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勇次は悲しみのエンジェル HOKURIKU TEENAGE BLUE 1980 Vol.14  長渕剛『勇次』佐野元春『インデヴィジュアリスト』RCサクセション『雨上がりの夜空に』

■ 長渕剛『勇次』作詞作曲:長渕剛 編曲:瀬尾一三 発売:1985年7月22日
■ 佐野元春『インディヴィジュアリスト』作詞作曲編曲:佐野元春 発売:1987年11月21日
■ RCサクセション『雨上がりの夜空に』作詞作曲:忌野清志郎、仲井戸麗市 編曲:RCサクセション 発売:1980年1月21日


はじめに

これまで、1980年代に10代を過ごした僕の(かなりうざい)自分語りに加えて、当時のヒット曲、邦楽界の話題を少量からめる形で進行していた本シリーズ。今回は少し趣を変えて、当時僕が偏愛した名曲と、その元ネタとおぼしき洋楽曲を並べる形で紹介したい。

とは言っても、ここで何も「パクリ」「まんまやん」とかそういう話をしたいわけではなく、「なるほどこう来たか!」「このアーティストのフィルターを通すとこうなるんだ!」という当時の興奮や、現在にして思う時代的な背景などを考え、語る場にしたい。

長渕剛『勇次』vs J.ガイルズバンド『悲しみのエンジェル』

80年代(特に前半)、我が国のメインストリームで活動するロック系男性シンガーに影響を与えた洋楽アーティストといえば、まずはブルース・スプリングスティーンの名前が浮かぶのではないだろうか?特に84年、アルバム『ボーン・イン・ザ・USA』が大ヒットして以降、その傾向が顕著になった印象がある。曲調だけでなく出で立ち(ジーンズに白Tとか)を含め、軒並み彼を意識した打ち出しをするアーティストが男女問わず明らかに増えた(と思う)。例えば、尾崎豊、浜田省吾、女性では中村あゆみ、渡辺美里etc.

長渕剛もその系譜上にあるように思える。彼のマッチョ化の理由は様々に言われているが、ボスその人への憧れも、その中に含まれている気がするのだ。

ともあれ、85年のシングル『久しぶりに俺は泣いたんだ』「夜ヒット」でマイクスタンドを振り回しながら歌う(まだ細身だった頃の)彼をみたときは、あまりの変貌ぶりに驚いた。一気にアメリカンロック・テイストに舵を切ったこの曲から『とんぼ』くらいまでのシングルが、個人的には一番好きだ。

『勇次』は85年7月、『久しぶりに~』に続くシングルとしてリリースされた。一聴して気に入った。もしかして彼の曲では一番好きかもしれない。実際、ファン人気も高く、彼自身も思い入れのある曲らしく、ライブでは頻繁に披露される定番曲のひとつである。リリース時のオリコン最高位は29位。しかし、この曲が、続く『SUPER STAR』『ろくなもんじゃねえ』『泣いてチンピラ』などのヒット曲へとつなぐ「2番打者」的な役割を結果的に果たしたというか、後の彼を用意した重要な一曲だと思う。

当時、繰り返し聴いているうちに、なんだかむくむくと「これ、前に聴いたことあるような」感がわきあがってきた。記憶を探ってたどりついたのは、J・ガイルズ・バンド『悲しみのエンジェル』だ。アルバム『FREEZE FRAME』は82年当時の愛聴盤で、この曲を特に気に入っていた。たしかアルバムから三枚目のシングルだったと思う。一枚目はかの大名曲『墜ちた天使』である。

いったん思い当たると、『悲しみのエンジェル』のオケに合わせて『勇次』が歌えるのでは?と思うほどの相似形ぶりに感じられた。イントロ、メロディ、アレンジの雰囲気、この曲を下敷きに『勇次』が作られたのは、まず間違いないと思う。

そして、詞の世界は、とてもブルース・スプリングスティーン的だなと感じた。人生のすべてに嫌気がさした主人公と彼に呼び出された友人、勇次の一夜の逃避行。しかし、遠く時間が過ぎてしまえば、行き止まりのようにみえた時代でさえ、輝いたものとして甘く懐かしく思い起こされる。そして気づくのだ。得体の知れない何かへの渇望感に苛まれた、あの「満たされない日々」こそが、青春そのものだったのだと。そして、いくら願ったところで、もう二度とそこへは戻れないのだと…。

J・ガイルズ・バンドやブルース・スプリングスティーンなど、泥臭いアメリカン・ロックの世界観を、日本的な風景と物語に置き換えたような歌世界。バブルの頂点へと向かわんとする80年代半ばに送り出す代物としては、いささか前時代的な匂いもあったけれど、僕のような人間にはそれがよかった。

いつだって時代に乗り損なう人間はいるもので、そんな自分を慰め、時に鼓舞してくれる存在がやはり必要不可欠なのだ。

佐野元春『インディヴィジュアリスト』vs ザ・スタイル・カウンシル『Internationalists』

ブルース・スプリングスティーンからの影響という点では、キャリア初期から彼の音楽性を誰よりも色濃くとりこんできたのが佐野元春だ。特に初期の3枚のアルバムは、詞の世界観、サウンドアレンジ等、誰が聴いてもその匂いは濃厚だと思う。ステージのパフォーマンスにしても、サックスプレイヤーとの掛け合いなど、かなり影響を受けているのは明白だった。

けれど、周囲にあからさまにブルースっぽいものがあふれてくる前に、彼はそこからいち早く身を翻すようにして、大胆にヒップホップに接近したアルバム『Visitors』を発表する。しかし、急激な作風の変化についていけないファン(僕のような)も多く、賛否は分かれた。

さて、次はどんな曲が来るのだろう思っていた僕の前にどん!と置かれたのが『Young Bloods』だった。『Visitors』で得たビート、言語感覚は持ち越しながらも、メロディアスでもあり以前の作品に近いとっつきやすさも備えた同作は、セールスも良く、オリコン最高位7位まで上昇した。

けれど、今度は周囲から「これってスタイル・カウンシル『Shout To The Top』にそっくりじゃない?」という声があがっていたのも事実だ。メロディ自体はそこまで似ていないと思ったが、ホーンのアレンジなどは、まあどこからどう聴いても似ているよなあ、というのが当時の感想だった。

ここからの数年は、スタイル・カウンシルとのニアミスというか、本人自身が「操縦ミスがあった」と後年述懐するような、ある種あやうい交錯が続く。きわめつけは、87年リリースの『インディヴィジュアリスト』。スタカンが85年にリリースした『Internationalists』と続けて聴けば、本人が「操縦ミス」と認めるのも納得のクリソツぶりだった。

しかし、この2作を続けて聴くと、『インディヴィジュアリスト』はスカのビートを強調したアレンジで、ダンスミュージックとしては佐野の方がより強力、という印象。下にそれぞれのライブ映像をはりつけておくので、観てみてほしい。当初の印象よりも、それぞれの音楽的個性の違いというか、そこからさらに先に進もうという佐野の意欲がみてとれて面白い。

佐野元春はその後も、時にルーツ・ミュージックに接近したり、スポークンワーズの手法を取り入れたり、様々な実験を続け、音楽スタイルを変化させながら現在に至っている。その長いキャリアを俯瞰した上で、80年代中盤から後半の活動にふたたび目をうつすと、ヒップホップの衝撃を経た後で、彼が次にどのような音楽を模索したのか、そのテーマがみえてくる気がする。

ヒップホップに傾倒したように、当時の彼は最新の音楽を創造することにこだわっていたし、その視線はNYの次に、今度はイギリスへと向けられたのだろう。ソウルやワールド・ミュージックをブリティッシュ・ロックに融合して新たなポップミュージックを作り出していた当時のムーブメントは、それこそ佐野が目指すところだった。その代表格であったスタイル・カウンシルに目がいくのはごく自然なことだったのかもしれない。

そんな一連の探求も90年代には彼のなかで一段落がついたらしく、92年のアルバム『Sweet16』以降、それまでのすべてを溶かし込んだような充実した作品が続く。そして、恐るべきことに10年代においてもとどまることなく、彼の音楽はさらに深みを増していると思う。

RCサクセション『雨上がりの夜空に』vs Mott The Hoople『Drivin’ Sister』

日本ロック史上に輝くアンセムにして、RCサクセションの代表曲。この曲の元ネタを知ったのは随分とあとのことだった。たしかロフトプラスワンでのイベントだったと思う。最初に聴いた時はぶっ飛んだ。

そして、とても意外に思った。清志郎といえば、オーティス・レディングだったり、ソウル・ミュージックの影響の方を誰しも感じるだろう。もしくはローリング・ストーンズ。それがまさかモット・ザ・フープルとは。グラム・ロックと清志郎はなかなか結びつかない。

しかし、思い返せば、彼のトレードマークでもあったどぎついメイクアップもグラム的といえばそうだ。また、84,5年くらいだったか、清志郎が何かのテレビ番組で、DJとして、自分のお気に入りのMVを流す企画があったのだが、その時にもスレイド『Run Runaway』をとりあげていた。その時も意外に思ったものだったが、案外、清志郎はグラム・ロックが好きだったのか。それとも、RCがロックバンド編成に変わった時に、その辺りの音楽を参考にしようと聴いていたのか。

そういえば後年、シングル『スカイパイロット』が出た時のインタビューでも、「いまはこういうものが流行るのかと、Van Halen『JUMP』を聴きながら作った」という風に語っていたこともあったっけ。

『雨上がり~』については、チャボがあのリフをいきなり弾き始めて曲作りが始まったということだが、たぶん、二人でレコードを聴きながら「このリフから何かできるんじゃないか?」なんて感じで、ギター片手にやっていたのかなと想像したくなる。

『Drivin’ Sister』は1973年にモット・ザ・フープルが発表したアルバム『MOTT』に収録されている一曲。歌詞の細かいニュアンスはわからないが、車、ドライブを題材にしているのは明白で、歌詞にも共通点がある。自分たちの曲を元ネタにしたと思しき作品が、日本ロック史上屈指の名曲に発展していることを、彼らは知っているだろうか(もし知っていたら、別の問題に発展しそうな気もするがw)?

YouTube上の『Drivin’ Sister』のコメント欄をみると、いくつかは清志郎を揶揄するようなものや、「がっかりした」的なことが書かれている。気持ちはわかる部分はある。けれど、どうなんだろう。では「Drivin’~」には元ネタがまったくないのだろうか。それはわからないが、ロック史上のレジェンドたち、例えばツェッペリンボブ・ディランにしても、先達の残したブルースやフォークの楽曲から直接的な引用を数多く行っているのは周知の事実だし、そんな元ネタから跳躍して別次元の創作を成し遂げたこともまた周知の事実だ。

RCの「雨上がり~」にしても、同様の跳躍を果たしていると思う。

「Drivin‘」は通常の、バース+コーラスのシンプルな構成だが、「雨上がり~」は、この後に、Cメロとして『どうぞ勝手に降ってくれ ポシャるまで いつまで続くのか 見せてもらうさ』が続き、いったん楽曲を落ち着かせてから、Dメロで必殺の大サビ「こんな夜に おまえに乗れないなんて こんな夜に発車できないなんて」が登場する。まるでスキーのジャンプ台から飛びたつごとく、ここで大きく楽曲が舞い上がっていく。

もしも清志郎とチャボの創作によるこれらの部分がなければ、もしも『雨上がり~』が『Drivin’~』の構成やメロをただなぞったような曲だったなら、同曲が日本ロック史上のアンセムになることはなかっただろう。というか、その程度のバンドだったなら、そもそもその後人気を博すこともなかったはずだ。


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