感。旦那のまえでいただけませんな」
これは本当にふざけているようである。ジョッキに半分ほど残っているビールの水面が揺れている。やはり機嫌はよさそうだ。
「そんなんではないよ。なんかあいつ、リーダー格だったからさ。同窓会とかだったら幹事してても驚かないけどね」そういって自分のビールも少し飲む。「ま、旦那の前で見せる姿が本性でしょう」
「あいつさ、あんまり外に出たがらないのよ。人に会いたがらないというかさ。友達少ないわけでも無いのに、付き合いもほとんどないんだぜ。確かに、学生のころとはイメージ違うかもな」
いつの間にか鹿本のジョッキは空になっていた。ごく自然な動作で、店員を手招きしている。
「ま、人は変わるもんだ。そんなあいつをもってして、お前には久しぶりに会いたいらしいぜ。さすが幼馴染」
そう言った後、寄ってきた店員にビールを追加した。
若子とタケルは、幼馴染以上に親密な関係ではある。それは、若子の結婚相手である鹿本義昭も了解するところである。
若子の両親は、若子が6歳の時に火事で亡くなった。石油ストーブが火元であったようだ。若子はその時はたまたま親戚の家に預けられていて無事だった。
それまでは両親と三人暮らしだった若子は、天涯孤独の身となった。そんな若子を引き取ろうとした親族は数組はあったらしい。
若子の両親は資産家であった。
若くして事業に成功した若子の父親は、都心のマンションをいくつか所有し、人に部屋を貸したり売ったりしながら、自らは事業から身を引き、田舎暮らしをしていた。所有していたものは、軒並み立地の良いマンションだったから、放っておいても、働くのがバカに思えるくらいの所得はあったようだ。不動産を持っているだけで、手元の資金が増えていった時代である。
若子の家族が暮らしていた田舎の自宅は、控えめに言って大豪邸だった。その豪邸の裏手の山も、若子の父親の所有物だった。それらの資産が全て当時6歳の若子に引き継がれた。そのような遺言が、弁護士に渡されていたためである。
当然、後見人が必要になる。若子を率先して引き取ろうと言ってきた親族は、いずれも若子を不憫に思ってのことではなく、若子に引き継がれた資産を狙っているのは明らかだった。若子が成人したら若子のものになってしまう資産ではあったが、それでもそこに価値を見出す人間も多いのだ。
若子を本当に不憫に思って引き取ったのが、タケルの両親だった。若子の資産を狙う親族どもとどのような交渉をして若子を引き取ることになったのかは定かではないが、少なくとも若子自身はタケルの両親と共に暮らすことを望んだようだ。
タケルは当時10歳だったので、若子をめぐる親族同士のゴタゴタについては蚊帳の外であった。だからこれらの情報はほぼ全て、若子自身と、タケルの家の近所に住む世間話好きの隣人たちから聞いたことである。
彼らはみんな、タケルの両親のとった行動を褒め称えていた。タケルにとっても、それはとても誇らしく感じるところであった。若子に聞いても、「私のことを本当に心配してくれたのはタケルくんの両親だけだった」と言われた。とても嬉しく思ったものである。
急に出来た家族に対するわだかまりが無くなるまで、時間はかかったが、若子が小学校を卒業する頃には、特に違和感なく話せるくらいにはなっていた。
若子は、幼くして両親をなくした悲劇の少女であったが、そんな悲壮感は全く見せない、明るく矍鑠な女の子に育っていた。
「確かに私のお父さんとお母さんは火事で死んじゃったけど、でもその時は私はまだ6歳だったから、死ぬって言うことの意味とか悲しさとかってよく分かってなかったんだよ。だから悲しくもなかった。もう会えないんだ、とは思ったよ。でもその、会えないんだ、っていう悲しさは、幼稚園の年少の先生が転勤で別の幼稚園に行くからもう会えない、っていう時の悲しさと同じだったな。周りが思っているほど悲劇を感じてなかったんだよ」
後に飄々とそのように述べる若子は、しかし両親不在で親戚に育てられたその環境からか、実年齢よりもずっと年上に見えた。
一方で、若子を我が子同然に扱い、育て上げたタケルの両親は、タケルが大学2年のときに失踪した。
ある日急に、本当に、居なくなった。
タケルも若子もとても心配して探し回った。当然警察にも届けて、事故と事件の両面から捜査はされた。しかしこれといった進展もなく何の手がかりが見つかることもなく、いつの間にか捜査は終わっていた。
タケルの両親は、今も生きているのか死んでいるのかわからない。中途半端な状態と言える。しかしタケルは、自分で思っていたよりもはやく立ち直ったと感じている。居ないなら居ないなりの生活にシフトしていかないといけないだろう、という感情は、自然に湧いてきた。思春期モラトリアムを引きずっていて、そこから抜け出すためのフックを求めていたのも一因だろう。
じきに就活を始めないといけない時期だったから、ただでさえ自分と向き合い悩むことが多かった。
両親については、自ら選択してタケルたちの前から居なくなったのかもしれない。もしそうであれば、何も言わずに姿を消す、それなりの理由があったのだろう。タケルや若子の把握していない大きな悩みがあったのかもしれない。
もちろん、何か事件や事故に巻き込まれた可能性はある。しかし失踪して以降特に変わったことが起きたわけではない。ひょっとして若子が相続する資産を狙ったものではないか、という想像もできた。しかし、若子はまだ未成年ではあったものの、両親の残した資産の用途を自分で判断できるくらいには大人だった。もう以前のように、若子を引き取りたいと申し出る親戚もいなかった。
両親が居なくなった理由については、これ以上思いを馳せることに意味はない、タケルはそう結論付けて前に進もうとした。自分の今後のことを考えるべきだろう。ショッキングな出来事であるからこそ、ポジティブな思考で乗り切ろうとしていたのかもしれない。一種の天邪鬼であるとさえ思う。
ただ、無理やりポジティブな思考に切り替えたものの、無理をしていることには変わりはない。就活では、なるべく地元から遠いところを職場にしようと考え、無事に県外の商社に就職した。それ以降、地元には極力帰ってこないようにしてきた。それは、両親失踪という出来事がタケルの人生に落とした大きな重しによるものだった。
この同窓会が、ほぼ7年ぶりの帰郷である。もう帰ってくることはないだろうと思っていた。にも関わらず同窓会の案内に反応したのは、両親に対する何となくの罪悪感であるからだと言える。タケルとは関係のない物語の中で失踪した、と思い込んだところで、それはタケルにとっては”逃避”でしかなかった。結局のところタケルは、両親失踪という出来事に、真正面から向き合うことから逃げてきたのである。
同窓会がお開きとなったのち、鹿本に2次会に誘われたが断った。1次会が思いのほか楽しかったため少々悩んだが、疲れた体を休めたい思いが勝った。鹿本は別の友人を数名誘って2次会に行くようだった。別れ際に、
「じゃあ、明日12時にな。若子と待ってるよ」と言われた。明日会おうというのは冗談ではなかったようだ。
ホテルに着いたら、風呂も入らずにすぐに寝てしまった。夜中に起きてシャワーを浴びてからまたベッドに入ると、次に気づいたときはもう朝9時をすぎていた。慌ててもう一度シャワーを浴びてから朝食をとり、最小限の荷物でホテルを出た。
タケルの地元は、最寄りの駅からタクシーかバスで10分ほど山手に入っていかなければならない。田舎である。
駅前にはたまたま空車のタクシーが停まっていた。時間的なロスはなく、約束の時刻の15分前には鹿本宅に到着することができた。
玄関のインターホンを鳴らすと、しばらく待ってから鹿本の声で応答があった。玄関の扉が開くまでさらに数十秒の待ち時間があった。田舎の家は無駄に広い。玄関の扉が開かれるまで、タケルは「鹿本義昭 若子」と書かれた表札を見ていた。このように未だに堂々と表札を掲げているところが田舎っぽいな、と考えているうちに鹿本が玄関から顔をだし、タケルは室内に案内された。
「昨日は休診じゃなかったんだろ?よく同窓会来れたな」
廊下を歩きながら尋ねる。歩きながら質疑ができるほど長い廊下があるのも、田舎の家の特徴である。
「土曜日は診療終了が早いんだ。急患がない限りは15時には終われる」
鹿本は医者で、この田舎で個人医院を開設している。鹿本の両親は共に医者ではない。譲り受けるものが何も無い中で、この若さで自分の医院を開設したのだ。若子がもっていた資産のおかげでもあるだろうが、鹿本本人の力も大きいのだろう。
地元出身の医者が医院を開院すると言うことで、昔からこの地に住む人々にはとても喜ばれたようだ。半ば年寄りの溜まり場となっているようではあるが、医院も繁盛しているらしい。
鹿本は、大学卒業後は県外の大学病院でしばらく働いていた。大学病院勤務の3年目に、鹿本は若子と結婚した。タケルは、鹿本と若子が二人揃って報告に来るまで、この二人が結婚するなんて夢にも思っていなかった。それだけに無茶苦茶びっくりした。隠すつもりはなかったが言うタイミングもなかった、とその時二人からは言われた。確かに当時のタケルは、県外で一人暮らしをしていて地元にはほとんど帰ってなかったし、たまに帰っても、必要な用事を済ませたらすぐに一人暮らしのマンションに戻ってしまうありさまだった。
鹿本と若子の結婚については、心から祝福もした。タケルは、鹿本のことは親友だと思っていたし、若子のことはその時はすでに、兄として誇れる妹であると思っていた。
実をいえば、若子に対して淡い恋心を抱いていた時期もあった。そのときは、若子も自分のことを異性として意識しているに違いない、と考えていた。しかし、その恋心は成就しなかった。別に振られたわけではない。なんとなく恥ずかしさとないまぜになった好意を抱いたまま、しかしタケルも若子もその思いを言葉にすることはなく(そもそも若子の思いはわからずじまいであるが)、物理的に二人の距離が遠くなってしまったのだ。
その後若子は鹿本と結婚するに至るわけだから、若子の方は最初からタケルのことなど眼中になかったのかもしれない。タケルの方も、県外での一人暮らしに慣れると、若子に抱いていた好意などは、まるで夢の中で食べた異国料理のように、現実感を失っていた。失恋として引きずることもなかったので、実はたいした想いではなかったのかもしれなかった。
だから、2人の結婚を聞いたときは、「やはり若子の相手は自分ではなかったか」という、諦めにも安堵にもとれる思いを抱いた。
2人の結婚式ではタケルは、余興として2人のためにギターの弾き語りを披露した。いとしのエリーをフルで歌い上げた。それくらい二人の結婚は無条件に喜ぶことができた。
鹿本義昭は、若子と結婚して1年後に、地元に戻って個人のクリニックを構えた。そのクリニックは、若子が両親と暮らしていた土地に建てられた。
かつて火事が起こり、住んでいた夫婦が死亡し、その子供は親戚の家に引き取られた。…そう書けばずいぶん曰く付きの土地である。そこに医院を建てようというのだから、これにもタケルは驚いた。その土地はすでに名実ともに若子のものとなってはいた。しかし、過去に事故が起こった場所に医院を立てるというのだから、神経がずぶといとも言える。タケルは正直、そんなところに建ててもだれも寄り付かないのでは、とさえ思った。その心配は杞憂に終わるのだが、それは鹿本と若子が地元の人たちに愛されているからだろう。
リビングルームに通されると、となりのキッチンで若子が料理をしていた。
「タケルくん、すごい久しぶり。変わってないね、元気だった?」こちらを一瞥して言う。料理の手は止まっていない。
「うん、まあね。そっちも変わりない?」
「変わりないもあるも、もう私もすっかりおばさんだよ。変わりあるかないかって言えば、それは変わりあるよ」
そうは言っても悲壮感などなく、その話ぶりが以前のままで、タケルはとてもうれしくなった。
「いやあ、10年ぶりってところか?」
鹿本がわって入ってきた。
「大学卒業以来だよな」
「そうだね、あれ以来、こっちには来てない。いや全くないわけじゃないけど、全部蜻蛉返りだったよ」
「もっと帰ってきなよ。接待するからさ」
そのように言って笑顔をみせる若子も、やはり昔と比べても変わっていないように見える。
「ご飯食べたらさ。散歩しようか。見たことないでしょ、鹿本クリニック」
「ないね、ここに来る途中に見てこようかとも思ったけど、やめておいた」
「結構人気あるんだぜ。俺たち地元の星だからさ」そう言って目を合わせてはにかむ二人はとても幸せそうに見える。
昼ごはんは若子が作ったチャーハンだった。いつだったか、この3人で同じようにチャーハンを食べたことがあった気がした。夏の暑い日だった。タケルが高校生のときだっただろうか。どこでだったのかは思い出せない。あの頃から鹿本は若子を異性といて意識していたのだろうか。
昼食後は3人で歩いて鹿本クリニックまで出かけた。歩いて20分ほどの距離である。汗をかき始めた頃に到着した。待合室のエアコンを入れて、椅子に座る。
「休みのクリニックに入るっていうのも、なんとなく背徳感あるだろう」と鹿本が茶化すように言う。
「ないよ」と答えて、なんとなく周りを見渡す。
「お前の家からの散歩コースとしてはちょうど良い距離だな。常にエアコン入れておいたら良いんじゃないか?」
団扇で仰ぎながら答える。
「でっかいエアコン買ってさ、家のエアコンの温度と一緒か、ちょっと低いくらいの温度にするんだけど、びっくりするくらい電気代高いんだよ」
と若子が言う。たぶん、出納関係を掌握しているのは若子なんだろう。
ふと窓の外を見ると、明らかに古い建物が目に入った。この医院は建てられて数年で外観もまだまだ新しいので、最新の医院の待合室から見える景色としては、明らかな違和感がある。
「あれってさ、昔からある酒蔵だよな」
「そうだよ、私が知る限りは物置だね」若子が言う。
「ここを建てるときにさ、あれも壊してしまおうとしたんだけどさ。こいつがどうしても残したいって言うから残したんだよ」
鹿本が若子を指差しながら言う。
「やっぱり何か一つくらいは残したかったんだよね。別に未練とかは全くなかったんだけどさ。でも、唯一、私が小さい頃からずっと建ってる建物だしね」一呼吸置いて「ま、これくらいの歳になると、ノスタルジー感じるものも必要かなって」
未練とかノスタルジーとか、そういった言葉が若子の口からでることが、年月の流れを感じさせる。
若子と両親が暮らしていた家は、若子の両親が亡くなってからは空き家同然だった。タケルの両親は、稀に訪れて簡単な清掃くらいはやっていたらしいが、若子自身はあまり寄り付かなかった。過去に一度、高校生のときだったろうか、その話をしたことがある。
「過去に未練はないよ。両親が亡くなったことは、まだ私の中で消化しきれてないかな。でもさ、それでも前に進むしかないじゃん。私が前に進むためにはね、私が両親と暮らした旧家は、私にとっては邪魔な存在なんだよ。言葉は悪いけど、今は養われの身だからさ、自由に身動きはできないの。でもいずれは、私の旧家は手放すつもりだよ。そしてたぶん、その頃は、私は生まれ育ったこの町を出ていくことになると思う」
というのが、その時の若子の解答だった。幼いときに両親と共に暮らした家が、幼くして天涯孤独となった身にしかわからないしがらみとなって、若子を苦しめているのだ、とタケルは感じていた。
いずれ手放す、というのも、私は故郷を出ていく、というのも、そのときの若子の本心であったろう。
しかし今は、若子はこの町に住み続けているし、旧家はクリニックに立て替えたとは言え、酒蔵は当時の趣のままに残っている。若子の人生は若子の思い通りにはいかなかったのかもしれない。
しかし、今現在において幸せを感じていれば、それはそれで良いことだろう。その幸せの元は、鹿本義昭でありタケルではないことに、若干の青春のほろ苦さのようなものも感じないではない。そういったことも含めて今、少なくとも若子が幸せを感じているのなら、タケルが後悔を感じることもない。
「よくあそこで遊んだな」
窓越しに、当時の趣のままの酒蔵を見ながら、ふとつぶやくように言う。
「そうそう。かくれんぼにはもってこいだったね。あと、一人になりたい時もあそこにこもってた」
確かに、幼いタケルと若子にとっては秘密基地のような位置づけであった。
「あそこの中ね、一人でいても全然退屈しないんだよ。いつの時代のものかわからないものがいっぱい出てくるの」
「確かに、物だけは多かったよな。中も変わってないの?」
「変わってないよ。あの中整理するのって絶対大変だよね。だからわざわざ壊さなかったんだよ。いつか掘り出し物が発見されるかもしれないし」
「いつか、誰かがね」
「タケルくんってさ。結婚はしないの?」
唐突に若子が尋ねてくる。タケルは話題の転換にすぐについていけない。
わずかな沈黙の後に、
「うん。ま、するかしないかはまだ分からんね。少なくとも、今はしていない。予定もない」
と返す。
「それってさ、ご両親の失踪と関係ある?」
なかなかの直球を投げてくるな、と思う。若子とタケルの関係だから成り立っていると言える。
タケルの両親の失踪がタケルの人生に重く暗い影を落としていて、そのことについてタケルが今も思い悩んでいるのではないか、と心配してくれているのだろうか。疎遠になっているとは言え、タケルが今「家族」と言えるのは若子だけである。そう考えると、涙が出そうになるくらい感慨深い。
「何だって何かと関係あるもんだ。両親が行方不明になるなんて誰にでもあることじゃあないし、そのせいで俺の結婚観に修復し難い傷が残っても、なんら不思議ではない」
「なにそれ、ふざけた言い方。そういうのって照れ隠しだよね。ああ、私ってば、また的を射てしまったか」
見透かしたようなことを言う。
「あまりそういったことを面と向かって言われることはないもんでね。まあただ、もういい大人だし、ほとんどの問題は自分一人でも消化できていると思う。いずれしても、若子に心配されるようなことではない」
「偉そうだね。やっぱり照れてるじゃん」
そう言ってしばらく沈黙が続いた。この話題でこれ以上話すことはないようだ。タケルとしてもあまり流暢に話せるような内容ではない。若子も、自分から話しておいて、気遣っているのだろうか。
いくら心配だと言っても、ここでタケルの両親の失踪事件の話を持ち出す理由はなんだろうか、と今一度考えてみる。二人で酒蔵を見ていたときに、幼い頃に一緒に遊んだことを思い出し、当時居たタケルの両親に思いが傾いたのか。
「あそこはね、秘密基地なんだよ」とまた唐突に言う。話題を変えたようだ。「暗いしじめじめしているし、冬は冬で無茶苦茶寒いし、あんまり積極的に来ようと思える場所ではないんだ。でも、タケルくんのところに引き取られてからは実家には私は寄り付かなかったけど、あの酒蔵だけは良く来たんだ。タケルくんと遊びできた時以外でも、私一人でも」
「へえ、初耳だね」
確かに、この薄暗くて物が多い空間は、小学生にとっては興味が注がれやすいだろう。タケルもここで若子とかくれんぼをよくしたのを覚えている。
「思い出がね、いっぱいあるんだよ。タケルくんとかタケルくんのご両親とかのも、私一人で来た時とかのも。もうさ、私の周りにはあの時いた人たちはいなくなっちゃって、思い出の中にしかいないんだけど、あの酒蔵を見たり、中に入ったりすると、その思い出が凄い蘇ってくるんだ。そういうトリガーの役割をあの酒蔵はしているの。あそこつぶしちゃったら、そんな思い出も全部無くなっちゃう気がしちゃって、結局残すことにしたの」
「以外だね。そんなセンチメンタルだったっけ?」
若くして天涯孤独となった故の処世術として、”誰にでも優しいけど、誰に対しても執着がない”といった生き方をしているように思っていた。人との思い出の場所を、そのまま残したい、なんて思うようなタイプではなかったと思うが。
「ま、でも、いいんじゃないか。帰る場所っていうのはいくつか持っておきたいもんだ。心の中だけではなく、物理的にもね」
「その台詞、そっくりそのままお返ししますよ。もっとこっちも顔出せばいいのに」
「うん、それはまあ、そうだな」結局この話題に帰ってくるところに、若子の掌の上で走り回っているような錯覚に陥ってしまう。「確かに、俺も今日ここに来る途中ですごいノスタルジーを感じたよ。故郷感がすごかった」
「帰ってきたってことですよ。故郷に」屈託ない笑顔で若子が言う。
「心の中のじゃなくて、物理的にね」タケルもつられて笑っていた。
「はいはい、あんまり旦那を置いていかないように。幼馴染トークも良いけど」
いつの間にか鹿本が二人の後ろにきていた。いつの間にか診察室に行って、いつの間にか戻ってきていたようだ。
「どうよ。結構良いクリニックだろ?」
「思っていたよりモダンなデザインだね。田舎の老人にはウケが悪いんじゃないか?」
「ところがところが、結構なかなか評判は良い。そのあたりの公民館とは雰囲気からして違うから、ここにくるのが癖になっちゃうご老人も多い」
「ま、自分で言えてる分には幸せなことだと思う」
「ねえ、ちょっとさ、あの酒蔵に寄ってかない?」若子が唐突に提案した。
「あそこ?寄って言っても良いけど、なんもないじゃん。お前も普段全然いかないのに」鹿本はすぐに反応する。
「タケルくんと久しぶりに会ったから、ちょっと寄りたくなったんだよ。我らが心の故郷なんだから」屈託のない笑顔ではあるが、どこか寂しげなものも感じた。
「ま、別に良いけど。幼馴染同士つもる話題もあるでしょうし」そういう鹿本ではあるが、決して不機嫌ではないようだ。「俺はここで待ってるよ。二人で行ってくれば」
クリニックの玄関を出て、建物をほぼ半周、玄関の反対側まで歩く。酒蔵の周りは茂みになっていて、手入れされた形跡はない。クリニック側から酒蔵の入り口に通じる道の部分のみ、人が通る部分は草が刈られた形跡はある。そこだけ草の丈がタケルの足首くらいまで、それ以外は膝くらいまであった。
歩いてる間は、若子の後ろをタケルがついていった。若子の足取りは軽い。
「良かったのか?旦那を置いてきて」
いくら幼馴染だからと言って、若子と二人きりになることには若干の後ろめたさがあった。
「良いの良いの。あの人、この中苦手なんだよ。私以上に寄り付かないもん。ま、暗いしじめじめしているし、あんまり好きな人もいないだろうけどさ」
それはタケルの質問の答えになってないと思ったけど、これ以上はつっこまないことにした。
若子が鍵を開けて中に入る。
「あ、照明は壊れてて修理もしてないから、点かないから気をつけてね」振り返って言う。「天井の窓から光は入ってくるから、そこまで暗くはないけど」
たしかに、天井まで吹き抜けとなっているところは天窓からの光があり明るい。その周囲、天窓の光が2階部分の張り出しに遮られているエリアは、急に暗くなる。壁際は暗くて何が置いてあるのかもわからないが、中央部分はそれなりに明るいことになる。
なかに入って明るいところまで歩き、周囲を見渡す。空気中を舞っている埃が目で見てとれる。
タケルがこの酒蔵に最後に入ったのは、いつだったろう。あまり詳しく思い出せない。小学生の頃はよく来ていたけど、中学生になったらほとんど来なくなった。でも確か、大学生の時に何回か来た記憶はある。あれは確か、タケルの両親が失踪して数週間経った時。あの時も若子に呼び出されて、ここに連れてこられたのだ。
「懐かしいね」後ろから聞こえる若子の声。先ほどまでとは雰囲気が違って聞こえる。
「タケルくんのご両親が居なくなった時も来たよね」馴れ馴れしい言葉遣いだが、口調自体は緊張感を孕んでいるように感じる。
そもそも若子はなぜ、タケルをここに連れて来たのだろうか。一体、何がしたいのだろう。
「ここはね、秘密基地なんだよ」同じ場所に立ったまま、若子が言う。「いろんなものを隠すんだ」
「そう、お前が隠して、俺が見つける、という遊びを、ずっとやってた。今思い出した」たぶん、小学校の低学年の頃の思い出。
「あれね、見つかっちゃうと、実は嬉しいんだよね。悔しいけど嬉しい。で、見つからないと寂しい。見つけて欲しいけど、簡単には見つからないで欲しい」
タケルは若子の方を振り向く。逆光になっていて表情はわからないが、やはり先ほどまでとは違って、緊張感を感じる。
「でね、絶対見つかってほしくないものは、絶対見つからない場所に隠すんだ。タケルくんが探す時に、どこに隠したら見つからなくて、どこに隠したら見つけてくれるかって、だいたいわかってたんだ」
いつの間にか少しタケルの方に近づいてきているようだった。表情は、やはり逆光のためよく見えない。
「でもね」と言って少し間をとった。深呼吸をしているようだった。「絶対に見つけてほしくないところに隠したんだけど、でも絶対に見つけて欲しいって思うこともあったんだよ」
「それは、例えばどんなもの?」若子ばかり喋っているのが、なんだか若子に追い詰められているようで耐えられない。自分も何か喋らないと、息が詰まりそうになる。
「タケルくんが大事に思ってるものとかだよ。私、タケルくんの大事なものを、今まで結構な数盗んでるよ。自覚ある?」
「ないね」あせる必要はないのに、ついつい言葉を早くだそうとするタケルである。「おい、どうした?大丈夫か?なんか、ここに来てから顔色悪そうだぞ」
「盗んだ後はね、ここに持ってきて、一生懸命隠す場所を考えるの。タケルくんがどれくらい大事に思っているかによって、どこに隠すかを決めるんだけど、大事なものほど、見つかりにくい場所に隠すの。それで、タケルくんを呼びに行って、どこに隠したかって当ててもらうんだ」
「タケルくんから盗むのは結構簡単なんだよ。ほら、あんまりものに執着ってない方でしょ。でも、何を大事にしているかっていうのは、私はすごくよくわかってたよ」
「タケルくんに探してもらうときはね、なにを隠したかってことは言わないの。とにかく探してみてねって言って探してもらう。そうすると、タケルくんはとにかく探してはくれる。何が隠しているのかもわからないのに、よく探そうって気になるよね。深く感謝しているよ」
薄暗く静かな空間に、若子の声が響く。目の前の若子から発せられた声とは思えないくらい、空間を反響し、四方八方から聞こえるような錯覚を覚えた。
いや、目眩か。自分の平衡感覚がおかしくなっているような気がする。
「ちょっと、何を言おうとしているかわからない」
なんとか出した声も、この空間に吸い込まれ、若子には届いていないかもしれない。
「あの日もさ、ここに来てもらったよね」
「私は、私がやろうとしたことをやっただけ。でも、タケルくんにもし見つかったら、返さなきゃって思ってた」
「私が盗んだものってさ、なんだかんだ言っても、だいたいタケルくんに見つけられて、それでちゃんと元あった場所に返したよね」
「でも、見つからずにいたものも結構あったよね。あれってさ、私はさっき言ったみたいに、見つからない場所に隠したんだけど、タケルくんは本当に見つけることはできなかったの?」
若子は表情も姿勢も変わっていない。
「ほら、中学校のテストの答案用紙とかさ。あれタケルくん100点だったよね。あとは、高校生の時に中原中也の詩集とかも。見つけてくれなかったよね」
「よく、覚えているな」何とか声を出した。「そう、確かにここによく隠された。見つからなかったものは、あんまりよく覚えていない。テストのことは全く覚えていない。中也の詩集は、お前にあげたつもりだった」
「タケルくんは優しいからね。同情じゃなくって、本当に優しいんだよね。でも、優しさって、人を突き放すこともあるんだよ」
「あの時も」首筋に汗をかいている。緊張感で血の気が引いているのがわかる。「あの時も、見つけることはできなかった」
「違うよ。わざと見つけなかったんだよ。タケルくんは」
「お前は、どっちに賭けてたんだ?」
「見つける方」迷いなく答える。声の反響が止んだ気がした。「見つかったら、返さなきゃって思ってた。でも無理だから、私が捕まるしかないのかなって」
「父さんと母さんを、殺したのか」
沈黙が流れる。若子は言葉を発しない。沈黙が全てを物語っているということだろうか。わからない。あの時も、今も、何が正解なのか。
「今まで忘れていた。あの時も、そう、父さんと母さんがいなくなって、お前と一緒に探している時に、ここにも来た。念の為とか言って連れてこられた。それで…、この中よく探せって、言ってたな」
「見つけてくれるかなって、思ってたんだけどね」「私、中原中也の詩集は持って帰ったんだけど、でも一回も読まなかったよ」
「あそこの、北側の床に、掘り返したような跡があった」
そう、あの時、違和感は感じた。
その違和感の正体は、あの時、本当にわからなかったのか、わかろうとすることを放棄したのか。
「人が2人、埋まってる可能性は、あると思った。ああ、何で忘れてたのか…。なんで今、思い出すのか」
「ままならないね。でも人生ってそんなもんだよ」
若子の表情から、緊張感が消えたように感じた。
ーー見つかっちゃうと嬉しいんだよね。悔しいけど嬉しい。で、見つからないと寂しい。
「一朝一夕でできるようなもんじゃない。人を二人埋める穴を掘るなんて。根気良く穴を掘って完成させたところで、そこに死体を運ぶのだって大変だ」言葉を選ぶ余裕がなくなっていく。
「鹿本が共犯か」
独り言を言うように聞く。
「今日お前の家に呼ばれた。お前に呼べと言われたと、あいつは言ってた」
「ここに呼んでどうするつもりなんだ。父さんと母さんと同じ場所に、埋めてくれるのか?」
「やだなあ、私にそんな力ないよ」
「二人いれば可能だ」
「義昭さんは、向こうで待ってるよ。こっちにこないようには、それとなく言っておいた。絶対来ないよ。彼、本当にここが苦手なんだよ」
「何が目的なんだ」
「タケルくんに来てもらったのは、タケルくんに久しぶりに会いたかったからだよ。会って、一緒にご飯食べて、今の職場を見てもらって、ああ、元気に頑張ってるんだなって、思ってもらいたかっただけ」
「そのあと一緒にこの酒蔵に来て、隠し物を見つけて欲しかっただけ。7年前は、見つけてくれなかったからね」
そう、確かにあの時から北側の地面は掘り返されたような跡があった。ひょっとしたら、という思いは抱いた。見てみぬふりをしたわけだ。見ないように、気づかないようにした。
そして、今まで忘れていた。
「お前の家の火事に、父さんと母さんが絡んでいるのか?」
そう言った時に、若子がびっくりしたような顔をした。いや、相変わらず暗くて見えないが、そんな気配がした。
「そうだね。そうだったかもしれないね。でももう忘れちゃったよ。でもタケルくん、よく気がついたね」
「それくらいしか動機を想像することができない」
「動機なんて、なんでもいいじゃない。私はもう、テストを隠したのも、中原中也の詩集を隠したのも、なんでそんなことをしたかなんて、覚えてないよ」
「でも、タケルくんには見つけて欲しかったかも」
そうか。確かに、若子にあげようと思ったものは、わかってても見つけることはしなかった。若子はテストの点数が見たかったし、中原中也の詩集が欲しかったはずだ。いずれも、「タケルの」という意味が強いはずだと、そう思い込もうとしていたのだろうか。
お互いに、一方的なわがままを言い、一方的な愛情を抱いていたのか。
「見つけたら、何か変わってたかな」
そう、口にした瞬間、それまでの緊張が嘘のようになくなった。冷や汗も止まった気がした。
「それは、タケルくん次第じゃない? 少なくとも、私はなにも変わらなかったと思うよ」
若子は小さい時に天涯孤独となり、以来、一人で生きてきた。そして今も一人で生きているし、これからも一人で生きていくのだろう。
「鹿本は、知っているのか?」さっきと同じ質問だな、と思いつつ口にする。
「知ってても知らなくても、関係ないよね」
関係ない、と思えるのは若子だけだろう。そう言おうとしたがやめておいた。若子にとって関係なければ、それが全てだ。
「じゃあ、どうして今日俺をここに連れてきたんだ」
「さあ、どうしてだろうね」若子の声は終始落ち着いている。
「タケルくんには見つかってもいいかな、って思ったんだよね。でも、それももうどっちかわからなくなっちゃったな。見つかっても見つからなくても、何も変わらないし」
鹿本が知ってようが知っていまいが、若子の行動は何も変わらない。
鹿本は、若子の人生にそれほど大きな影響を与えることはできない。鹿本本人が思っているよりも、ずっとできない。
タケルも、いまや鹿本と同じで、若子に影響を与えることはできない。若子はこれから先もずっと一人で生きていくだろう。
いつからそうなったのか。7年前に真相に気づいていれば、また違った現在があったのだろうか? あるいは、もっと前に、テストを見つけていれば、中原中也の詩集を取り返していれば、違っていたのだろうか?
「戻ろっか。義昭さん心配させると良くないし」
若子はそう言って振り返り、歩き始めた。早くもなく遅くもない速度で。スカートの裾がそよ風に靡いている。タケルも若子も学生だったとき、同じ場所で同じ景色を見たことがある気がする。
なぜ、何事もなかったかのようにこの場を去ろうとできるのか?
何か声をかければ、何かが変わるかもしれない。
過去は変えることはできなくても、未来であれば、今この瞬間の選択で何かが変わるのではないだろうか。
しかし、タケルは何も言うことはできなかった。誰も、若子の人生に影響を与えることはできない。自分だけがそれをできると思っているのは、幻想に過ぎない。幻想に過ぎないものに、縛られてきたのだ。
去っていく若子をそのまま見ているだけだ。昔も今も。
昔も今も、これからも、きっと若子は一人で生きていく。
少し間を置いて、タケルも歩き始める。若子よりはゆっくりと。決して追いつくことはできない。
向こうに、鹿本義昭が見える。若子に手を振っていて、若子も手を振りかえしている。
もう、自分はここに来ることはないだろう。
若子と会うことも、もうないのだろう。
鹿本にプライベートで誘われることも、きっとないだろう。
若子は昔から変わっていない。
タケルも、きっと変わっていない。
しかし、昔の関係に戻ることは、もうない。
後ろを振り返る。この酒蔵も見納めかもしれない。
すべてを知ったところで、何も変わらない。
人も変わらないし、起こった事実だって変わらない。この酒蔵はその象徴として、ここに建ち続けるのだろうか。
タケルは再び前を見る。
鹿本と若子が並んで話をしている。さっきまでとは、全然別の夫婦であるかのような錯覚を覚えながら、二人向かって歩いていく。
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